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73-10.古墳時代に朝鮮半島から流入した鉄素材は何か [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

図Z467は「弥生時代の鉄」(藤尾真一郎:2004)に掲載されている古代の製鉄工程を示した図である。藤尾氏は製錬・精錬・鍛錬鍛冶について、考古学的見地から分りやすく説明している。

Z467.古代の製鉄工程.png

 

製錬:原料である酸化鉄を還元し金属鉄を作り出す工程であるが、古代の場合は滓をよく分離した鉄を作ることは出来ない。考古学的には製錬系鉄塊が製品で、かすとして製錬滓が排出される。実際には滓と鉄がかみあった状態で排出されることがほとんどである。

精錬:滓と金属鉄が混ざり合っている製錬系鉄塊から、滓などの不純物を除去する工程である。その意味では二次製錬に近い。製品は精錬系鉄塊で、かすとして精錬鍛冶滓が排出される。

鍛錬鍛冶:2つの工程に分かれる。Aは精錬系鉄塊を鍛打して鉄中の不純物を除去する工程で製品は鉄鋌などの鉄素材、かすとして鍛錬鍛冶滓Aが排出される。Bは鉄素材を鍛打して鉄器を作る工程で、かすとして鍛錬鍛冶滓Bが排出される。

 

なお、藤尾氏の図Z467では、4世紀の沖塚遺跡(千葉県)・博多遺跡(福岡県)・纏向遺跡(奈良県)から精錬滓が出土しているとしている。精錬滓も製煉を伴なった製鉄の証拠となり得るとの見解からすれば、4世紀に我国では製鉄が行われていたことになる。しかし、私の判定では沖塚遺跡の鉄滓はT-e61%、製鉄指標0.71で精錬滓or鍛錬滓、博多遺跡59次(4世紀)の鉄滓はT-e59%、製鉄指標0.33で鍛錬滓である。纏向遺跡の鉄滓の組成はしらないが、これら3遺跡の鉄滓が4世紀に我国で製鉄がなされた証拠にはならないようだ。

 

『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。「弁辰と加耶の鉄」(東潮:2003)によると、銭のように用いていた鉄とは、斧状鉄板(板状鉄製品)で、3世紀を中心として三韓地域に分布する。この斧状鉄板は、貨幣の役割を持つ鉄素材として流通していたのであろうとしている。板状鉄製品は福岡の西新町遺跡、熊本県の二子塚遺跡、島根の上野Ⅱ遺跡・板屋Ⅲ遺跡、鳥取の妻木晩田遺跡、徳島の矢野遺跡、埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から出土している。

 

藤尾氏は「弥生時代の鉄」の中で、3世紀代に我が国で出土する「板状鉄製品」は、朝鮮半島南部で作られた低炭素系鉄素材である。冶金学的には塊錬鉄系(直接製錬)の鉄素材で、鍛錬鍛冶A工程によって作られた半製品と考えられるとしている。我国ではこの錬鉄の斧状鉄板(板状鉄製品)を輸入して、900~800℃に加熱し、鍛造して武器・利器・工具を製作したのであろう。3世紀(弥生後期後葉)に全国的に鍛造品の鉄器化が進展したのは、弁辰の錬鉄を使用して鍛冶(鍛造鍛冶)が行われたと考える。

 

東氏は、4世紀中葉ごろ斧状鉄板と入れ替わり鉄鋌が百済・新羅・加耶の地域で出現する。初期の鉄鋌の形状はバチ形で、6世紀になると小型化し、6世紀中葉ごろには鉄鋌という形の鉄素材が出土資料として認識できなくなるとしている。我国の5世紀の古墳から鉄鋌と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板でが、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。鉄鋌が出土した古墳の中で、最も古いのが5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳で、鉄鋌40枚が出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚が出土している。

 

大和六号墳(奈良市)より出土した鉄鋌の化学的調査によると、鉄鋌の炭素量は0.0540.71%と幅があるが低炭素系の鉄であり、Cuが高くTiが低いことから原料は鉱石であるとされ、顕微鏡観察により本試料が低温還元によって生産された鉄を鍛造して板状に成形したものであると推定されている。これらからすると、鉄鋌は3世紀代に我が国で出土する「板状鉄製品」と同じ、朝鮮半島南部で作られた低炭素系鉄素材であると考える。

 

板状鉄製品や鉄鋌を鉄素材として鍛練鍛冶し鉄製品を制作しても、その鍛冶炉の現場に発生するのは鍛冶滓でしかない。製煉系鉄塊が鉄素材として輸入されたと主張する学者もおられるが証拠は乏しい。我国の最古の製鉄遺跡とされているのは、岡山県総社市の古代山城として有名な鬼ノ城の麓にある千引カナクロ谷製鉄遺跡である。この製鉄遺跡からは、製鉄炉4基と「ナツメウナギ」と呼ばれる炭焼き窯が三基出土しており、年代は出土した須恵器より6世紀後半と判断されている。製煉滓・精錬滓が出土する5世紀以前の遺跡があれば、その地こそ、我が国で鉄製錬が最初になされた地でであると考える。


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73-11.最古の製鉄遺跡は何処か?小丸遺跡は疑問 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

私の集めた全国(北海道・沖縄除く)の217遺跡の718点の鉄滓から製鉄指標が0.75以上で、製錬滓あるいは精錬滓と判定した、5世紀末以前の遺跡を選び出したのが表Z468である。

Z468.5世紀以前の遺跡.png


縄文晩期とされている石川県加賀市にある豊町A遺跡の鉄滓は、砂鉄の製錬滓と判定した。加賀市豊町には中世の製鉄跡が多数あり、この鉄滓は中世のものの混入と考えられる。長崎県島原市有明町の下原下遺跡では2点の鉄滓が出土し、鉄滓が出土した層の下の層に縄文後期・晩期の遺物があり、縄文晩期の製鉄跡の可能性があると、1966年に有明町の教育委員会が報告している。鉄滓は砂鉄の製煉滓[精錬滓]と精錬滓と判定した。県教委のその後の調査で、鉄滓の出土したⅢ層の年代測定を行った結果、738年という数値が出ており、奈良時代の鉄滓であることが分かった。なお、その鉄滓の判定が分析者と異なる場合は、分析者の判定を[  ]で表記する。

 

福岡市早良区西新5丁目にある弥生中期後半の集落跡の西新町遺跡から椀形滓・鉄塊系遺物(含鉄鉄滓)・板状鉄斧が出土している。椀形鉄滓は鉱石の精練滓、鉄塊系遺物は砂鉄の精練滓[?]と判定した。一方、板状鉄斧(182x40x11mm)の始発原料は砂鉄[鉱石]と判定した。板状鉄斧は鉄素材で、鍛冶を行い鉄製品を作っても精錬滓が出来ることはない。西新町は博多湾近くであり、まさに弥生時代の朝鮮文化受け入れの津があったところである。朝鮮半島から板状鉄斧と共に製煉系鉄塊がもたらされ、それを精錬し精練滓が出来たとも考えられる。西新町遺跡の鉄滓が精錬滓であったことから、弥生時代に製煉があったとは言い切れないと思える。

 Z469小丸遺跡製鉄炉.png

広島県三原市八幡町の小丸遺跡出土の鉄滓は14点全てが始発原料が鉱石の製錬滓である。この遺跡は平成2年から平成3年に発掘調査がなされ、広島県埋蔵文化財調査センターは平成6年の発掘調査報告書で、同遺跡から出土した2基の製鉄炉を科学調査などで総合検討し、1号炉は鉄鉱石を使った3世紀の円形炉と公表し、これまでの学説から製鉄開始の年代が300年以上も遡ったことが話題となった。1号製錬炉は直径50cm、深さ25cmの円形土坑でその両側に鉄滓の詰まった円形土坑があり、さらに南東3m離れた所にも滓の入った円形土坑が2基確認されている。これらの遺構の南側斜面には滓・鉱石片・弥生土器の小破片が散布していた。

 

これに対し、国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎氏は「弥生時代の鉄」(平成16年)の中で、「1号炉の年代は、炉でない土坑から出土した木炭の年代(3世紀)と、南側斜面出土の弥生土器を根拠にしたもので、炉下層で見つかった木炭の年代(7世紀)は採用されていない。」と、その年代に疑問を呈している。埋蔵文化財調査センターが1号製錬炉を3世紀としたのは、地山も整形せずに、作業面も造らないという炉の築造方法が形式学的に古いということを重視したものであるようだ。これでは1号炉が3世紀のものか、7世紀のものか判断できない。

 

小丸遺跡の2号炉は、1号炉から約50m離れた地点にあり、直径45cmの円形土坑で炉の左右に幅20cmの溝が伸びていて、握り拳大の鉄滓が出土している。2号炉の年代は7世紀に比定されている。1号炉と2号炉の炉の大きさや構造はよく似ており、3百年以上の断絶があるようには見受けられない。1号炉は7世紀のものではないかと考える。


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