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37.仏教伝来を解明する ブログトップ

37-1.仏教は何時伝来したか [37.仏教伝来を解明する]

仏教が何時伝来したかについては、『日本書紀』に記載された552年説と、『上宮聖徳法王帝説』に基づく538年説の2説がある。『書紀』に欽明13年(552年)10月に、百済の聖明王が仏像と経論を献じたと記載され、『法王帝説』には、「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)、始めて渡りきて仏像・経典、併せて僧等を奉る。」とある。欽明天皇に百済の聖明王が仏像と経論を献じたことは両者同じであるが、『書紀』の編年に従えば、欽明朝には「戊午」の年は無い。聖明王は、『三国史記』によれば百済の聖王(諡を聖、諱を明穠)で、在位は523年から554年である。なお、聖王の父の武寧王の陵墓が忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から発見され、出土した墓誌には523年に崩御したとあり、聖明王の在位は正しいことが分かる。『法王帝説』の仏教伝来は、聖明王在位中の「戊午の年」で538年とされている。現在では、仏教伝来は『法王帝説』の538年説が有力視されている。 

『書紀』と『法王帝説』に記載された天皇の在位年数を比較してみた。
                 書紀  法王帝説
   
欽明天皇(志帰嶋天皇) 32年       41年
   敏達天皇(他田天皇)       14年            14年
      用明天皇(池邊天皇)           2年                3年       
      崇峻天皇(倉橋天皇)           5年                4年       
          
推古天皇(小治田天皇)    36年            36年 

用明天皇と崇峻天皇は1年違うが、両天皇を合わせた在位年数は同じである。これからすると、欽明天皇崩御は『書紀』・『法王帝説』共に571年である。『書紀』と『法王帝説』の編年の大きな違いは、欽明天皇即位で、『書紀』で540年、『法王帝説』で531年である。531年は継体天皇が亡くなった年に当たり、『法王帝説』の538年の欽明朝に仏教が伝来したことを認めると、安閑天皇(在位2年)・宣化天皇(在位4年)の両天皇は居なかったことになる。その矛盾を払拭するために、継体天皇亡き後に、安閑天皇・宣化天皇の勢力と、異母兄弟の欽明天皇の勢力で朝廷が分裂していたと言う、二朝並立説まで登場している。仏教は何時伝来したか、『法王帝説』の538年か、それとも『書紀』の552年か、その決着は着かないのだろうか。

37-2.『法王帝説』は「戊午」の年を創作 [37.仏教伝来を解明する]

聖徳太子の伝記の一つである『法王帝説』は、聖徳太子(上宮聖徳法王)の誕生を甲午の年(574年)とし、聖徳太子が薨逝された年を壬午の年(622年)としている。どちらも「午」の年である。聖徳太子の「聖徳」は諡名(おくりな)であり死後付けられた名である。生前は「厩戸(うまやと)」皇子と呼ばれていた。聖徳太子には「午」が関わっている。

 『法王帝説』には、「戊午の年の四月十五日、小治田天皇(推古天皇)、上宮王(聖徳太子)に請いて勝鬘経を講ぜしむ。その儀は僧の如し。」とある。戊午の年は推古6年(598年)にあたる。『法王帝説』は仏教伝来を「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年」としており、仏教伝来、聖徳太子勝鬘経講話にも「午」が関わっている。
  聖徳太子薨逝  勝鬘経講話  聖徳太子誕生  仏教伝来
    壬     戊      甲     戊
 
  622年   598年    574年   538年
聖徳太子の勝鬘経講話の年は、聖徳太子薨逝の24年前であり、聖徳太子誕生の24年後で、薨逝と誕生の中間の年に持ってきている。そして、仏教伝来を聖徳太子の勝鬘経講話より、干支一回り60年前の戊午の年、538年にしている。 

『法王帝説』と『書紀』共に、聖徳太子の仏教の師は、高麗より来日した恵慈法師としている。『書紀』では、恵慈法師の来日は推古3年(595年)5月の事である。その3年後の推古6年(598年)4月に、聖徳太子が勝鬘経を講じたとするのは、如何に聖徳太子が聡明であったとしても早すぎるように思え、『書紀』の推古14年(606年)の方が史実ではないかと考える。聖徳太子の勝鬘経講話と仏教伝来の「戊午」の年は、私には創作されているように思える。

37-3.仏教伝来した年は552年 [37.仏教伝来を解明する]

『書紀』の欽明13年(552年)には、百済の聖明王が仏像と経論を献じ、仏を広く礼拝する功徳をのべた仏教公伝の記事がある。「この法は諸法の中で最も勝れております。解かり難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無情の菩提を成し。」宇治谷孟訳『日本書紀下』。 

『書紀』の原文では、「是法於諸法中最爲殊勝難解難入。周公・孔子、尚不能知能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提」である。唐の義浄が長安3年(703年)10月に漢訳した『金光明最勝王経』の「巻一、如來壽量品」では、「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝難解難入。聲聞獨覚、所不能知能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提」とある。黄色の所を見れば、『金光明最勝王経』をもとに、『書紀』が記述されている事が解る。これらより、『書紀』の欽明13年(552年)10月の仏教伝来は、後世の捏造であるとして信頼されていない。 

『書紀』の欽明紀が編纂される時には、その述作者の手元には、義浄が漢訳した『金光明最勝王経』があったのは間違いない史実であろう。しかし、欽明紀の述作者が仏教伝来の全てを捏造したとは思えない。「35-2.推古天皇崩御の年を考える」で示したように、『書紀』の推古36年の皆既日食の記事は、日本で目撃された記録が、『書紀』編纂の時まで残っていたこと証明していた。仏教伝来についても、述作者の手元には、仏教伝来当時の「原史料」が存在していたと考える。 

聖明王が仏を広く礼拝する功徳をのべた文章の原史料には、曇無讖が421年頃漢訳した『金光明経』の初めの部分「金光明經序品第一」が書かれてあったと想像する。
  「是金光明 諸經之王 若有聞者 則能思惟 無上微妙 甚深之義」
『金光明経』の「是金光明 諸經之王」(これ金光明経は 諸經の王であり)と、『書紀』の「是法於諸法中 最爲殊勝(この法は諸法の中で最も勝れている)は、同じ事を言っている。 

『書紀』の天武9年(680年)には、金光明経を宮中や諸寺で読経された事が記載されている。この金光明経は曇無讖の『金光明経』であるが、欽明13年(552年)に百済から伝来した可能性があるのだろうか。『三国史記』によれば、百済の聖王は19年(541年)に使者を梁に派遣し、涅槃経などの経義を持ち帰っている。この経義の中に曇無讖が漢訳した『金光明経』があったと想像する。
 

中国の南朝梁の初代皇帝武帝(在位502~549年)は、「皇帝菩薩」と言われる程、仏教に帰依していた。武帝は546年、扶南国(ベトナム南部)にいたインド僧真諦を招聘した。真諦は漢訳すると訳2万巻にもおよぶ梵文(サンスクリツト語)の経典を持参して、548年に梁の都建康(南京)に到着し、武帝の知遇を得たが、侯景の乱に遭遇し、冨春(浙江省)に赴き経典の翻訳を行った。552年梁の元帝が即位すると、真諦は建康に帰って「金光明経」を訳出している。
 

真諦は鳩摩羅什・玄奘・不空金剛とともに四大訳経家と呼ばれているが、インド僧であり梁に来たとき漢文に長けていたとは思えない。梁に来てから、鳩摩羅什や曇無讖の梵文から漢訳された経典を読み、漢文が達者になったのであろう。梁の武帝の時代、都の建康には曇無讖が漢訳した「涅槃経」や「金光明経」があったと想像出来る。
 

百済の聖明王は541年に「涅槃経」や「金光明経」を梁から授かり、欽明天皇に曇無讖の『金光明経』を奉じたのである。仏教は『書紀』の記載通り、欽明13年(552年)10月に百済から伝来したと考える。『書紀』の「原史料」には、欽明13年(552年)に百済の聖明王が仏教を伝えたという記事が、曇無讖の『金光明経』を引用して書かれていた。『書紀』の述作者は、その部分を義浄の『金光明最勝王経』を潤色して書き直した。仏教が伝来した552年には存在しない『金光明最勝王経』を、『書紀』が引用しているからと言って、「仏教伝来」が捏造された訳ではない。仏教伝来は、『書紀』の記述通りの552年と考える。

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