17-1.七支刀に刻まれた年代 [17.空白の4世紀を解く]
大阪府立近つ飛鳥博物館の展示室に入ると、正面に国宝七支刀のレプリカが展示されている。この七支刀は、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身をいれると七つの枝に分かれる特異な形をした剣で、奈良県天理市石上神社の御神宝となっている。 昭和56年、NHKはテレビで特集「謎の国宝七支刀」を放映している。NHKはこの七支刀の復元を計るとともに、この剣に彫られている金象嵌(模様を刻み金をはめこんだもの)の60余字について、X線による判読を奈良国立文化財研究所に依頼している。このX線による解読により、従来不明瞭だった10文字のうち7文字が明らかになり、より精度の高い解読がなされた。これらの解釈には色々な説があるが、一般的には次のように読み下している。
表、「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。百兵を避け、侯王に供する宣し。口口口作」。裏、「先の世以来、未だこの刀は有らず。百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。後世に伝え示せ。」さて、この七支刀が製作され倭王に供された年代を訪ねたい。金象嵌はその年を「泰和四年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はない。「泰和」は「太和」であろうと言われている。「太和四年」となると、魏の太和四年(230年)、東晋の太和四年(369年)、北魏の太和四年(480年)が考えられるが、通説のように東晋の太和四年(369年)が妥当と考える。
書紀神功52年(252年)に、次のような文章がある。「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、『わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。』と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って、『今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂(た)れて、海の西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない』といった。それ以後毎年相ついで朝貢した。」
この文章に出てくる「七枝刀」が、石上神社の「七支刀」であることは、間違いないであろう。書紀の「孫の枕流王に語って」からすると、百済の王は枕流王の祖父の「肖古王」となる。朝鮮の史書、三国史記によると肖古王は346~374の在位となっており、七支刀に刻まれた泰和(太和)四年、369年とは合っている。 しかし、書紀の編年では神功52年は252年となり、肖古王の時代とは大きくかけ離れている。第1章3節で示したように、書紀は干支2廻り(120年)繰り上げた編年を行っている。 この干支2廻りの繰上げを考えると神功52年は372年になり、私の年表では応神12年に当たる。372年はまさに、肖古王の時代である。また、七枝刀に象嵌された「泰和(太和)四年」369年とは3年間の差のみであり、百済で作られ倭国の手に入る期間を考えると、妥当な年数である。七支刀の金石文、三国史記、日本書紀が全て一致している。
17-2.七支刀は百済と倭国の同盟記念 [17.空白の4世紀を解く]
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それでは、肖古王の立場に立って、七支刀を奉じた事情を考えてみる。百済の肖古王にとって、高句麗の南下政策は脅威であった。高句麗と戦うためには背後の新羅からせめられることがない政策を取る必要にせまられていた。そんな最中、366年に倭国の使者がやってきた。そこで倭国をして新羅を牽制しようと考えた。肖古王は使者を丁重にもてなし、多くの土産物を持たせて帰した。367年には倭国に使者を派遣し、新羅が百済の倭国への貢物を奪ったと報告した。倭国は新羅に対して敵意を抱いた。それだけでは不安であったので、新羅に使者を派遣し、良馬二頭を送る懐柔策も取った。
369年春3月、倭国が新羅に戦いを仕掛けたので、肖古王は王子貴須と共に倭国軍に援軍を派遣した。幸い倭国は勝利を治め、耽羅が百済の領土となった。そこで百済と倭国は同盟を結んだ。これを記念して5月に七支刀を造り始めた。秋7月になって、高句麗王斯由が三万の兵で南進し、百済に攻め込んできた。肖古王はこれを撃破することが出来た。371年再び高句麗が百済に攻め込んできたがそれを撃破し、逆に高句麗領土の平壌まで攻め込み、高句麗王斯由を打ち取った。これも倭国との同盟があったからのことである。かねてより製作依頼していた七支刀が出来たので、倭国に使者を送って奉じた。
七支刀象嵌文字、日本書紀、三国史記はその内容が見事一致しており、神功46年の記述から65年までの朝鮮に関する記述は、書紀から割り出した年月に120年加算して編年すれば、史実を表していることが明白である。七支刀は百済と倭国の同盟の記念品であった。
17-3.広開土王碑に彫られた時代 [17.空白の4世紀を解く]
中国の史書は歴史資料として価値の高いものであるが、しかしその史書が現在まで伝わっているのは原本でなく写本である。この写本を行っていくなかで、脱字・脱行・あるいは別の字との置き換わりがなされた可能性がある。この点から考えると、広開土王の碑文は古代に刻まれたそのままが残っており、歴史資料としては一級のものといえる。しかしながら、碑文の倭国に関する事項が、明治から昭和にかけて日本の覇権主義者にとって、都合の良い内容であり、まして、最初の関係者が軍人であったことなどから、改ざんが行われたのではないかと言う説もある。
この碑は、高句麗の広開土王(392年~413年)の業績を讃えるため、没後2年に息子の長寿王により、414年に建てられたものである。広開土王碑は高さ6.3m、幅1.4~1.9m。碑には約12cm四方の大きさで、深さが6㎜程度の文字が、四面に渡って約1800字刻まれている。碑文は三段からなり、第一段は高句麗の開国伝承と建碑の事情、第二段は王の功績、第三段は墓守りに関するものである。倭国に関する記述があるのは第二段で、広開土王が四方に領土を拡大した業績を讃美した部分の中にある。
この碑文は建立された当時のままであるが、その内容は史実の通りであろうか。好太王の業績を讃えるため、史実を伝えながらも表現が誇張されたり、正悪・強弱・勝敗・攻守など、反対であることも考えられる。広開土王の時代について、朝鮮の史書「三国史記」、日本書紀と比較してみる。 三国史記は1145五年に、金富軾により編纂されたものである。広開土王碑は414年息子の長寿王により建立されたものであり、資料としての価値は広開土王碑に軍配があがる。しかし、三国史記には高句麗のみならず、百済・新羅から見た客観性のある記述があり、好太王碑の内容をチェック出来ると考えた。また、広開土王の時代の、朝鮮半島と大和朝廷との出来事を日本書紀に求めた。
17-4.高句麗と百済、新羅と倭国の戦 [17.空白の4世紀を解く]
広開土王の時代は書紀の編年通りにみると、応神天皇3年から25年にあたる。この期間は、「七支刀に刻まれた年代」で述べた通り、朝鮮との関連記述は120年加算して編年する期間に該当し、私の年表では仁徳10年から仁徳31年にあたる。広開土王の時代の朝鮮と倭に関する事柄を、広開土王碑文、三国史記、日本書紀の記述を表13に記載した。
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広開土王碑には、391年の記述の前に、「百済・新羅はもとから高句麗の属民で朝貢して来ていた」とある。三国史記でみると、高句麗と百済の争いは、七支刀の記述にあったように、369年から始まっている。この369年から390年までの間で、高句麗が百済に攻め込んだのが6回、百済が高句麗に攻め込んだのが4回である。389年、390年と高句麗は百済に攻め込まれている。これから見て両者は互角であり、広開土王碑にある、百済が高句麗の属国であったと言えない。
三国史記を編纂した金富軾は、広開土王碑の碑文は見ていないであろうが、両者の歴史の流れについては非常に良く似ている。また、日本書紀の記述が「百済記」を参照して書かれているためか、三国史記と非常に話が通じている。ただ倭国の百済に対する高圧的な態度は、史書によくある誇張が入っているものと思う。三国史記によると、392年に百済は高句麗に敗れている。392年の日本書紀には、「百済が倭国に礼を失した」としている。また、広開土王碑には396年に百済は高句麗に討伐されたと彫られている。397年の日本書紀には、「百済が倭国に無礼をした」と記載している。百済の倭国に対する「無礼」とは、高句麗との戦いに負けたという事であろう。
広開土王碑と三国史記、そして日本書記とを比較して考えると、392年から413年の広開土王が在位した、22年間の朝鮮半島における歴史の史実は、高句麗と百済、新羅と倭の争いがあり、高句麗と新羅、そして百済と倭の同盟関係があったということで、従来考えられていた倭が百済を破り従え、高句麗と直接戦闘を交えたことではなく、百済と倭の同盟軍が高句麗と戦ったということだと考える。ただ、その同盟も人質を出しての同盟関係でそれほど強くない。キャスチングボードを握っていた倭国に、高句麗も新羅も接触してきている。 広開土王が即位した当初、高句麗は百済に対して優位な立場にあり、南下を果たすことが出来たが、百済が倭との同盟関係をむすんでからは、その南下政策が思いにまかせず、高句麗にとって、倭が目の上のたんこぶとなり、好太王碑の碑文の表現になったと思われる。