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9-1.三角縁神獣鏡は卑弥呼が貰った鏡 [9.卑弥呼の貢物と賜物]

魏志倭人伝によると、景初二年(238年)に邪馬台国の女王卑弥呼が魏に朝献の使者を派遣し、皇帝から「親魏倭王」の金印と鏡百枚を授かつている。この金印と百枚の鏡は、正始元年(240年)に卑弥呼のもとに届けられた。「親魏倭王」の金印は未だ発見されていないが、卑弥呼の使者が魏に滞在していた年の、魏の年号を持つ鏡が7面、我が国の古墳より出土している。景初三年銘2面、景初四年銘2面、正始元年銘3面である。これらの紀年鏡より、卑弥呼が魏から百枚の鏡を貰ったのは、史実であったことが明らかとなった。表11にそれらの鏡を記す。

表11紀年鏡.jpgこれらの鏡の種類は、三角縁神獣鏡4面、画文帯神獣鏡1面、斜縁盤龍鏡2面である。画文帯神獣鏡や斜縁盤龍鏡は中国で出土する鏡であるが、三角縁神獣鏡は日本全国から約500面(舶載375面、仿製128面)も出土しているにもかかわらず、中国本土・朝鮮半島からは1面も出土していない。このため三角縁神獣鏡の製作地が中国だ、倭国だ、呉の職人が倭国で作ったという論争が起こっている。なお、中国では三角縁画像鏡と言われる外縁が三角形の形をした鏡は存在し、神獣鏡と言われる神像(東王父・西王母)と獣形(龍)のある鏡も存在する。それらが合わさった三角縁神獣鏡が存在しないのである。だから、三角縁神獣鏡が中国で製作されたと考える人は、倭国のための特注品であるという意見が多い。
                                           (図をクリックすると大きくなります)
図23三角縁神獣鏡.jpg三角縁神獣鏡が卑弥呼の貰った鏡だと言う事になれば、その分布から邪馬台国は大和に存在した事が明白になる。また、三角縁神獣鏡が前方後円墳から出土することが多く、配布したのは大和王権であることが明確であり、邪馬台国と大和王権の連続性を示す証拠でもある。邪馬台国九州説の研究者には、三角縁神獣鏡は卑弥呼の貰った鏡ではなく、その製作地は倭国であるという人が多い。私は卑弥呼の時代の邪馬台国は日向だが、壱与の時代の邪馬台国は大和という立場をとっており、三角縁神獣鏡の分布とは整合性が取れている。

三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か、またその製作地は何処か、私なりの全く新しい視点から考えて見る。それは、神武天皇が宇陀川の朝原で「飴(水銀)が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る」と言った言葉だ。「武器を使わないで天下を平定する」とは、まさに鏡を諸国に配布することで天下を平定することが出来ると意味であり、「飴(水銀)が出来れば」とは、丹砂(朱砂・辰砂・朱)がベンガラでなく本物の水銀朱であればという意味だ。丹砂を魏に献上し、その見返りに鏡を賜れば、武器なしで諸国を平定出来るというストーリーである。もちろん、神武天皇は卑弥呼の息子であり、邪馬台国は卑弥呼亡き後、大和に遷都したという前提である。



 

 
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小林 攻一

景初三年銘古墳三角縁神獣鏡 小林 攻一 投稿日:2014年11月06日 20:18 No.1473


出雲国神原神社古墳より出土の景初3年銘三角縁神獣鏡。】

西暦238年(景初2年)6月、邪馬臺國女王俾彌呼の遣使難升米(ダン・スンミ)こと檀・蘇民(タン・ソミン)別名・須佐之男命と都市牛利(トヒゴリ)2名が登場する。
帯方郡太守の劉夏に魏國皇帝への朝献申請を行う為である。

西暦238年(景初2年)12月、難升米(須佐之男命)たちは、申請許可が下りたので、太守劉夏と共に魏國洛陽へ上献。

※西暦239年(景初3年)正月明帝崩御。

『三國志』巻四「魏書」三少帝紀第四条原文『(景初3年)十二月、詔曰「烈祖明皇帝以正月棄背天下(略)』と、明皇帝が景初3年正月に
棄背天下(崩御)。
この皇帝の死亡を公布したのは崩御後の景初3年12月の事である。

明皇帝が崩御してから、約一年間も秘密裡とした事情には、
激動乱世であった三国鼎立時代がその所以であろう。

皇室の下級官僚や諸侯そして中国人民の殆ど、そして鋳工たちは
皇帝の崩御を知るはずが無い。
従って、景初4年銘の銅鏡は既に景初3年中に製作鋳造しているのが
当たり前の事。

西暦240年(正始元年)は魏廃帝芳時代の年号。

西暦240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、
天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを持参のうえ
邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。

※魏国帯方郡の太守がわざわざ倭国の卑弥呼に接見している。

※出雲国島根県松江市の神原神社古墳より、景初3年銘の三角縁神獣鏡が出土している。正に魏国皇帝から届けられた“鏡”であろう。

西暦243年(正始4年)12月。
伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に皇帝から
受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、お礼の為に魏朝へ上献する。

2014年11月6日 小林 攻一




by 小林 攻一 (2014-11-06 20:38) 

小林 攻一

第1回 「出雲邪馬台国研究会」 設立会の報告
日時:2014年11月16日(日) 午前10時~12時
場所:北見市民会館 2号室   参加者:5名

1・小林代表より「出雲邪馬台国研究会」の設立意図について説明。
2・各会員の自己紹介。
3・研究課題の討議。
⑴ 邪馬台国は日本海(東海)に面した所にあり山を背に都(国邑)を建立した。
⑵ 国宝「翰苑」(唐:張楚金撰/雍公叡注)西暦660年以前に作成。「大宰府天満宮」より蕃夷部一巻が伝存所蔵。
邪馬臺國と卑弥呼(注釈)についての転写されている。※中国には現存無し。
原文『慿山負海鎮馬臺建都』 訳「倭国は山に寄りかかり、海に面して邪馬臺國を治め都とした。」
原文『邪届伊都傍連斯馬』 訳「邪(斜・ななめ)に行くと伊都国に届く。
(邪馬臺國)傍(隣)の斯馬國(石見国)に連なる。
⑶ 景初3年銘“卑弥呼の鏡”として発見された三角縁神獣鏡の場所は、出雲国・島根県松江市加茂町「神原(神宝)神社古墳」。
正始元年(西暦240年)魏皇帝より邪馬臺國女王卑弥呼に景初3年銘・景初4年銘・正始元年銘の洛陽製銅鏡が届けられている。
国内にはこの銅鏡が7枚出土。
邪馬臺國の比定地は、出雲国意宇郡・島根県松江市東出雲が最も蓋然性が高く有力である。
⑷ 魏・隋の遣使と帯方郡大守等は邪馬臺國までの行路航行として、帯方郡西岸から錦江を水行。
小白山脈の秋風嶺を越し狗邪韓国の北岸(洛東江)に着き、倭館を経由後“迎日湾”に到着。
そしてリマン海流・対馬海流と東南風に乗って投馬國(隠岐国都万)と邪馬臺國まで到達した。
こうした陸行と水海行が最短距離であり危険が少ない行路として考証できる。
※対馬海峡は潮流が早く古代船では釜山~対馬横断航行が至難。従って出雲航路が最も難破遭難が少く
“視界達距離航法”(竹島こと欝陵国に上陸~松島こと竹島そして投馬國・耼羅國・躭矣羅国こと隠岐国経由)が
自然航海である。正に古代航海は『潮に乗り、風に乗り』である。
4・自由討議
SK氏より『邪馬臺國は謎なので興味がある。古代日本史はアイヌ語と古代朝鮮語を以って解釈しないと解明が出来ない。
も出版しており北見市中央図書館に蔵書しています。』
YS氏より『私はオホーツク考古学(擦文土器等)を研究しています。今回の邪馬臺國研究会では初めて聞く事が多く驚いています。』
IM氏より『日本には邪馬臺國に関する書籍はないのですか?』
小林より:国宝「翰苑」と「日本書紀」巻九条六十六年の条(倭女王臺與貢献の条文)。
出版日:慶長15年(西暦1610年)古活宇版:舎人親王 責任表示。を説明。

※次回「第2回 出雲邪馬台国研究会」のご案内
日時:2014年12月14日(日) 午前10時~12時
場所:北見市民会館 3号室 (和室)
by 小林 攻一 (2014-11-17 20:33) 

小林 攻一

第1回 「出雲邪馬台国研究会」 設立会の報告

日時:2014年11月16日(日) 午前10時~12時
場所:北見市民会館 2号室   参加者:5名

1・小林代表より「出雲邪馬台国研究会」の設立意図について説明。

2・各会員の自己紹介。

3・研究課題の討議。

⑴ 邪馬台国は日本海(東海)に面した所にあり山を背に都(国邑)を建立した。
⑵ 国宝「翰苑」(唐:張楚金撰/雍公叡注)西暦660年以前に作成。「大宰府天満宮」より蕃夷部一巻が伝存所蔵。
邪馬臺國と卑弥呼(注釈)についての転写されている。
※中国には現存無し。

原文『慿山負海鎮馬臺建都』
 訳「倭国は山に寄りかかり、海に面して邪馬臺國を治め都とした。」

原文『邪届伊都傍連斯馬』
 訳「邪(斜・ななめ)に行くと伊都国に届く。
(邪馬臺國)傍(隣)の斯馬國(石見国)に連なる。

⑶ 景初3年銘“卑弥呼の鏡”として発見された三角縁神獣鏡の場所は、出雲国・島根県松江市加茂町「神原(神宝)神社古墳」。
始元年(西暦240年)魏皇帝より邪馬臺國女王卑弥呼に景初3年銘・景初4年銘・正始元年銘の洛陽製銅鏡が届けられている。
日本国内にはこの銅鏡が7枚出土。
邪馬臺國の比定地は、出雲国意宇郡・島根県松江市東出雲が最も蓋然性が高く有力である。

⑷ 魏・隋の遣使と帯方郡大守等は邪馬臺國までの行路航行として、帯方郡西岸から錦江を水行。
白山脈の秋風嶺を越し狗邪韓国の北岸(洛東江)に着き、倭館を経由後“迎日湾”に到着。
そしてリマン海流・対馬海流と東南風に乗って投馬國(隠岐国都万)と邪馬臺國まで到達した。
こうした陸行と水海行が最短距離であり危険が少ない行路として考証できる。
※対馬海峡は潮流が早く古代船では釜山~対馬横断航行が至難。従って出雲航路が最も難破遭難が少く
“視界達距離航法”(竹島こと欝陵国に上陸~松島こと竹島そして投馬國・耼羅國・躭矣羅国こと隠岐国経由)が自然航海である。
正に古代航海は『潮に乗り、風に乗り』である。

4・自由討議

SK氏より『邪馬臺國は謎なので興味がある。古代日本史はアイヌ語と古代朝鮮語を以って解釈しないと解明が出来ない。
私は本も出版しており北見市中央図書館に蔵書しています。』
YS氏より『私はオホーツク考古学(擦文土器等)を研究しています。今回の邪馬臺國研究会では初めて聞く事が多く驚いています。』
IM氏より『日本には邪馬臺國に関する書籍はないのですか?』
小林より:国宝「翰苑」と「日本書紀」巻九条六十六年の条(倭女王臺與貢献の条文)。
出版日:慶長15年(西暦1610年)古活宇版:舎人親王 責任表示。を説明。

※次回「第2回 出雲邪馬台国研究会」のご案内
日時:2014年12月14日(日) 午前10時~12時
場所:北見市民会館 3号室 (和室)
by 小林 攻一 (2014-11-17 20:38) 

小林 攻一

上記コメント重複いたしました。
お手数でしょうが(2014-11-17 20:33)の記事を削除願います。
by 小林 攻一 (2014-11-17 20:43) 

小林攻一

【「魏書」三少帝紀条】翻訳
『12月、詔書を出して曰く、烈祖明皇帝は正月に亡くなった、臣子としてその忌日の哀愁を永遠に忘れられない。
そのため、改めて夏の暦法を復活させる。これは亡くなった皇帝の統一の考えに背くが、礼儀作法はこういうふうに変えるものである。
また夏の暦法の正月は「天の正月」を得ており、そのため、寅の月を以って正始元年の正月とする。
そして、丑の月を景初最後の12月とする。』 
翻訳者 趙方任文学博士

【『晋書』天文中 七曜雑星気史翻傳事験】より
『青龍2年十月乙丑,月はまた「填星」を犯す。占い結果は前と同じ。戊寅,月は「太白星」を犯す。
占いの結果「君主が死す。また戦争を起こす」と言う。
景初元年7月,公孫文懿が反乱を起こした。
二年正月,宣帝が討伐させた。
三年正月,天子が崩御(逝去)する。
四年三月已巳,太白星と月はともに昼間に姿を見せた。そして、月は「太白星」を犯す。
占い結果は前回と同じ。
景初元年十月丁未,月は「熒惑星」を犯す。占い結果は「貴人が死んだ」と言う。
二年4月,司徒韓既が死んだ。斎王嘉平元年正月甲午,太白星が月を襲う。
宣帝は永寧太后が曹爽を殺したことを報告した。』
以上、「景初三年正月には天子(明皇帝)が崩御しており、
景初四年(西暦240年)三月已巳に「太白星と月はともに昼間に姿を見せた。」と
占い師が明確に“景初四年”三月の出来事を記述している。
結論として邪馬臺國女王卑弥呼に魏皇帝から届けられた銅鏡100枚の中に景初4年銘の洛陽製銅鏡は存在する事になる。

『三国志』「魏書」より丁巳景初元年十月丁未は西暦237年10月14日。
庚申景初四年三月己巳は西暦240年3月6日。
by 小林攻一 (2015-03-07 19:32) 

小林 攻一

第4回「出雲邪馬台国研究会」例会のご報告
2015年3月23日
「出雲邪馬台国研究会」代表 小林 攻一

日時:2015年3月23日(月)午前10時~13時
場所:「北見市民会館」2号室 司会:上名 秀和さん
参席:7名

議題
1・第3回「出雲邪馬台国研究会」のまとめ。
2・古代日本史についての自由討論。
3・「三国志」倭人伝に登場の邪馬台国高官“伊支馬”は往馬・生駒こと大国主命。
1・第3回「出雲邪馬台国研究会」のまとめ。

【1】「後漢書」「三国志」「隋書」「翰苑」記載の邪馬台国条文の補足説明。
※『倭』『委』『夷』の語音『倭』は「ウォ」。『委』は「ウェィ」。『夷』は「イ・ヰ」。
※金印『漢夷奴国王』は「かんイヌ王国」と読む。※『漢委奴国王』ではない。
※国宝「翰苑」記載『邪馬臺國隣の斯馬国に連なる。』
斯馬国とは「石見国」『シマ・シュマ』は、岩・岩山・島の意。「日本アイヌ地名小辞典」著:山本直文より

【2】魏帝から邪馬台国卑弥呼に届けられた受賜の景初3年銘“神獣鏡”は
出雲国:島根県松江市大原郡「神原神社」古墳から出土。「神原神社」祭神大国主命の“神御財”である。
by 小林 攻一 (2015-03-25 11:23) 

小林 攻一

2・古代日本史についての自由討論。

SKさんより『古代の日本地名の成り立ちをアイヌ語を基に研究すると解読出来る。』
SKさんより『釧路のクシロ。串本のクシモトなど“クシ”はアイヌ語の“(海から)船で渡る”の意。
このクシを漢字「櫛」「古志」で表記したため人名・地名の由来が意味不明となっている。』
小林代表より『須佐之男命が八俣大蛇の八頭目を退治後、
新居「八重垣神社」の櫛稲田姫の別名も久志伊奈太美等與麻奴良比売命(クシいなだミトヨマヌラひめノみこと)。
また、須佐之男命の別名に櫛御気野命(クシみけぬノみこと)がある。
筑紫(チ・クシ)の「チ」は我々。「クシ」は通路。日向高千穂の久志布流気(クシふるたけ)。
越国(越前・越中・越後)のコシもクシであり大国主命が越・古志国を平定。
伊弉弥命(伊弉那彌命(イザナミノの命)の時、出雲国に古志国人が堤を築造後住み付いたので古志郷と言う。「出雲国風土記」より
※アイヌ語「クシ」の『櫛・串・久志・楠・越・筑紫・釧路・』水上の道。川の水路・海上路の意味。
※「鹿児島」カ・クシ・マの「カ」は上方。「クシ」は通路。「マ」は共に入り江・港に対する古語。『常に通路とする港のある処。』

小林代表より『「出雲国風土記」地名(郷)由来の条は大和朝廷が好い加減な根拠で改変。』
KFさんより『「出雲国風土記」の地名由来はでたらめなのですか?』
小林代表より『「出雲国風土記」は古代日本史には貴重な文献だが地名由来の条文は
大和朝廷が意宇国・出雲国・須佐之男命・大国主命など邪馬台国に関連する
地名・人名・神名については作為改変している。地名は漢文字が伝播する遥か二千以前から既に存在している。
例えば仏教用語の『黄泉』は「こうせん」と読む。アイヌ語『イユ』「意宇」の“イ”は処。
“ユ”は『温泉』であり温泉処の意。道後温泉の伊予国のイヨも“イユ”であり温泉処。「よみ」では無い。
後世に於いて、邪馬台国に関連する地名・人名・神名が抹消されたり
卑語賤称・難字・多画数文字・難訓読みなどを以って改変しているのが大きな特徴であり
逆に改竄された文字を見ると邪馬台国との密接な関係が 判明できる。
※「出雲国風土記」伊努郷条に『赤衾伊努意保(イホ)須美比古佐倭氣能命』に意保(イホ)の送りカナが記載。
「意」は『オ』では無く『イ』である。卑弥呼の遣使“掖邪狗”イサガこと伊保大明神を祭神とした
出雲国に「伊佐賀神社」が鎮座。※伊保大明神を阿保(阿菩)(アホ)大神と改竄されているが地元の人は『意保・伊保(イホ)さん』と呼んでいる。
そして「出雲国風土記」には須佐之男命の八俣大蛇についての記載が無い。』

TFさんより『沖縄の人とアイヌは良く似ておりアイヌ民族は日本全土に居たのだろうか?。
また国名“上野・下野”もアイヌ語では?』
小林代表説明『「日本アイヌ地名小辞典」(著:山本直文)には日本全土の各地名がアイヌ語にて解説されて
います。例えば“茶臼山”の「チャシ」は砦。津・大津の「ツ」は凹形状の港・入り江。能登・江戸の「ト」凸形状の岬・半島の尖った処。
“アイヌモシリ”とは日本全土の意であり北海道に限定するのは誤りです。
“上野・上毛”は「ちがやなど多く茂った地方」の群馬県。“下野・下毛”は「篠竹の多い山地」の栃木県。 
※沖縄人とアイヌはDNA鑑定結果では同一民族の結論だ出ている。
MSさんより『古代史について対馬海流などの研究者が少ない。
古代日本の歴史は海流が大きく関係しているとは思わなかった。』
by 小林 攻一 (2015-03-25 11:26) 

小林 攻一

3・「三国志」倭人伝登場の邪馬台国高官“伊支馬”は生馬・往馬こと大国主命。

【1】景初3年銘卑弥呼の神獣鏡が出雲国島根県松江市大原郡加茂町。「神原神社古墳」
(祭神:大国主命)こと「神宝神社」より出土。
「出雲国風土記」より「神原:神御財」の記載。『神原郷(かむはらノさと)。郡家(ぐうけ)の正北九里なり。
古老の傳へに云へらく、所造天下(あめノしたつくらしし)大神の神御財(かむみたから)積み置き給ひし處なれば、
則ち神財郷(かむたからノさと)と謂ふべきを、今の人猶誤りて神原郷と言ふのみ。』とある。

【大国主命の別称】
1・伊古麻都比古神・伊支馬・伊去美(いこま)。
 ※伊去美と奴佳鞮こと額田は通訳高官・額田部臣押嶋は従父兄。
2・所造天下大神(あめノしたつくらししおおかみ)
3・大己貴神・大穴牟遲神・大汝命神((おほなむちノかみ)
4・葦原色許男神・葦原醜男神(あしはらしこおノかみ)
5・八千矛神・八尋鉾長依日子命(やちほこノみこと)
6・宇都志國魂神・顕國玉神(うつしくにたまノかみ)
7・美穂津彦神(みほつひこノかみ) 8・大國魂命(おおくにたまノみこと) 9・大神命(おおかみノみこと)
10・大地主神(おおとこぬしノかみ) 11・大黒様など。

【2】「生馬神社」「往生馬神社」祭神:伊古麻都比古神こと大国主命。
①出雲国島根県松江市東生馬町「東生馬神社」祭神:大岩明神。
②出雲国島根県松江市西生馬町「西生馬神社」祭神:大岩明神。
③「往馬大社」奈良県生駒市壱分町鎮座。祭神:大国主命こと伊古麻都比古神。
「往馬大社」は本来生駒山をご神体山として御祀りされた古社。
祭神は伊古麻都比古神(イコマつひこノかみ)と伊古麻都比賣神(イコマつひめノかみ)火の神。
【奴佳鞮は額田】新羅系の通訳高官。奴佳鞮・ナカテはヌカタ・額田と音韻は転訛。
「岡田山1号墳」は前方後方形に築造されており、副葬品である中国製の内行花文鏡・4本の
太刀類・馬具類などが大正4年に石室内から発見された。
その後、昭和58年に「元興寺文化財研究所」へ円頭太刀のX線調査依頼をしたところ
刀身部分から「額田部臣」の銘文が判明した。額田部臣(奴佳鞮)は「出雲国風土記」の
大原郡少領として名前があり、大きな勢力を持つ出雲在地の豪族。
邪馬國(大和国)現在の奈良県生駒郡平城村の「額田」と同一神。

※大物主命は須佐之男命・素戔嗚尊。
「大三輪神社座次第」
奥津磐座:大物主命こと須佐之男命。
中津磐座:大己貴神こと大国主命。
辺津磐座:須久比古命こと少彦名命が鎮座。
by 小林 攻一 (2015-03-25 11:29) 

武本Timothy

図23とhttps://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2019-03-21-2の図Z308とhttps://syoki-kaimei.blog.ss-blog.jp/2011-06-30-2の図11の出典をお教えいただけませんでしょうか?

個人手的には大和・邪馬台国との繋がりを示す鏡や三種の神器は、現在だとお札・神符類、別名「宮笥(みやげ)」そしてお土産の原型ですから、お土産のように由来・生産地にはなくその周りにあるはずですから、西日本とくに(小生在住の)山口県だろうと思います。国つ神のシンボルかもわかりません銅剣・銅矛は同じく出雲を中心とした空中構造的に分布しています。さすが「八千矛神」の大国主は出雲にご引退されました。バルト(Roland Barthes)の『象徴の帝国』と河合速雄の『中空構造』の中空構造も、このようなシンボルを使われる日本であるからだと思います。.バルトが言うように、象徴はアリバイのような構造があります。アリバイがあれば、現場にはいませんでした。象徴があれば発生地にはいません。現場には本物があるからです。山口人は高天原(高海原)(秋吉台?)と天(海)岩屋戸(秋芳洞?)がありましたので、それらのシンボルは不要でした。現在も、秋芳洞の前で販売されている(大理石・鍾乳石などの)名物・お土産は、他県の方しかご購入されないそうです(安富屋専務, 2019/10/1)。
by 武本Timothy (2019-10-02 11:54) 

t-tomu

図23:三角縁神獣鏡の分布(除く仿製)
図11:銅剣・銅矛の分布図
Z308:前期古墳出土の三角縁神獣鏡と三種の神器の分布図
以上3点は、筆者自身で作成したものです。
by t-tomu (2019-10-02 21:40) 

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