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32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦 ブログトップ

32-1.聖徳太子像が消えている [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

NHKは今年2月15日、BS歴史館 シリーズ英雄伝説(2)「聖徳太子は実在したか!?」を放映している。その番組内容は、「『実在しない』と説が出るほど謎に包まれた英雄・聖徳太子。古代の常識を塗り変える、明らかになった新事実とは?わたくしたち日本の原点を揺さぶる巨大ミステリーを徹底追及!」と紹介されている。このミステリーの解明に、私も挑戦してみようと思う。

日本が飛躍的に高い経済成長を遂げていた時代に、“聖徳太子”と言えば、それは1万円札のことであった。1万円札に描かれた聖徳太子の肖像は、宮内庁所蔵の「唐本御影」と呼ばれている肖像画をD1.聖徳太子像.jpg元に描かれたものである。この肖像画は「聖徳太子及び二王子像」とも呼ばれ、通説では向かって左側が弟の殖栗皇子、右側が息子の山背大兄王と云われている。1万円札の聖徳太子像は1984年(昭和59年)から福沢諭吉像に変わり、我々の財布からは「聖徳太子像」が消えてしまった。
 

1996年に歴史学者の大山誠一氏が「聖徳太子研究の再検討」の論文を発表し、「聖徳太子は実在しない、日本書紀において創造された」という説を唱えてから、多くの研究者が日本書紀や法隆寺系金石史料は、後世に捏造されたものであるとする論文を発表し、それまでに燻っていた聖徳太子に対する疑義に火が付いた。
 

大山氏は「聖徳太子は実在しないが、厩戸王は実在した。」と述べており、偉大なる聖人としての聖徳太子の全ての記事を後世の捏造としている。国立教育研究所による調査では、普通高校の日本史の教科書11冊の中で、「聖徳太子」の単独表記のものはなく、「聖徳太子(厩戸皇子)」表記が5冊、「厩戸皇子(聖徳太子)」表記が6冊であるそうだ。戦後の歴史教育で習った「聖徳太子像」が消えようとしている。
 

私は日本書紀に書かれた記事には誇張もあり、勝負・正悪・清濁・譲奪を反対に書いていることもあると思っている。しかし、書紀が書いた記事の根底には史実が書かれている、あるいは史実が潜んでいると考える。日本書紀は編纂者が捏造した歴史書ではなく、史実をもとに編修した歴史書と考える。聖徳太子実在を証明するために、文献資料としては日本書紀と上宮聖徳法王帝説、金石文として法隆寺系史料を使い、聖徳太子が実在した証拠を一つでも見つけ、聖徳太子が実在しないとする根拠を一つでも崩してみたい。
 

日本書紀の用明紀には「穴穂部間人皇女を立てて皇后とした。皇后は四人の男子を生んだ。一番目を厩戸皇子という。またの名は豊耳聡聖徳という。あるいは豊聡耳法大王という。あるいは法主王という。」とある。その後の表記は全て「皇太子」である。書紀は「聖徳太子」という語句は一切使っていないが、私は皇太子となった厩戸皇子を「聖徳太子」と表記して行く。なお、大山誠一氏の見解は、著書「聖徳太子の誕生」吉川弘文館からその多くを引用した。


32-2.日本書紀の“表記の癖” [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

聖徳太子について述べる前に、日本書紀の“表記の癖”について述べておきたい。飛鳥時代とは飛鳥に宮・都がおかれた時代で、崇峻天皇から始まっており、聖徳太子の父親の用明天皇は、古墳時代の最後の天皇ということになる。古墳時代に相当するのが、第10代の崇神天皇から第31代の用明天皇までで、書紀は23代の天皇と神功皇后の記事を記載している。これらの記事には、「天皇」という語が全部で821ヶ所に書かれてある。「天皇」という語が最も多い天皇は雄略天皇で129ヶ所、最も少ないのが成務天皇・反正天皇の8ヶ所である。 
D2 稲荷山鉄剣.jpg
1978年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣から「辛亥年」「獲加多支鹵大王」の金象嵌された文字がX線検査より発見された。以前から知られていた熊本県菊水町の江田船山古墳出土の鉄剣に銀象嵌されてあった「治天下獲□□□鹵大王」の文字も、同じ「獲加多支鹵大王(ワカタキロ大王)」であることが分った。これらより「ワカタキロ大王」は、日本書紀で「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇」、古事記では「大長谷若建(おおはつせわかたけ)命」とされている雄略天皇に比定され、「辛亥年」は471年に定められた。これらより天皇は、古墳時代の全ての期間ではないかもしれないが、「大王(おおきみ)」と呼ばれていたことが分かる。
 

因みに、古墳時代の天皇の記事で、「大王」という語が使われている天皇を調べた。仁徳天皇1ヶ所。允恭天皇6ヶ所、雄略天皇1ヶ所、継体天皇1ヶ所、顕宗天皇2ヶ所、欽明天皇4ヶ所であった。欽明天皇の4ヶ所は百済の聖明王に対して使用している。残りの5人の天皇は、全て前天皇が崩御してから即位するまでの間に使用されている。書紀は「天皇」という語は、即位後に使うことを原則にして書かれている。
 

「天皇」という語が使われ始めた時期については、天武朝というのが通説であるが、推古朝からという説もある。しかし、書紀は全ての時代に対して、「天皇」に相当する地位の人であれば、たとえ「大王」と呼ばれていても「天皇」と表記している。このことは「天皇」の語のみならず、他の呼称についても言えることである。この書紀の“表記の癖”を理解すると、書紀が書いた史実が見えてくる。

32-3.日本書紀は時代考証していない [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

『日本書紀』によると、孝徳朝の大化二年(646年)に大化改新の詔が発せられ、その中には地方行政区分を新たに「国―郡―里」に定めるとある。これらの「郡(コホリ)」および「里(サト)」の実態が、紀年と地名が書かれた荷札木簡から解明されている。市大樹著「飛鳥の木簡―古代史の新たな解明」によれば、藤原宮(694~709年)跡から多数の荷札木簡が出土し、それらから、地方行政区分の「コホリ」は700年までが「評」、大宝律令が完成した年の701年からは「郡」と書かれていて、例外は全くないと記載している。

D3 飛鳥石神遺跡.jpgまた、飛鳥石神遺跡から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、飛鳥浄御原令の編纂が始まった681年から683年頃であることが分った。断定されていないが、646年の大化の改新で実施されたのは「国―評―五十戸」制であったが、『日本書紀』は大宝律令の知識にもとづいて、大化改新の詔を「国―郡―里」と表記したとしている。市大樹氏は、「大化改新の存在を否定する見方に共感を抱いていたが、飛鳥の木簡を自ら整理するようになると、大化の改新も基本的には認めてよいのではないか」と、思うようになってきたと書かれている。 

『書紀』の「郡」の表記は、古墳時代の天皇(崇神天皇~用明天皇)では71ヶ所、飛鳥時代(大宝令前)では121ヶ所である。書紀は「郡」に相当する行政区分が「評」呼ばれていても「郡」と表記している。『書紀』の「評」の表記は、継体天皇24年に百済の地名として「背評」が2ヶ所出て来るだけだ。因みに朝鮮語の「評」は「郡」の意味だそうだ。また、地名については
書紀編纂当時の地名で表記してあり、その時代に使われていた地名であるかという時代考証はしていない。歴史学者は豊富な知識があるがゆえに、『書紀』の”表記の癖”の大きな落とし穴に落ちて、「日本書紀は捏造されたもの」との結論を出してしまうのであろう。

32-4.厩戸皇子は皇太子になったか [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

推古紀に「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とした」とある。皇太子について大山氏は、「大王が生存中に後継者を指名するという皇太子制は日本にはなかったのである。大王がなくなると、しばしばその後継争いが起こったのは、そのためであった。皇太子制は、中国の制度に由来するもので、制度的には持統3年(689年)に編纂された飛鳥浄御原令において定まった。(中略)『日本書紀』には、初代の神武天皇にさかのぼって、原則としてどの天皇にも皇太子がいたことになっているが、もちろん、中国の歴史書をまねて書き加えたものにすぎず、歴史的事実ではない。」と述べている。 

古代から天皇には正室以外に何人もの側室がおり、何人もの男の皇子(御子)が生れている。天皇が生存中に次の後継者を選ばなかったということは考えられない。もちろん、後継者が決まっていても、天皇が亡くなってから後継争いが起こることもある。それは世の常である。「皇太子」の称号が生れたのは飛鳥浄御原令からとしても、後継者としての「皇子(御子)」は選んでいたであろう。書紀は長男の「皇子」を「大兄皇子」と呼んでいる場合があり、皇太子は長男が基本で、「大兄御子」と呼ばれていたと考える。ただし、長男の年齢・能力・母親の出自により、
 原則が踏襲されない場合もあったと思われる。

大山氏は「推古紀において、聖徳太子が、一貫して皇太子として描かれていることは大変奇妙なことになる。(中略)皇太子という地位に即して聖徳太子が登場するなら、皇太子という地位そのものがなかったとしたら、聖徳太子もいなかった、ということにならないだろうか。」と述べている。大山氏の見解は三段論法で、「皇太子という地位そのものがなかった」ということが「真」でなければ、「聖徳太子もいなかった」との結論にはならない。「皇太子という語」がなかったという事は在り得ても、「皇太子に相当する地位」がなかったとは思えない。これ以上は水かけ論、どちらにも決定的証拠はない。
 

聖徳太子が摂政として推古天皇に仕えたことは、推古紀に「仍錄摂政、以万機悉委」とある。日本古典文学大系と新編日本古典文学全集は、「仍
()りて 録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ 万機(よろずのまつりごと)を以て 悉(ことごと)く委(ゆだ)ぬ」と読み下している。解釈の難しい「錄摂政」についは、宋の科挙試験の参考書にある「録は総なり」から「総摂政」と解釈して、用明紀の「総摂万機、行天皇事」と同じと考えている。聖徳太子が推古天皇の摂政として、全ての政治・政務に携わったことを証明して行きたい。

32-5.「三宝興隆の令」を考える [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

『書紀』が信用できないとした大山氏も、推古朝の冠位十二階と小野妹子の遣隋使などの記事は、『隋書』によって事実と確認出来るとしている。冠位十二階の制定と遣隋使などの確実な史実を含む記事には、主語に「皇太子」の語が出て来ないが、三宝興隆のような具体性に欠ける記事や、十七条憲法制定のような疑問のある記事には、主語に「皇太子」の語を記して、聖徳太子の業績を強調しているとしている。そして、確実な史実を含む『書紀』本来の文章が書かれた時点では、まだ聖徳太子は存在していなかった。「皇太子」を主語とする聖徳太子関係記事は、後から付加された文章であると結論付けている。 

『書紀』の記載は大山氏の指摘の通りだが、「具体性に欠ける記事」、「疑問のある記事」は大山氏の主観であるように思える。三宝興隆については推古2年(594年)に「詔皇太子及大臣 令興隆三寶。是時、諸臣連等、各爲君親之恩、競造佛舍」と記載している。漢和辞典によると「詔令」は「詔
は天子が、「令」は皇后・太子が下に告げる文とある。推古2年の記事は「推古天皇が聖徳太子と蘇我馬子に詔(みことのり)を下し、皇太子及大臣が臣・連に三宝興隆を命じた。そうすると多くの臣・連が、競って佛舍を作った。」という内容で、「令興隆三寶」とは「寺を造れ」という命令だろう。 

推古32年(624年)の記事には、「寺を調査して各寺の縁起を記録した。そのとき寺は46ヶ所あった」とある。石田茂作氏は文献と古瓦の編年的研究により、飛鳥時代に創立したと推定される寺を『飛鳥時代寺院址の研究』に41ヶ所掲げている。その内36ヶ所の寺院が大和・山城・河内・和泉・摂津・近江と飛鳥の近隣にある。
 

当時の命令は何によりなされたのであろうか。紙・木簡それとも口頭なのだろうか。『書紀』書には推古18年(610年)に高句麗から僧曇徴がきて、紙・墨を作ったとある。木簡の最古のものは、飛鳥にある山田寺の遺構からの出土したもので643年頃とされている。紙に書かれた最古のものは、正倉院にある大宝2年(702年)の美濃国の戸籍である。三宝興隆の令が発せられた推古2年(594年)当時は、まだ文字を書くことは難しく、命令は口頭により近隣の臣・連に伝えられたのであり、後世には「寺を造れ」という趣旨だけが残ったのであろう。『書紀』の三宝興隆の記事は史実を伝えており、大山氏の主張する、後から付加された文章ではないと思う。

32-6.「憲法十七条」はいつ書かれたか [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

『書紀』は推古12年(604年)4月3日に、聖徳太子が自ら始めて「憲法十七条」を作ったとしている。上宮聖徳法王帝説』には、推古天皇の御世乙丑の年(605年)7月、「十七余の法」を作ったとある。ただ、憲法十七条の文章が引用され残っているのは、書紀』だけである。憲法十七条の読み下し文の難しい漢字を、同じ意味の易しい漢字、またはひらがなに直し、各条の初め部分を下記に示した。 

 第1条、和を以って貴しとなす。争いごと無きを旨とせよ。(略)
 第2条、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。(略)
 第3条、詔は必ず謹んで承れ。君を則ち天とし、臣を則ち地とす。(略)
 第4条、群卿百寮、礼をもって本とせよ。民を治める本は、必ず礼にあり。(略)
 第5条、餮を絶ち、欲を棄てて、訴訟を明らかに裁け。(略)
 第6条、悪を懲らしめ、善を勧めるは、古の良き典なり。(略)
 第7条、人各々任有り。掌ること宜しく、乱れざるべし。(略)
 第8条、群卿百寮、朝早く、遅く退け。公事暇なし、終日にも尽し難し。(略)
 第9条、信はこれ義の本なり。事毎に信あるべし。善悪成敗は必ず信にあり。(略)
 第10条、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違うを怒らざれ。(略)
 第11条、功過を明らかにみて、賞罰必ず当てよ。(略)
 第12条、国司国造、百姓にむさぼるなかれ。国に二君なく、民に両主なし。(略)
 第13条、もろもろの官に任ずる者、同じく職掌を知れ。(略)
 第14条、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。我人を嫉めば、人また我を嫉む。(略)
 第15条、私に背きて、公に向うは、これ臣の道なり。(略)
 第16条、民を使うに、時をもってするは、古の良き典なり。(略)
 第17条、事は独り断ずべからず。必ず衆とともによろしく論ずべし(略)
 
津田左右吉氏は戦前から、憲法十七条が推古朝時代のものとしては不自然であると指摘して、奈良時代に太子の名をかりて、このような訓戒を作り、官僚に知らしめようとしたものであると結論付け、その根拠に三点を挙げている。大山氏は、その三点の要約を著書『聖徳太子の誕生』に載せている。
 第一は、第12条に「国司」という語が見えるが、国司は国を単位に行政的支配を行う官人
 のことで、大化改新前にはありえない。
 第二は、憲法の全体が君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれている
 が、推古朝はまだ氏族制度の時代でありふさわしくない。
 第三は、中国の古典から多くの語を引用しているが、これらは奈良時代の『続日本紀』や
 『日本書紀』の文章に似ている。

大山氏は「国司という官名は大宝元年(701年)に編纂された大宝律令以後のものである。それは『日本書紀』編者の文飾で、本来は『国宰』などとあったとしても、推古朝に国造と並んで百姓を統治する地方官は存在しなかったのである。また、何よりも、十分中国文化を吸収した時代に書かれた『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ているのは、隋の高祖(文帝)に『此れ太だ義理なし』と言わせた文化レベルに相応しくないと言えよう。ここは、むしろ、『日本書紀』の編者自身の手になった文章と考えるのが妥当なのでないか、津田氏はそう主張されたのである。もちろん、私自身も、この津田氏の指摘はまったく妥当なものと考えている。」と書かれている。

32-7.憲法十七条の「国司」は「国宰」 [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

憲法十七条が推古朝時代のものとしては不自然であると指摘した根拠の第一は、「国司の語は大化改新以前にはありえない。」であった。『書紀』には、古墳時代の天皇の記事に、「国司」の表記が8ヶ所出て来る。仁徳天皇紀では「遠江国司表上言」の1ヶ所、雄略天皇紀では「任那国司」が2ヶ所と「臣連伴造毎日朝參、國司郡司隨時朝集」である。清寧・顕宗・仁賢天皇紀では「播磨國司 來目部小楯」が5ヶ所出て来る。推古天皇の前の崇峻天皇紀では「河内国司」の表記が3度出て来る。 

「播磨國司 來目部小楯」の最も詳細な記述は「播磨國司 山部連先祖 伊豫來目部小楯」である。『古事記』の清寧天皇記では「山部連小楯、任針間國之宰」とある。『書紀』では国宰のことを、国司と表記している。「国司」・「国宰」の読みは、「くにのつかさ」「くにのみこともり」であり、大化改新以前には「国宰」という職務が、一部の地域ではあったと考えられている。
 

「国造(くにのみやつこ)」は、大和朝廷が地方の王(豪族)を支配下におくシステムであった。「国造」となった地方の王は、多分「屯倉」や「県」を朝廷に差し出す事で、地方での領地を朝廷から認められたのであろう。朝廷側からみれば、国造の領地を朝廷の権限がおよぶ領地とし、官吏に運営させたいと考えたに違いない。だから、江戸時代に幕府が外様大名に行った施策と同じように、後継者や権力争いで問題を起こした国造を取り潰し、国宰を派遣したと考える。
 聖徳太子の時代には「国宰」と「国造」の両方が存在していたと考える。時代考証感覚のない書紀の編纂者は、憲法十七条に「国司国造」と、「国宰」を「国司」と表記しただけのことである。

32-8.「憲法十七条」は聖徳太子が制定 [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

憲法十七条が推古朝時代のものとしては不自然であるとする根拠の第二は、「中央集権的官僚制の精神で書かれており、氏族制度の時代にふさわしくない。」である。確かに、憲法十七条は群卿・群臣・百寮の語があり、官僚への戒めが多く書かれている。

崇神天皇から用明天皇までの、古墳時代の天皇紀について、群卿・群臣・百寮の語について調べた。ただし、「平群臣」の語は省いている。
 群卿は5天皇23ヶ所、群臣は15天皇63ヶ所、百寮は8天皇13ヶ所である。「臣(おみ)」は別として、「卿」「寮」は当時何と呼ばれていたか分からないが、律令制度下の「卿」「寮」に相当する官僚としての職務があったのであろう。大和朝廷に直接使える者への戒めが憲法に書かれているとすれば、氏族制度となんら矛盾がない。 

第三は、「中国の古典からの引用語句が多く、『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ている。」である。書紀の編纂者は、歴史を漢文で書き残そうとしたのであって、過去に用いられた言葉・語句をそのまま書き残そうとしたのではない。たとえ、憲法十七条の記録が残っていたとしても、それをただ単に書き写すのではなく、編纂当時の言葉で書き直すことに意義を感じていた、またそれが求められていたと考える。
 

例えば、江戸時代の史料を書き直すとすると、歴史学者は原史料として原文そのままを残すことを求めるであろうが、一般人は読んで解かる現代語に直すことを求めるであろう。歴史学者と一般人は求める視点が違うのだ。文章を現代語に書き直したからと言って、歴史を捏造しているわけではない。日本書紀は天皇に撰上されるものであり、天皇が読んで解かる文章でなければならない。『書紀』に書かれた憲法十七条は、聖徳太子が作成し後世に伝わっていた文章を、書紀編纂者が編纂当時の言葉で書き直したものと考える。

「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」の著者である森博達氏は、漢文で書かれている日本書紀を、音韻・語彙・語法・文体で分析されている。それによると、推古朝の本文も憲法17条の条文も同じ倭習(倭化漢文)があり、同一人の日本人により書かれているとしている。森氏は憲法の製作年代は、推古朝が書かれた年代に近く、少なくとも書紀の編纂が開始された天武朝以後であるとされている。日本書紀に書かれた憲法17条の文章は、天武朝以後であるかも知れないが、聖徳太子が書いた原本があったと、私は考える


32-9.冠位十二階制度の創設 [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

推古11年(603年)12月に冠位制度が創設されている。冠位は徳・仁・礼・信・義・智の六階に、それぞれ大・小の二階あって、全部で十二階である。翌年の正月には、始めて諸侯に冠位を賜っている。『書紀』が信用できないとした大山氏も、推古朝の冠位十二階は史実であると認めている。それは、『隋書』に冠位十二階の事が記載されているからだ。もし、『隋書』に記載がなかったならば、後世の捏造であると、憲法十七条と同じ運命をたどったのかも知れない。 

『隋書』倭国伝は、内官には十二等級があって、徳・仁・義・礼・智・信の六等級に、それぞれに大・小の二等級あるとしている。しかし、『隋書』と『書紀』は同じ十二等級を示しているが、その等級の順序が違っている。『隋書』は「徳・仁・義・礼・智・信」で、『書紀』は「徳・仁・礼・信・義・智」である。儒教で言われる五常(五徳)は、『隋書』の通りの「仁・義・礼・智・信」である。冠位十二階制度は何故「仁・礼・信・義・智」の順序にしたのであろうか。
 
D4 五行説.jpg
『上宮聖徳法王帝説』には「准五行定爵位」とあり、「五行に准
(したが)い、爵位を定める」と読める。「五行」とは五行思想のことで、中国の戦国時代に生れた自然哲学で「万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成る。その5元素は互いに影響を与え合い、その相互作用によって天地万物が変化し循環する」という考え方である。その相互作用には「木→火→土→金→水」の相生作用と「木→土→水→火→金」の相克作用がある。 


D5 五徳と五行説.jpg相生作用は、「木生火(木が燃えて火を生み)、火生土(火は灰から土を成し)、土生金(土から金属が産出し)、金生水(金属が冷えて水滴が生じ)、水生木(水は木を育くむ)」である。相克作用は「木克土(木は土から養分を取り)、土克水(土は水を吸い込み)、水克火(水は火を消し)、火克金(火は金属を溶かし)、金克木(金属は木を切り倒す)」である。図D4は五行思想を表わし、円周方向の変化が相生作用、星形の変化が相克作用である。
 


D6 冠位十二階.jpg儒教の五常(五徳)、仁・義・礼・智・信を五行に置き換えると図D5に見られるように、相生作用に「仁・義・礼・智・信」を以てくると、相克作用は「仁・礼・信・義・智」の順序となる。『隋書』は冠位を五常(五徳)の相生作用で表わしており、『書紀』は相克作用で表わしている。冠位十二階制度が「仁・礼・信・義・智」の順序にしたのは、儒教の祖である孔子の説いた「仁・礼」を、意識して上位の階に定めたためであろう。図D6の様に「徳」を真ん中に据えれば、冠位十二階そのものが表現されている。『上宮聖徳法王帝説』が書いているように、冠位十二階は五行思想により作られている。
 

冠位十二階制度の創設される1年前の推古10年10月に、百済の僧観勒がやってきて、暦の本・天文地理の本・遁甲方術の本を奉っている。このとき、書生3~4人を選び、暦法・天文遁甲・方術を僧観について学ばせている。暦法・天文・遁甲(占星術)・方術(道教)の根底には五行思想があり、僧観勒により五行思想が教えられたと考える。


聖徳太子は仏法を高麗の僧恵慈に、儒教の経典を覚哿博士に習ったと『書紀』は記載しているが、僧観勒により道教・五行思想を習ったのではないかと思う。聖徳太子は儒教・仏教・道教の三教を習得し、その知識を基にしで、冠位十二階制度と憲法十七条を創設したと考える。それらの創設は律令制度への先駆けであった。
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