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66-5.我国の鉄製錬はいつ行われたか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

我国で製鉄が行われるようになったのは、古墳時代後期後半、6世紀の半ばからで、広島県東部から岡山県にまたがる古代の吉備地方であるというのが現在の定説である。現在、最古の製鉄遺跡と目されているのは、岡山県総社市のカナクロ谷遺跡、岡山県津山市の大蔵池南遺跡、広島県三次市の白ヶ迫遺跡、島根県邑南町の今佐屋山遺跡で、出土した須惠器から6世紀後半と見られている。当初の製鉄原料は朝鮮半島と同様に磁鉄鉱であったが、やがて砂鉄が使われるようになった。いわゆる「たたら製鉄」の始まりである。砂鉄は日本の各地で産出するために、製鉄が日本の各地で行われるようになった。

 

Z269.たたら製鉄炉.png我国の製鉄は19世紀半ばに高炉による製鉄技術が導入されるまで「たたら製鉄」であった。出雲の砂鉄による「たたら製鉄」は有名である。たたら製鉄では箱型の炉を使い、木炭と砂鉄を交互に投入し、炉の下部の羽口にフイゴ(蹈鞴:たたら)から送風する。炉の上部では砂鉄に含まれる酸化鉄が還元され鉄となり、炉の下部では砂鉄に含まれる酸化鉄と他の酸化物(SiO2Al2O3CaOMgOTiO2)が反応して溶融しノロ(Slag)となる。ノロには酸化鉄が多く含まれるので、鉄滓(金糞)と呼ばれている。還元された鉄は木炭と反応して炭素を吸収し鋼や鋳鉄の鉄塊となる。ノロは炉底から流れ出され、半溶融の鉄塊が炉を壊して取り出される。

 

鉄の含有率が高く酸化チタンが少ない砂鉄(真砂)の場合は、「鉧(けら)押し」と呼ばれる直接製錬法(1150℃前後)で鉧を造る。鉧は「精錬鍛冶」で鍛造されて不純物が取り除かれ錬鉄や鋼(玉鋼)となる。玉鋼からは日本刀が造られた。鉄の含有率が低く酸化チタンが多い砂鉄(赤目)の場合は、「銑(ずく)押し」と呼ばれる間接製錬法(1300℃前後)で銑(銑鉄)を造る。銑は炭素量4.3%で溶融温度が1135℃と低く鋳造され白鋳鉄となる。また、銑は「精錬鍛冶」で溶解処理されて炭素量を下げ可鍛鋳鉄・鋼・錬鉄の地金を造る。

 

弥生時代に鉄製錬が成されたという考えに対して、考古学者は否定的である。それは弥生時代の鉄製錬遺跡が発見されていないことは勿論のことであるが、それ以上に、鉄の製錬には高度の技術が必要であるとか、鉄の製錬には須恵器を焼成するくらいの高温が必要で、須恵器の生産が開始される古墳中期以前には困難であるとの考えが強いように思われる。もっと原始的な方法で、鉄鉱石から鉄を取り出すことが出来たと思うのだが。


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浅羽広一

新井宏先生によると、
送風装置も製錬滓も残さず
鍛治滓だけを残す製鉄法もあるそうです。
また精錬は原料を変えれば製錬になるんじゃないでしょうか。
壱岐島のカラカミ遺跡、
淡路島の五斗長垣内遺跡、
鉄滓を分析すれば何か解ると思うのですが、
分析しようとしない意図が不思議です。


by 浅羽広一 (2021-06-07 04:52) 

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