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66-11.我国の製鉄開始は6世紀半ばの定説に挑戦 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

我国で製鉄が行われるようになったのは、古墳後期後半、6世紀の半ばからで、広島県東部から岡山県にまたがる古代の吉備地方であるというのが現在の定説である。この定説に挑戦すべく、古墳時代の中期末、5世紀末までの遺跡から出土した鉄滓、18遺跡32点について調べZ281に示した。ちなみに、32点の鉄滓の内、始発原料が砂鉄のものが18点、鉱石のものが14点であった。

Z281.古墳時代中期鉄滓.png
①が福岡県北九州市小倉南区の潤崎遺跡、なお赤②〜⑥の5点は潤崎遺跡の鉄滓の値であるが、これら鉄滓のMnOの分析値を知らないので、MnO/Ti2は①と同じとして計算している。鉄滓分析の第一人者である大澤氏は、1986年に古墳時代中期後半の潤崎遺跡の鉄滓の分析(①〜④)から、我国では古墳時代中期中葉(5世紀中頃)、北部九州などの一部で鉄製錬が開始されたと唱えた。佐々木稔氏は、④の鉄滓の組織写真にウスタイト(e)が多いことに疑問をもち、椀形滓が多くあることから、潤崎の鉄滓は精錬滓であるとの見解を示した。④の鉄滓については、大澤氏も精錬鍛冶滓と認め変更している。佐々木氏はこの問題に食い下がり、新たに2点(椀形滓の⑤、流状滓の⑥)を分析し、金属系研究者5名にその判定を仰いでいる。その結果は、2名が「製錬滓の可能性が極めて高い」、3名が「製錬滓、精錬滓のいずれとも判定できない」であった。

 

Z282.ヨーロッパ古代製鉄炉.png私は、6点の鉄滓は全て始発原料が砂鉄で、④は精錬鍛冶滓、それ以外は製錬滓と判定した。⑤の椀形滓が製錬滓だとすると、椀形滓は精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓だとする常識を覆すことになる。金属系研究者の2名が「製錬滓、精錬滓のいずれとも判定できない」と躊躇したのは、この為であろう。写真Z282はヨーロッパの代表的な古代製鉄炉であるが、このような円筒縦型炉(シャフト炉)であれば製錬滓の椀形滓は存在することになる。また、製錬で生じた流状滓を椀形土坑に流し込めば椀形滓となる。いずれにしても、潤崎の鉄滓は製錬滓があることには間違いない。

 

潤崎遺跡は曽根古墳群中に所存する埴輪窯跡で、窯跡に残る焼土の磁気年代測定の結果はAD410年±15年であり、炭化物の炭素14年代測定では測定値は1640±75BPで、歴博の日本産樹木年輪による較正年代の値でみると410±75年の範囲にある。多数の鉄滓は窯跡近くの土坑の直上を覆う土層から出土している。土坑は窯跡と同じ年代であるそうだが、鉄滓が同じ時代のものであるかどうかは定かでない。鉄滓に製錬滓が存在したことは、潤崎遺跡の窯跡の近くで鉄の製錬が行われたことを示しているが、その時期が古墳時代中期中葉(5世紀中頃)という確証はないらしい。

 

ピンクが島根県松江市美保関町の関谷遺跡出土の鉄滓で、潤崎遺跡と同じ砂鉄の製錬滓である。遺跡は焼土を伴う製鉄遺跡で、炭素14年代測定で440±90年という年代が出ている。オレンジが岡山県津山市の押入西遺跡の鉄滓で、Ti2の成分が10%でMnOが4%と、MnOの成分が高い特徴のある砂鉄の製錬滓である。鉄滓は墳丘直径12.5m、高さ1.5mの円墳(1号墳)の周湟(周溝)から須恵器の破片と伴に出土している。円墳の内部主体は木棺直葬で、副葬品は素環頭太刀(310-599)・鹿角装刀子・帯金具(400-549)・鉄斧・鉄鎌・ノミ・鉄釘(390- )である。 ( )の数字は、私の古墳遺物の編年表による。古墳の年代は須恵器から5世紀後半と見られている。古墳時代中期後半、5世紀後半には我国で砂鉄の製錬が行われていたと推察できる。

 

図Z281において、製錬滓の精錬混入域にある青の3点は、大阪府堺市土師町の土師遺跡の鉄滓である。精錬滓の領域にある青の4点が、土師遺跡と隣町の百舌鳥陵南町の陵南北遺跡から出土していることからすると、製錬滓の精錬混入域にある3点は、荒鉄(製錬滓が付着した鍛冶原料)を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓と判断できる。これらの6点の始発原料はTi2/MnOの値が0.7〜1.7で鉱石由来であった。土師遺跡の精錬に用いた地金はどこから入手したのであろうか。

 

5世紀の古墳から「鉄鋌」と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板が、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚、兵庫県加古川市の行者塚古墳から40枚が出土している。同じ形状を持つ鉄鋌は朝鮮半島東南部の伽耶や新羅の地域から出土し、新羅の皇南大塚南墳からは1300枚を越える数の鉄鋌が出土している。沖ノ島の4遺跡からも出土していることからして、朝鮮半島東南部の伽耶で生産されたものが、我国にもたらされたと考えられている。

 

大和6号墳の鉄鋌8枚が分析され、その炭素含有量からすると7枚が錬鉄(0.3%以下)で1枚が鋼(0.7%)であった。大和6号墳以外の鉄鋌4枚(韓国出土1枚含む)の炭素含有量は鋼(0.4〜0.9%)である。5世紀の鉄器生産の素材が鉄鋌であったとするならば、その鍛冶で出る鉄滓は鍛錬鍛冶滓であって、塊錬鉄(鉧)や銑鉄(銑)から鉄地金を作る時に出来る精錬鍛冶滓ではあり得ないことになる。土師遺跡の鉄滓は荒鉄を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓である。荒鉄が伽耶の地から輸入されたという証拠はなく、これらの素材は我国で製錬されたものと考えざるを得ない。

 

土師町・陵南町は5世紀に築造された百舌鳥古墳群の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)、土師ニサンザイ古墳の近くにあり、背後には5世紀に生産された初期の須恵器の窖窯がある高蔵寺(TK)地区を控えた地である。伽耶からの渡来人は須恵器の生産技術を伝え、また製鉄の技術をも伝えたと考えられる。土師町・陵南町の精錬鍛冶滓は鉱石由来の鉄滓であることからすると、製鉄(製錬)が行われた場所は、滋賀の琵琶湖周辺、あるいは岡山かも知れない。福岡の潤崎遺跡・島根の関谷遺跡・岡山の押入西遺跡・大阪の土師遺跡の鉄滓は、弥生中期後半、5世紀の後半には我国で砂鉄・鉱石の製錬を行い、鉄を生産していたことを示している。


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