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1.日本書紀の編年を解く ブログトップ

1-1.日本書紀は信用されていない [1.日本書紀の編年を解く]

日本の古代史(弥生~古墳)を解明するためには、発掘された遺跡や遺物の考古資料と三国志魏志倭人伝などの中国史書、そして古事記・日本書紀の日本史書が三位一体となって成し遂げられると考える。しかし、日本史書なかでも日本書紀は軽んじられ、古代史解明の手段としては用いられていない。戦前・戦後と太平洋戦争を境として、日本人の価値観が右から左へと大きく振れた。日本書紀が描いた古代の歴史も、戦前は全てを絶対視し、戦後は全て否定された。日本人の価値観の振り子は、現在真ん中に戻ってきたと思えるが、日本書紀の描いた古代の歴史の振り子は、まだ左側に偏っている。

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌から、「辛亥の年」「獲加多支鹵(ワタカキロ)大王」という文字が表れた。県菊水町の江田船山古墳出土の鉄剣にも銀象眼の「獲□□□鹵大王」という文字があり、獲加多支鹵大王は大和朝廷の天皇であると考えられ、大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)と呼ばれた雄略天皇に比定され、辛亥の年は471年とされた。これにより、日本書紀の記載も、雄略天皇までは歴史として認められるようになってきた。 しかしながら、世界遺産に登録を画策している、百舌鳥古墳群にある日本一大きな前方後円墳である大仙古墳、古市古墳群にある二番目に大きな誉田御廟山古墳が、学問上では仁徳天皇陵・応神天皇陵と認められていない。それは天皇と古墳が一致するかという問題でなく、日本書紀に記載されている仁徳天皇・応神天皇の存在が認められていないと言う事だ。


1-2.日本書紀の編年は正確  [1.日本書紀の編年を解く]

日本書紀は正確に編年されていると言えば、そんな馬鹿な事と、一笑されるに違いない。しかし、書紀は神功39年(239年)に倭の女王が洛陽の天子に朝貢した。神功40年(240年)に魏の使いが詔書や印綬を持って倭国に来た。神功43年(243年)に倭王が献上品を届けたと、魏志倭人伝の記述を正確な年に載せている。また、神功66年(266年)に倭の女王が晋の武帝に貢献したことも、晋書の記事を記載している。神功皇后が魏志や晋書に書かれた倭の女王であることが史実であるかは別として、書紀が編年した、これらの絶対年は正確である。

1971年韓国忠清南道公州の宋山里古墳群で、百済の武寧王の陵が発見された。この陵からは金で出来た各種装身具をはじめとし、全部で108種2906点もの膨大な遺物が出土すると共に、墓誌が出て来た。墓誌には「寧東大将軍 百済斯麻王 年六二歳癸卯年・・・崩」とあった。朝鮮の史書である三国史記には、武寧王は斯摩と呼ばれ、501年に即位、523年(癸卯)に薨去(こうきょ)、同年に聖王が即位と記載されており、墓誌と一致している。武寧王が62歳で亡くなったのであるから、誕生は462年になる。 

書紀の雄略5年(461年)に、百済の加須利君が弟の軍君(こにきし)を天皇に仕えるように遣わされる時、軍君の妻が筑紫の加羅島で出産した。その子が嶋君で武寧王であると記載している。また、武烈4年(502年)に武寧王が即位、継体17年(523年)に武寧王が薨じ、翌年(524年)に聖明王が即位とある。書紀の絶対年は、武寧王墓誌と三国史記にほぼ一致しており正確である。この他にも、書紀の絶対年と三国史記が一致する記事がある。雄略2年(458年)蓋鹵王の即位(己巳[キシ]と記載、癸巳[キシ]の間違い)、雄略20年(476年)の高麗による百済の滅亡、雄略21年の汶洲王の興国、雄略23年の東城王即位である。 

1-3.干支2廻り繰り上げた編年 [1.日本書紀の編年を解く]

神功46年(246年)から神功56年(256年)は、百済の肖古王と息子の貴須王に関する記事がある。三国史記によると、近肖古王が在位したのが346年~375年で、近仇首王(諱[いなみ]は須)が即位したのが375年である。肖古王と近肖古王、貴須王と近仇首王は同一人物で、書紀は干支2廻り(120年)繰り上げた編年(元絶対年と呼ぶ)を行っている。 

神功46年(246年)、元絶対年367年に百済の肖古王が斯摩宿禰の使者に鉄鋌を与えたとある。橿原市の南山4号墳から20枚の鉄鋌と朝鮮半島南部の伽那系陶質土器が出土し、5世紀前半の古墳とされている。須恵器の生産開始年代は5世紀前半との定説が、近年390年頃までに繰り上がった。伽那系陶質土器がもたらされたのが、須恵器の生産開始以前とすると、南山4号墳は390年以前の古墳と考えられる。南山4号墳の鉄鋌は肖古王から送られたものかも知れない。 

書紀には、神功52年(252年)、元絶対年372年に百済の肖古王が使いを遣わし七枝刀一口等を奉っている。天理市の石上神社には、左右に段違いの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分れている、国宝の七支刀がある。七支刀には金象嵌がされており、「泰和四年」「百滋(百済)王」「為倭王旨造」の文字がある。中国では泰和四年の年号がないので、東晋の太和四年(369年)と考えられている。書紀の元絶対年と記述は正確である。ただし、天皇の年号は信頼おけない。 

神功62年(262年)襲津彦が新羅を討つ、神功64年百済貴須王薨じ枕流王即位、神功65年枕流王が薨じ辰斯王即位、これらの記事は382~385年で干支2廻り繰上げられている。そして、神功69年(269年)神功皇后が崩御した、この年太歳己丑とある。書紀では天皇が即位した年には太歳干支があるが、崩御で太歳干支があるのは神功皇后だけである。神功皇后は元絶対年389年に崩御したと解釈する。 

元絶対年の記事があるのは、神功記だけでなく応神記にも沢山ある。応神3・7・8・9・14・15・16・20・25・28・31・37・39・41年である。三国史記でみると、百済の阿華王(392~405)・直支王(405~420)・久爾辛王(420~427)の時代である。 

中国吉林省集安県の鴨緑江の江畔に広開土王碑がある。これは高句麗の広開土王(好太王:392~413)の業績を讃えるため息子の長寿王が建立したものである。この碑文には「倭以辛卯年来海渡破百残□□新羅以為臣民」、辛卯年(391年)に倭が海を渡って来て百済・□□・新羅を臣民としたとある。書紀には応神3年(272年)、元絶対年392年に百済の辰斯王が天皇に礼を失する事が多く、紀角宿禰等4名を派遣した。百済は辰斯王を殺し陳謝したので、阿華王を立てて帰国したとある。書紀と広開土王碑が似通った内容である。 

応神25年(297年)、元絶対年417年に高麗が使いを送って朝貢した。その上表文に「高麗の王、日本国に教う」とあり、太子は書き方が無礼と上表文を破り捨てたとある。上表文には「晋に朝貢しろ」と言う事が書かれていたのであろう。宋書高句麗伝によると、高句麗の長寿王は、413年晋の安帝に朝貢し楽浪郡公に封じられている。この時、安帝は倭国にも朝貢するようにと、高句麗に依頼したのであろう。応神37年(306年)、元絶対年426年に阿知使主を呉に遣わした。高麗の道案内で呉に行く事が出来たとある。宋書倭国伝には、425年讃司馬曹達を遣わして貢献とある。 

書紀の神功46年(246年)から応神41年(310年)の百済・新羅・高麗および呉と関連する記事は、干支2廻り繰り上げられており、元絶対年では366年から430年の事である。これらの記事は、三国史記・広開土王碑・宋書および七支刀などの資料と合致しており、書紀は歴史を120年改ざんしているものの、精緻に編年している。 

1-4.延長された編年 [1.日本書紀の編年を解く]

天皇の在位の年数と崩御された歳が明確であるのは、飛鳥時代が始まった33代推古天皇以降である。124代昭和天皇は88歳で崩御され、在位年数は63年であり、推古天皇以降で、最も長い在位年数であり、最も高齢であられた。
表1在位と年齢.jpg                                    日本書紀には、各天皇の在位年数が全て記載されている。初代神武天皇から32代の崇峻天皇の間(神功皇后含む)で、昭和天皇より在位年数が長い天皇が8代ある。ベストスリーは6代考安天皇102年、11代垂仁天皇99年、仁徳天皇87年である。年齢が記載された天皇のうち、昭和天皇より高齢の天皇が7代ある。年齢のベストスリーは、垂仁天皇140歳、神武天皇127歳、崇神天皇120歳である。年齢の記載がない天皇も、皇太子に立たれた年齢が書かれており、崩御された年齢が計算出来る。それらを含めると14代の天皇が百歳以上である。天皇の在位年数と年齢から見ると、日本書紀は初代神武天皇から19代允恭天皇の間で歴史が延長されていると考えられる。 
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1-5.日本書紀と古事記の編年比較 [1.日本書紀の編年を解く]

日本の歴史を書いた最も古い本は古事記であり、奈良に都が遷都された直後の、712年に太安万侶により編纂され、25代推古天皇まで記載している。その8年後に、日本書紀が舎人親王により奉上され、32代持統天皇まで記載している。古事記は天皇の崩御の年を干支で表わしているが、その干支は数代の天皇の記載しかない。日本書紀は、全ての天皇について天皇即位の年を干支で表わしているため、干支を歴年にする事が出来る。そのため、かえって書紀の編年は信用できないとされ、歴史・考古学者は古事記の干支から、年代を推測している。
                      
年輪年代法のような化学的年代法が採用されるまで、考古学者は古墳時代の始まりを、4世紀の初めとしていた。書紀には崇神記に箸墓の記事があり、古事記では崇神天皇の崩御が戊寅となっている。この戊寅の年を318年と考えて、古墳時代の始まりを4世紀の初めとしたのであろうか。日本書紀・古事記を信用出来ないとしながらも、やはり影響を受けているようだ。そんな事は決して口に出さないであろうが。
                          
表2編年比較.jpg書紀の即位年と、古事記の崩御年を比較した。天皇が崩御した翌年または翌々年に、即位が行われると考えると、書紀と古事記の編年が合致しているのは、宣化天皇までである。継体天皇崩御について見れば、古事記の方が6年古く編年しており、雄略天皇崩御では、逆に書紀の方が10年古く編年している。書紀・古事記の編年は、継体天皇あたりから怪し くなっていると言える。



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1-6.日本書紀の編年を解読 [1.日本書紀の編年を解く]

私は日本書紀に書かれた記事は、全て史実であると信ずる。もちろん記事には誇張もあり、勝負・正悪・清濁・譲奪を反対に書いていることもあると思う。ただ書かれた記事が史実だと言っても、百歳以上の天皇が10人以上いる事を信じるわけにはいかない。日本書紀は何かの意図を持って歴史を延長している。  

神武天皇の建国を紀元前660年と古い時代に持ってきたのは、大和政権の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色ないように脚色された。神武天皇の建国が「辛酉」の年になっているのは、中国の漢代に流行した思想、「辛酉の年ごとに、中でも21度目の辛酉の年に大いに天の命が改まる」に基づいて定められたという、明治時代の学者那珂通世氏が唱えた辛酉革命説が定説化している。私は日本書紀の基となった帝紀は、仏教が伝わった欽明朝に編纂され、歴史を延長した意図は、神武天皇即位(紀元前660年)を、釈迦誕生(紀元前624年or566年)以前にした。また、崇神天皇即位(紀元前97年)を、朝鮮三国で最も早く建国した新羅(紀元前57年)より以前とし、そして、神功皇后を魏志倭人伝に記載された女王卑弥呼に比定したと考える。  

日本書紀に記載されている記述を全て史実と信じ、編年された年月は延長されたものだと信じない。この相反する考えを解決する解は、記載された記事と記事の間の空白の期間に、歴史を延長している年月があると考えた。それでは書紀に隠されている、延長されていない原典の年表(元年表)を作成する。書紀には各天皇の元年に「太歳」と書いて干支が記されている。これにより各天皇が即位した年が西暦で分かる。太歳から次の太歳までの期間を在位とした。書紀は、天皇の何年に何があったかを記載している。それらの記事が各天皇で何年あったかを調べたものが記載年数である。ただし、絶対年が正確である記事、干支2廻り繰上げされた元絶対年が正確な記事は省いている。記事は毎年書かれている訳でなく、数年に渡って記事が書かれてない年もある。この空白年数についてその期間と頻度を調べた。 

天皇が崩御した年号が在位である。天皇の即位は崩御の年の翌年の正月であるが、空位があったり崩御の年に即位があったりすると、太歳から太歳までの在位期間とが違って来る。神武・成務・応神・反正・継体天皇である。これらの天皇について、書紀の記事との整合性を確かめ
空位年数を決めた。神武天皇の崩御の後に異母兄弟の争いがある。政務天皇には何事もない。応神天皇は皇太子が長兄に皇位を譲ろうとして自殺し、空位が3年と記載がある。反正天皇は1月に崩御したが、皇太子が皇位を継ぐことを辞退し、群臣の願いにより12月に即位している。崩御の年の12月に即位したと考える。継体天皇の場合は即位前の空位がある。武烈天皇には跡継がなく、その後継者選びは一筋縄ではいかなかったようで、第一候補は頓挫している。これらの中には書紀に書かれた内容とは違って、きな臭いにおいもするが、空位が生ずる事変があったのは史実であろう。 

表3元年表.jpg
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計算在位記載年数空白年数空位年数を合計したものである。空白年数は、1年は1年間、2年は2年間、3~14年は1年間、15年~以上はゼロとして、その頻度を掛けた合計である。延長年数在位から計算在位を引いたものである。神武天皇の延長年数には、2代の綏靖天皇から9代の開化天皇までの8代の在位の合計が含まれている。これらの天皇は欠史八代と言われ、皇后・都・皇子・皇太子について書いているだけで、史実と思われる記事がない。各天皇の延長年数を累計すると900年になる。日本書紀が丁度干支15廻り900年延長されて編年されていることを示している。干支を基本に編年を行っていることから考えると、納得出来る値である。

 

1-7.日本書紀原典の証明 [1.日本書紀の編年を解く]

こんな簡単な作業で解明出来た元年表の編年が正しいかどうかは、宋書倭国伝に記載された「倭の五王」と比較すれば分かる。

  天皇 即位の年  倭王  朝貢の年    記載事項      
  
仁徳 383年  讃  421年  倭王讃朝貢し叙綬を賜う
  
履中 435年  珍  438年  讃死し弟珍立つ。珍遣使貢献
   允恭 443年  済  443年  済遣使貢献す
      
  
安康 461年  興  462年  済死す。世子興。遣使貢す
   雄略 464年  武  478年  興死し弟武立つ。武遣使上表
   

仁徳天皇は在位の途中で朝貢を始めたのであるが、履中・允恭・安康天皇については、即位後すぐに朝貢している。雄略天皇は即位後14年立っての朝貢となっている。だから武は上表文の中で、朝貢しようとしたが、高句麗が百済の征服を図り、朝貢出来なかったと言訳をしている。元年表の正確さは歴史・考古学者の考える編年をはるかに超えた精度である。 

 

1-8.事実は小説より奇なり  [1.日本書紀の編年を解く]

私が作成した元年表の編年方法は、ただ天皇の即位の年を決めるだけではなく、書紀に書かれている全ての記事の編年を行うことが出来る。日本書紀の記事には、絶対年で正確な記事、絶対年を干支2廻り繰り上げた(元絶対年)記事、そして累計で900年の延長がなされている記事が混じり合って、歴史書として成り立っている。

日本書紀原典を見出すためには、絶対年の記事はそのまま「年」、元絶対年の記事は干支2廻り繰り下げた「年」に編年し、累計900年延長された歴史は正しい姿に縮小して編年しなければならない。
次のカテゴリーの「日本書紀原典の再現」に、日本書紀に記載された記事を全て網羅し、歴史の延長がなされる以前の、日本書紀原典と言うべき年表を示す。

絶対年で正確な記事は、記載年号欄に太字で「天皇名+年号」を示し、元絶対年の記事は細字で表記し、記載内容については太字とした。太字の記事は、元の年号から切り離されるため、その記事に登場する人物に矛盾が生じる場合があり、その人物については斜め文字で記載している。それらの適用を受けた人物は意外と少なく、「神武天皇の崩御」が「卑弥呼の死」であった事と、応神天皇の皇太子「菟道稚郎子」が仁徳天皇の皇太子「去来穂別尊」に変わっただけである。

歴史学者・考古学者、そしてアマチアを含めて、日本書紀・古事記を解読し、その編年を試みている人は多数いる。しかし、それらのほとんどは天皇の即位の編年を行っているだけであり、記紀に書かれた事柄が何時の事か、その整合性があるかまでは記載していない。私の元年表は日本書紀に書かれた全ての記事を網羅しており、日本書紀の原典が再現出来たと自負してる。 

表4神武・崇神.jpg日本書紀原典の神武天皇と崇神天皇の欄を表4に示す。驚く事に、日本書紀原典は魏志倭人伝記載の倭国の女王卑弥呼が、魏に朝貢の使いを遣わした239年から始まっている。そして、魏の使者が詔書・印綬を倭国に届けた翌年の241年・辛酉の年に、神武天皇が橿原の宮で建国をし、卑弥呼が亡くなった248年に、神武天皇が崩御している。また、崇神天皇の時代に、倭の女王(壱与)が晋に朝貢している。邪馬台国と大和王権、卑弥呼と神武天皇、壱与と崇神天皇が深くかかわり合っている事が分る。まさに、「事実は小説より奇なり」である。


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