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66-4.弥生後期後半、弁辰の鉄が輸入されていた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z-67.3世紀末朝鮮半島.png『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。図Z67に示すように、私は弁辰の地は洛東江の上流、慶尚北道の地であると解釈している。『魏志東夷伝』には「辰韓には秦の役を避けて韓国に亡命してきた人々が住んでいる。」としており、中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、洛東江の上流、慶尚北道の地で3世紀に製鉄が行われていたと推察する。

 

「65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷」で示したように、372年、百済の肖古王は応神天皇に七枝刀を奉り「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。この「谷那の鉄山」が漢江上流にある月岳山付近で、その北側にある韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城から4世紀の鉄製錬炉11基と鉄鋌40枚が出土している。弁辰の地は月岳山の南側である。月岳山一帯の地層は花崗岩であり、その北側で鉄鉱石が採れたならば、南側でも鉄鉱石の鉱床が存在しただろうと想像する。

 

『魏志東夷伝』弁辰条の「二郡にも供給している」とは、鉄の地金であったと思われる。辰韓(慶尚北道)や弁韓(慶尚南道)を中心に出土している斧状鉄板(板状鉄製品)が、3世紀に弁辰で造られた鉄の地金であると考える。なお、この斧状鉄板は4世紀中葉ごろの百済・新羅・伽耶の墳墓や日本の古墳から出土する鉄鋌とは似て非なるものである。大澤正巳氏の「金属組織学からみた日本列島と朝鮮半島の鉄」によれば福岡の西新町遺跡、熊本県の二子塚遺跡、島根の上野Ⅱ遺跡・板屋Ⅲ遺跡、鳥取の妻木晩田遺跡、徳島の矢野遺跡、埼玉の向山遺跡などの弥生後期の遺跡から錬鉄の板状鉄製品が出土している。この板状鉄製品は弁辰の鉄で、弥生後期後半に輸入されたものと考えられる。

 

弁辰の地(洛東江の上流)で行われた製鉄は、直接製錬で錬鉄が造られたと考えるが、残念なことに製鉄遺跡は出土していない。直接製錬とは低温(1150℃前後)で錬鉄(炭素量0.3%以下)を直接取り出す、最も原始的な製錬方法である。鉄の収率が悪いので鉄の含有率の高い鉱石・砂鉄に用いられる。我国では、この錬鉄の斧状鉄板(板状鉄製品)を輸入して、900~800℃に加熱し、鍛造して武器・利器・工具を製作したのであろう。3世紀(弥生後期後葉)に全国的に鍛造品の鉄器化が進展したのは、弁辰の錬鉄を使用して鍛冶(鍛造鍛冶)が行われたと考える。ただ輸入ばかりに頼らずに、我国で製鉄(製錬)が行われていたのではないかと疑問が残る。


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