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74-20.「倭国600年の歴史を紐解く」 [74.「記紀」で解く「空白の世紀」の150年]

2011年6月から13年間続けて来たブログ「日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権」は前回で終了させていただきます。愛読ありがとうございました。本日7月7日からは、新たなブログ「倭国600年の歴史を紐解く」、「https://wakoku-himotoku.blog.ss-blog.jp/」を立ち上げました。引き続きご愛顧いただければ幸いです。

 

「倭国600年の歴史を紐解く」

プロローグ

倭国600年の歴史(奴国・邪馬台国・大和国・大和王権)

古代我が国は中国から倭国と呼ばれていた。倭人の国は倭国ではなく、倭国の誕生は倭国王が登場してからのことである。後漢書東夷伝には、「安帝の永初元年(107年)倭国王帥升ら、生口百六十人を献じ、請見を願ふ。」とある。これにより、倭国は107年の少し前、弥生時代後期中葉頃に誕生したことが分かる。倭国は時代と共に形態や領域が変遷している。大和国が全国を支配し大和王権となるまでは、倭国は連合国であった。連合の盟主国は、奴国・邪馬台国・大和国と変遷している。奴国は福岡平野にあり、大和国は奈良盆地にあった。邪馬台国が何処にあったかは、いまだ決着していない。

 

「日本」という国号は、中国の史書『史記』の注釈書である『史記正義』(736年)の中に、「則天武后が倭を改めて日本とした」とする記述があることから、粟田真人が飛鳥時代の終りに遣唐使執節使として派遣された702年の遣唐使から「日本」の国号が使用されたとされている。粟田真人は国史の編纂にも携わり、題名に「日本」を冠し『日本書紀』としたと考える。ただ、粟田真人は『日本書紀』が完成し舎人親王により撰上された前年の養老3年(719年)2月に亡くっている。倭国の歴史は、倭国王の登場した107年頃から、「日本」の国号を使用した702年頃まで、弥生時代後期中葉から飛鳥時代の終りまでの約600年となる。


13年間続けてきたブログ「日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権」では、『日本書紀』を900年縮めて編年し、歴史民俗博物館の弥生日用土器の編年を基にして甕棺型式の編年を行い、9千基の古墳から遺構・遺物を編年して、歴史学と考古学の年代を一致させ、倭国の歴史を解明してきた。このブログを整理し、倭国の歴史を一本の紐として解き明かすために、新たにこのブログ「倭国600年の歴史を紐解く」を立ち上げた。

 

毎週金曜日に掲載し、1年半は続きます。連読頂ければ幸いです。


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