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11-1.倭国王になれなかった神武天皇 [11.邪馬台国は大和に遷都]

魏志倭人伝では邪馬台国の女王卑弥呼について、次のように書いている。「鬼道に仕え、良く衆を惑わす。年既に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を持って自ら待せしむ。ただ男一人あ、飲食を給し、辞を伝え居処に出入りす」。邪馬台国が日向にあり、日向に天孫降臨した瓊瓊杵尊の孫の妃、玉依姫が卑弥呼である比定した。卑弥呼は結婚し息子もいたが、王になってからは姿を見たものは少ないと、その秘密は守られた。宮室に出入りした唯一の男子が夫の鸕鷀草葺不合尊で、補佐の男弟こそ息子の彦五瀬命と磐余彦尊等である。

磐余彦尊(神武天皇)は、234年に日向の邪馬台国から東征して、241年に大和国を建国した。この建国式には、前年卑弥呼が魏から貰った三角縁神獣鏡などの鏡や、錦と毛織物、茜染めの布と濃紺の布も届けられ、きらびやかな式典となった。神武天皇が建国し、即位したのは大和国の国王であって、倭国の王ではない。倭国の王はあくまでも日向の邪馬台国の女王卑弥呼である。 神武天皇は建国を祝うために日向から来た使者に、宇陀でとれた朱を渡した。それを受け取った卑弥呼は、正始四年の魏への朝貢の献上物とした。魏志倭人伝には、正始四年(243年)
に「丹」が献上されたことを記している。

図29免田式土器.jpg魏志倭人伝には、「正始8年(247年)に倭の女王卑弥呼の使いが、帯方太守に狗奴国との交戦を報告した」とある。邪馬台国の南の大隅にあった狗奴国は、邪馬台国が魏に朝貢したり、息子が大和に東征したりして、国内の防衛が手薄になっている事を知り、その隙をついて日向の邪馬台国に攻め込んだ。248年、卑弥呼は狗奴国との戦いに敗れ亡くなった。その時、日向で国の守りに付いていた磐余彦尊の兄の稲飯命と三毛入野命も戦死した。
幸い親戚筋の薩摩の投馬国が援軍を派遣し、日向の邪馬台国と狗奴国の間に入り込み、狗奴国を牽制したので、日向の領土を占領される事はなかった。邪馬台国は領土であった八代海の佐敷、球磨川上流の人吉、国見山地南の小林、そして大淀川河口の宮崎を投馬国に割譲し、投馬国の後ろ楯を得て日向国として存続した。弥生時代後期から古墳時 (クリックすると大きくなります)
代始めの、免田式土器の分布がそれを物語っている。図29は日本
古代遺跡・宮崎、鈴木重治著、保育社を参照・加筆した。

邪馬台国の一部の家臣は邪馬台国の再興を願って、卑弥呼の遺骸と魏から貰った親魏倭王の金印、そして銅鏡を持って、大和の神武天皇の所に落ち延びた。纒向の外来土器を良く知っている研究者は、邪馬台国が九州より遷都した可能性はないと言う。それは纒向の外来土器には、九州の土器が非常に少ないからだ。遷都したのならば、元の都の生活土器が多量に来てるはずだという。もっともな話である。しかし、狗奴国に敗れた邪馬台国は、家臣・兵士や農民などが日向国として生き残り、家臣の一部が大和に落ち延びたのであるから、生活土器など大和にまで行っていないと考える。 

親魏倭王の金印、三角縁神獣鏡などの鏡を受け取った神武天皇は、母である倭国の女王卑弥呼の遺骸を前にして、邪馬台国を大和で再構築して、自ら倭国の王になると宣言した。卑弥呼を共立した倭国の国々は、大和の邪馬台国が強国になることを恐れ、国中が承服せず249年に戦が起こった。魏志倭人伝には「卑弥呼が死んだので、続いて男王が立ったが国中が承服せず戦が起こり、千人余の人が亡くなった」とある。


11-2.倭国王になった壱与は崇神天皇 [11.邪馬台国は大和に遷都]

魏志倭人伝には「そこで卑弥呼の宗女、13歳の壱与を王に立てて国中が治まった」とある。250年神武天皇は、祖父の彦火火出見尊が、玉依姫が共立され倭国の女王卑弥呼になるとき、自ら身を引いて玉依姫に王位を譲った前例にならって、養女の壱与を倭国の女王に立て戦いを治めた。壱与は、神武天皇が東征の途中、吉備の高島宮に3年居た時(235~237年)、兄の五瀬命が吉備国王の娘を娶り生れた子である。年齢は237年生れで13歳、玉依姫(卑弥呼)の長男の娘で宗女と合っている。 

その後、神武天皇は大和国の王・大彦命として壱与を支えた。日本書紀では、神武天皇を「始馭天下之天皇、始めて天下を治められた天皇」と、崇神天皇を「御肇国天皇、国をお肇になられた天皇」と記載しているのは、これらの事情によるものである。また、大和王権下において吉備の影響が強いのは、崇神天皇(壱与)の出自が、吉備の国王に繋がるためである。 

日本書紀では崇神天皇は、御間城入彦五十瓊殖天皇と呼ばれ男天皇であり、壱与には当てはまらない。ただ皇后は大彦命の娘の御間城姫で、天皇も皇后も同じ「御間城」と言う名が付いている。倭の女王壱与は御間城姫であり崇神天皇であった。壱与の夫である御間城入彦は、神武天皇と姫蹈鞴五十鈴姫命の間に出来た息子・神渟名川耳尊(欠史8代の一人、綏靖天皇)であると考える。御間城入彦が崇神天皇であったとも言える。神武天皇は祖父の彦火火出見尊が、王位を玉依姫(卑弥呼)に譲り、その後息子の鸕鷀草葺不合尊と結婚させたことにならったのである。大彦命として裏方に徹することが出来た理由でもある。

晋書によると泰始2年(266年)倭の女王が晋に朝献し、男女30人・真珠5千・青大勾玉2枚・錦20匹を献上したとある。日本書紀原典では、この記事は崇神17年(266年)に編年されている。崇神天皇を壱与とすると、魏志倭人伝および晋書と日本書紀原典は何の矛盾も起こらない

11-3.箸墓古墳の築造年代 [11.邪馬台国は大和に遷都]

三輪山の裾野の纒向の地に、最古の大型前方後円墳・箸墓古墳がある。この箸墓について、書紀の崇神紀に記載されている。「御諸山(三輪山)に住んでおられた大物主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命は、夫が蛇である事を知り驚いて座り込み、そのとき陰部を箸で突き死んでしまわれた。そこで大市に葬った。時の人は名づけて箸墓という。その墓は大阪山の石を運んで、昼は人が作り、夜は神が造った。」 

倭迹迹日姫命が卑弥呼であり、箸墓が卑弥呼の墓であるという考えは、大正から昭和にかけて、徳島県の中学教師であった笠井新也氏が論文に発表している。それを支持される学者もいたが、箸墓築造年代が合わない(当時は4世紀初め)と認められなかった。約80年の年月が経過して、再び脚光を浴びる事になった。 

平成21年5月、国立歴史民俗博物館の研究グループは、大和Ⅴ・Ⅵ式土器、庄内0・1・3式土器、布留0・1・2式土器に付着した炭化物の炭素14年代値を測定し、日本産樹木の較正年代曲線上に、土器の相対年代順に炭素14年代値を配置することによって、箸墓古墳の築造(布留0式)は240~260年頃と発表した。この年代感は、従来の年代感と違うと言う事で、考古学会で大きな波紋を引き起こしたが、私は考古学が行って来た緻密な土器の相対年代と、科学的手法の絶対年代がマッチングした、素晴らしい成果だと思っている。 

日本書紀原典の編年では、箸墓は崇神紀10年(259年)造られたとなっており、炭素14年代測定と一致している。箸墓古墳からは吉備の特殊器台が出土しており、初期の大和王権に吉備の勢力が大きく関わっているが、これは壱与の出自によるものと思われる。ただ、倭迹迹日姫命(卑弥呼)が崇神天皇の世に生きていたのではなく、248年に日向で亡くなった卑弥呼の遺骸が大和に運ばれ、箸墓が造られたと考える。


11-4.邪馬台国から大和王権へ [11.邪馬台国は大和に遷都]

古墳時代の政権を考古学では「ヤマト王権」と表現している。私はこれらの政権は、日本書紀に書かれた通り、律令国家としての大和朝廷に繋がるものであると考え、「大和王権」と表現する。初期の大和王権は三輪山の裾野に広がる纒向の地で誕生したと考えられているが、その王権こそが崇神天皇で、都を磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)にしていた。 
崇神天皇10年、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に、四道将軍を派遣している。吉備津彦を派遣した西海は、平安時代の西海道と同じとして、九州を指すと考えられているが、私は四国東部であると思っている。

図30 銅鐸分布.jpg図30は弥生時代後期の銅鐸が出土した、旧国(平安時代)別の分布図である。四道将軍が派遣された、北陸・東海・西海(四国東部)・丹波は、全てが銅鐸出土地である。もし、邪馬台国が卑弥呼の時代から大和にあるならば、卑弥呼や壱与を共立した倭国の国々30ヶ国は、銅鐸を祭器として使用していた国々であることになる。そうなると、四道将軍は同盟国を平定するために派遣された事になる。邪馬台国と大和王権は繋がっており、そして四道将軍の話が史実であったとするならば、邪馬台国畿内説は成り立たない。                         
       
                                        
崇神11年四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告している。「この年異俗の多くが帰順し、国内は安らかとなった」と書紀に記載されている。四道将軍が派遣された、北陸・東海・西海(四国東部)・丹波は、同盟国ではなく、平定せねばならない敵国であり、邪馬台国とは異なる祭器・銅鐸を祀る異俗の国であった。大和王権の発生の地とされる纒向から出土する土器の15%が外来系土器で、その半数が東海地方、その次に多いのが北陸・山陰地方である。四道将軍が平定した異俗の地から、纒向に多くの人がやってきたのではないだろうか。

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11-5.神武天皇(大彦命)の陵を探る [11.邪馬台国は大和に遷都]

日本書紀には、神武76年に神武天皇を畝傍山の東北の陵に葬ったとある。900年延長して編年されていた日本書紀を原典に戻すと、神武天皇が亡くなったのは248年の事になる。しかし、この年は神武天皇(磐余彦尊)の母であり、倭国の女王である卑弥呼が亡くなった年に当たるので、亡くなったのは神武天皇ではなく卑弥呼であるとした。そうすると、畝傍山の東北の陵に葬られたのは卑弥呼ということになる。卑弥呼の墓といわれる箸墓は、畝傍山の東北にあり、ピッタリ一致している。

それでは、大彦命としてその後活躍した、神武天皇の墓は何処にあるのだろうか。その手掛かりが、天武天皇紀の壬申の乱の記述にある。高市軍が金綱井に終結したとき、高市県主許梅が神がかりして、「神武天皇の山陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させて、御陵に馬と武器を奉納したとある。また、「三輪君高市麻呂が上道の守りに当たっていて、箸陵のほとりで戦った」ともある。箸墓を「箸陵」と表現しているところからすると、神武天皇の陵も前方後円墳であったと思われる。これらの記述から、神武東征を成しとげ、「戦の神」として崇められた神武天皇の陵は、金綱井の近くにある前方後円墳と考えられる。金綱井は畝傍山の北、橿原市今井町付近と考えられているが、所在未詳である。壬申の乱の大和の戦いで、武勲を立て恩賞を賜った、将軍大伴吹負の行動を、図31を参照しながら辿ることにより、「金綱井」の地を探りたい。 
                        (図をクリックすると大きくなります)
図31壬申の乱.jpg吹負は百済(広陵町百済)①にあった自分の家を出て、中道より飛鳥寺(明日香村)②に進み、寺の西で飛鳥古宮の守りに当たっていた敵の軍営に攻め込んでいる。そこで勝利を得た吹負は奈良に向って進軍した。その途中、稗田(大和郡山稗田)③に至った時、河内の方から近江の軍勢が沢山やって来るという情報を得て、軍を竜田(三郷町)と、大坂道(香芝町逢坂)と石手道(竹内峠)に向かわせ守らせた。

近江軍は大津道と丹比道を通ってやって来た。
 吹負の軍は防戦出来ず、戦いに敗れ退却を余儀なくされた。そして将軍吹負は、ただ一人二人の騎馬兵と墨坂(榛原町)④にまで逃げていく。そこで菟の軍と出会い、金綱井まで引き返して散り散りになった兵士を集めた。この時、高市県主許梅が神がかりして、「神武天皇の山陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させて、御陵に馬と武器を奉納した。その後、近江軍が大坂道より来ると聞いて、吹負は軍を率いて西に向かい、当麻(当麻町)⑥で戦い、その後飛鳥の古宮の本営に帰っている。そこで伊勢街道から本隊がやって来たので、上道・中道・下道に軍を分け配置している。近江軍は中道からも、上道からもやって来た。高市麻呂が箸陵のほとりで戦い、近江軍を破ったのは、この時のことである。その後、吹負は飛鳥の本営⑦に帰り、軍を構えたが近江軍は来なかった。 

金綱井は下道と横大路の交わった、橿原市今井町付近と考えられているが、稗田で敗れ墨坂まで逃げた吹負が、散り散りになった兵士を集めるのに、この地は適切でない。兵士は中道からも、上道からも逃げてくるであろうし、敵も追いかけてくるであろう。今井町付近では、大坂道と下道から来る敵と、中道や上道からの敵に対して挟まれてしまうし、敵の目標地の飛鳥の古宮が無防備になってしまう。私は「金綱井」は上道と横大路、そして伊勢街道の交わる桜井市金屋付近⑤であったと考えている。この地ならば、上道・中道・下道から逃げてくる兵士も集められ、背後は伊勢街道から墨坂通って本隊がやってくるため安全であり、飛鳥の古宮へは山田道が通じている。戦略上この上もない場所である。この金屋の近くにある前方後円墳が、桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳である。私は桜井茶臼山古墳が神武天皇の皇后・姫蹈鞴五十鈴姫命の陵、メスリ山古墳が神武天皇の陵と考えている。


先代旧事本紀は日本書紀が説明不足になっている所は、必ず突っ込んで詳細を書いている。熊野国も、高倉下も、そして饒速日命もそうだ。それだけに先代旧事本紀は魅力ある書物になっている。だから、饒速日命が河内の国の哮峰に天降り、大倭の国の鳥見の白庭山に移ったという記事は魅力を感じる。私は、先代旧事本紀は平安時代の歴史学者が書いた論文だと思っている。平安時代の方が現代より史実や伝承に近かったことは間違いない。だから、昔の学者を信じるのも、現代の学者を信じるも大同小異であり、何を信じ、何を信じないかの問題である。私も饒速日命は河内に天降りし、その後大和に進出したと考える。 

それでは、饒速日命が河内に天降りした時代を明らかにしたい。6章4節(6-4)で、天照大神が天の岩屋に籠ったとき、「国中が常闇となり夜昼の区別も分らなくなった」のは、天照大神の死亡と、日食が重なったことから起こった伝承だとして、158年の皆既日食に比定した。一方、天の岩屋で活躍した思兼神を饒速日命の父とし、この頃高天原で活躍していた高皇産霊尊を饒速日命の祖父と考えた。政務で活躍出来る最高年齢を60歳、最低年齢を20歳として、158年を起点に、高皇産霊尊、思兼神、饒速日命の3代の年齢構成を考えてみる。可能性のあるのは、158年の時点で、高皇産霊尊:思兼神:饒速日命が(60歳:40歳:20歳)とすれば、饒速日命は河内にすぐ天降り出来る。(50歳:30歳:10歳)であれば、10年後に天降り出来る。(40歳:20歳:0歳)では20年後に天降り出来る。 

饒速日命の天降りが30歳のことも考慮に入れると、これらから饒速日命が天降りに出発したのは、160~190年の間で、まさに、倭国大乱のときであることが分かる。図32に弥生後期(Ⅴ期)の高地性集落の分布を示す。高地性集落は防御のための集落である。弥生Ⅴ期というと50年~200年が見当になり、年代の幅が広いが、まさに饒速日命が北部九州より河内に天降りした時に、瀬戸内海沿岸で高地性集落が築かれた事を示している。      
                    
書紀では饒速日命が義兄の長髄彦を殺し、神武天皇に帰順したのは、建国の2年前である。私は神武建国を241年とした。饒速日命の出発の年と年齢を考えると、神武天皇に帰順した時の年齢は、70歳~100歳となる。河内から大和に侵出して、長髄彦の妹の三炊屋媛妹を娶ったのは饒速日命の息子で、孫の可美直手命が伯父の長髄彦を殺したのであろう。そうすると饒速日命の子孫が大和に侵出したのは、180~220年の間になると考える。纒向遺跡が突然あらわれるのが180年頃であり、饒速日命の子孫が大和に侵出た時代と合ってくる。饒速日命の息子は纒向に侵出したのであろう。纒向遺跡から北部九州の土器が出土せず、河内庄内土器が多数出土しているのは、饒速日命の河内の時代があるためと考える。弥生後期の高地性集落の分布と言い、纒向遺跡の突然の出現と言い、二世紀末に行われた饒速日命の河内・大和への侵出は歴史に大きな足跡を残している。

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11-6.桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳  [11.邪馬台国は大和に遷都]

桜井茶臼山古墳は全長200メートルの前方後円墳である。古墳の目前には初瀬川を挟んで大神神社があり、御神体である三輪山を仰ぎ見る事が出来る。この大神神社には姫蹈鞴五十鈴姫命の父方の先祖の、大物主大神(大国主命・大己貴命)が祀られており、桜井茶臼山古墳を神武天皇(大彦命)の妃の姫蹈鞴五十鈴姫命の陵とするにはピッタリである。桜井茶臼山古墳は近年再発掘され、81面の銅鏡片が発見され、また200kgの朱で石室が塗られていたことも分かった。銅鏡を多量に副葬し、朱をふんだんに使うことが出来たのも、東征で宇陀の朱を見つけた成果である。桜井茶臼山古墳の木棺から年輪年代を測定するサンプルが採取されている。桜井茶臼山古墳の年代もはっきりするだろ 

桜井茶臼山古墳の銅鏡片が、群馬県高崎市の蟹沢古墳から出土した、正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡と同じであることがわかった。これらの銅鏡は、神武天皇の建国式典のとき、卑弥呼から授かったものであろう。なお、蟹沢古墳近くには、その支流に丹生川のある鏑川が流れている。丹砂の入手のため、卑弥呼の鏡が配られたと思われる。書紀には「崇神天皇の皇子の豊城命は東国を治めさせた。上毛野君・下毛野君の先祖である」と記載している。蟹沢古墳は上毛野国(上野国)にあり、豊城命の東国統治は正始元年銘の三角縁神獣鏡と関係すると思われる。蟹沢古墳から約40キロメートル利根川の下流に、行田市の稲荷山古墳がある。この古墳から出土した稲荷山鉄剣には「辛亥の年七月記す ヲワケの臣 上祖オホヒコ」の金石文字がある。「朱があれば武器を使わないで天下を平定することが出来る」。大彦命(神武天皇)は、それを実行していたのである。 

金綱井に特定した桜井市金屋付近から、南に1.5キロメートル山に向かって進むと、上の宮地区に至る。この地に全長224メートルの前方後円墳メスリ山古墳がある。この古墳は昭和34年に発掘調査が行われた。後円部の墳頂には、直径五0.5~1メートルの円筒埴輪が埋葬石室の周囲に設置されており、その高さは242センチで、日本最大のものであった。長さ8メートルにおよぶ竪穴主石室はすでに盗掘にあっていて、玉杖を始めとする石製品と、三角縁神獣鏡の銅鏡破片が残っていたのみであった。しかし、主石室の横に未盗掘の副石室があり、そこから他に類例のない長さ182センチの鉄製の弓と、長さ80センチの5本の鉄製矢、その他に500本余りの鉄製・銅製・石製のヤリ先などの武器が出土した。これらの出土品は、現在橿原考古学研究所付属博物館に展示されている。 

高市県主許梅が神がかりして、「神武天皇の山陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ、馬と武器を奉納した御陵こそ、このメスリ山古墳と考える。神武天皇は「戦の神」として崇められており、メスリ山古墳から出土した武器がそれを示している。磐余彦尊(神武天皇)は東征において、墨坂・忍坂から奈良盆地に入り長髄彦と戦っている。この時、磐余彦尊の弓の先に金色の鳶がとまって光り輝き、長髄彦は幻惑されて力戦できなかった。このことからその地を「鳶の邑」と呼び、それがなまって「鳥見」となったとしている。桜井市金屋からメスリ山古墳に至る道の、東側にある245メートルの山が鳥見山である。メスリ山古墳から出土した鉄製の弓は、金色の鳶がとまったという磐余彦尊の弓の逸話と関係があると思われる。磐余彦尊の陵墓としたメスリ山古墳があるこの地域は、古代史で多く出てくる「磐余」の地であると伝えられている。磐余彦尊の陵墓があったからこそ、磐余となったのであろう。

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