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17-1.七支刀に刻まれた年代 [17.空白の4世紀を解く]

邪馬台国の卑弥呼が魏と交わったのが、3世紀前半であり、倭の五王が中国の南朝と好を結んだのが、5世紀である。3世紀半ばから5世初めまでのあいだ、すなわち、晋書武帝紀記載の「泰始二年(266年)、倭の女王使者を遣わして西晋に貢献する」の記述から、同じく晋書武帝紀の「義熙九年(413年)、高句麗・倭国および西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」の記述までの約150年間、中国の史書には倭国に関する記載事項はなく、「空白の世紀」と呼ばれている。この間、中国は晋の時代で都が洛陽にあった西晋(280年~316年)と都を建康(南京)に移した東晋(317年~420年)に分かれている。これら晋の時代は、内乱と北方異民族の侵入により、国内の動揺が続いた時代であった。中国の歴史に倭国の名が登場しない、空白の150年間の間で、古代朝鮮に倭国の名が登場してくる。 

大阪府立近つ飛鳥博物館の展示室に入ると、正面に国宝七支刀のレプリカが展示されている。この七支刀は、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身をいれると七つの枝に分かれる特異な形をした剣で、奈良県天理市石上神社の御神宝となっている。
 昭和56年、NHKはテレビで特集「謎の国宝七支刀」を放映している。NHKはこの七支刀の復元を計るとともに、この剣に彫られている金象嵌(模様を刻み金をはめこんだもの)の60余字について、X線による判読を奈良国立文化財研究所に依頼している。このX線による解読により、従来不明瞭だった10文字のうち7文字が明らかになり、より精度の高い解読がなされた。これらの解釈には色々な説があるが、一般的には次のように読み下している。

表、「泰和四年五月十六日、丙午正陽に百練鋼の七支刀を造る。百兵を避け、侯王に供する宣し。口口口作」。裏、「先の世以来、未だこの刀は有らず。百済(滋)王の世子貴須(奇生)聖音は倭王旨の為に造る。後世に伝え示せ。」さて、この七支刀が製作され倭王に供された年代を訪ねたい。金象嵌はその年を「泰和四年」と示している。中国の年代で「泰和」という年号はない。「泰和」は「太和」であろうと言われている。「太和四年」となると、魏の太和四年(230年)、東晋の太和四年(369年)、北魏の太和四年(480年)が考えられるが、通説のように東晋の太和四年(369年)が妥当と考える。 

書紀神功52年(252年)に、次のような文章がある。「久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。そして、『わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります。』と申し上げた。そして、孫の枕流王に語って、『今わが通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を(た)れて、海の西の地を割いてわが国に賜った。これにより国の基は固くなった。お前もまたよく好を修め、産物を集めて献上することを絶やさなかったら、死んでも何の悔いもない』といった。それ以後毎年相ついで朝貢した。」
 

この文章に出てくる「七枝刀」が、石上神社の「七支刀」であることは、間違いないであろう。書紀の「孫の枕流王に語って」からすると、百済の王は枕流王の祖父の「肖古王」となる。朝鮮の史書、三国史記によると肖古王は346~374の在位となっており、七支刀に刻まれた泰和(太和)四年、369年とは合っている。
 しかし、書紀の編年では神功52年は252年となり、肖古王の時代とは大きくかけ離れている。第1章3節で示したように、書紀は干支2廻り(120年)繰り上げた編年を行っている。 この干支2廻りの繰上げを考えると神功52年は372年になり、私の年表では応神12年に当たる。372年はまさに、肖古王の時代である。また、七枝刀に象嵌された「泰和(太和)四年」369年とは3年間の差のみであり、百済で作られ倭国の手に入る期間を考えると、妥当な年数である。七支刀の金石文、三国史記、日本書紀が全て一致している。


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七支刀は480年に作成されたものです。それは480年(北魏・太和四年)5月11日は丙午に合致するからです970654。
by お名前(必須) (2019-02-21 12:04) 

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七支刀は480年に作成されたものです。理由は480年(北魏・太和四年)5月11日が丙午に合致するからです。これに対して369年の5月は11日も16日も丙午ではありません。
そのため福山敏男は富岡謙三の主張した「五月丙午=吉辰」を拡大解釈して「5月16日=吉祥句」としました。この「5月吉辰」は「五月正中」を意味するので「5月15日」を意味します。したがって福山の吉祥句は「5月16日」ですから正中には当たりません。
そしてこれを仮に認めると369年の5月には「丙午」が福山の主張する「吉祥句の16日」と暦の「27日丙午」に二つもあることになります。こんなバカなことはあり得ません。
by お名前(必須) (2019-02-21 12:21) 

t-tomu

北魏・太和四年(480年)に使用されていた暦法は元嘉暦です。元嘉暦は日本書紀にの雄略紀から持統紀まで使用された暦法です。書紀の編年に従えば、480年は清寧元年に当たります。書紀は1月1日の干支を戊戌、10月1日の干支を癸巳としています。Webの「高精度計算サイト」で調べると480年旧暦1月1日は新暦の1月28日で干支は戊戌、旧暦10月1日は新暦の11月18日で干支は癸巳とあり、「高精度計算サイト」で元嘉暦の干支を確認することが出来ました。「高精度計算サイト」でみると、ご指摘の480年5月11日は新暦の6月4日で干支は確かに丙午でありました。そして、369年の5月11日も16日も干支はご指摘の通り丙午ではありませんでした。だからと言って、貴方様の意見に同調する訳にはなりません。それは、南宋では443年に、北魏では451年に、暦法が景初暦から元嘉暦に変わっているのです。すなわち、干支を調べるのであれば369年は景初暦で、480年は元嘉暦で調べなければなりません。私は景初暦でのチェックが出来ませんので、まだ同意するわけにはまいりません。
『三国史記』をみますと、470年頃は高句麗は頻繁に北魏に朝貢しておりますが、百済は472年に北魏に朝貢し、上表文で高句麗が辺境を侵すので魏に出兵を乞うたが、魏は要請に従わなかったので、王はこれを怨んで北魏への朝貢をやめたとあります。480年ころ百済は北魏の年号を使用しないのではないかと思います
by t-tomu (2019-02-21 22:08) 

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