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73-6.百済からきた卓素は製鉄技術を伝えた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は阿直岐に『お前よりも優れた学者がいるかどうか』といわれた。『王仁(わに)というすぐれた人がいます』と答えた。上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、「賢しき人あらば」=「優れた学者がいるかどうか」、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『古事記』は百済王を照古王(しようこおう)とあるが、『書紀』には百済国王の名がない。倭国は応神天皇(362~390年)で、百済は肖古王(346~375年)の時代である。「記紀年表」によれ応神15年は373年となる。Z458.丸山古墳鞍金具.png

 

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳(円墳:墳径50m✕高さ7m)がある。この古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、応神15年(373年)に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。

 

『記紀年表』による応神5年(366年)から応神12年(373年)の百済との交流により、倭国の文化は大きく変わった。私の「古墳の遺構・遺物の編年表」によれば、380年より古墳中期になり、円筒埴輪は野焼きから窖窯(あながま)での焼成となり、須恵器・馬具・鋲留短甲が新たに登場している。当時、倭国が最も欲した技術は、製錬を伴なう製鉄の技術であったと考えられ、百済からやって来た「手人韓鍛名は卓素」がその技術を伝えたのではないかと想像する。


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百済は肖古王(346~375年)
380年より古墳中期------製錬を伴なう製鉄の技術であったと考えられ、百済からやって来た「手人韓鍛名は卓素」がその技術を伝えたのではないかと想像する。
手人韓鍛名は卓素は346~375年の間にやってきたと考えられます。
その前には倭鍛造技術による甲冑などが造られていました。応神天皇陵より古い弥生時代から古墳時代前期の遺物として出土していますよ。
もともと、弥生時代に鋳造と鍛造が日本に入り、日本はひたすら鍛造の道を進んで来たようです。
鋳造の技術は青銅器(銅鐸)など(薄さは現在でも再現できない)で大陸や半島を抜き去ったのはご存知と思います。
日本刀が大陸や半島で造れなかったのは、大陸や半島ではコストも低く、技術もあまり必要としない鋳造が流行ったからです。
もうすこし想像を高めてみてはどうでしょう。

by お名前(必須) (2023-12-07 12:11) 

t-tomu

「製錬を伴なう製鉄技術」とは、鉄鉱石や砂鉄から鉄を取り出す技術のことです。取り出された鉄を鍛造等をして不純物を取り出すのが「精練」です。「製錬」と「精錬」混同されていませんか?
by t-tomu (2023-12-11 08:49) 

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