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43-9.雄略天皇と江田船山古墳 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]

K61雄略天皇陵.png宋書倭国伝には478年に「倭国王興死し、武立つ」とあり、この倭国王「武」は雄略天皇であることは多くの学者が認めている。宮内庁は高鷲丸山古墳(円墳、径76m)と平塚古墳(方墳、辺50m)の2つの古墳を丹比
高鷲原陵に治定している。写真K61に見られるように、丹比高鷲原陵は後円部と前方部が濠で隔てられているが前方後円墳に見える。これは、江戸時代の文久年間に、幕命により上野(群馬県)の館林藩が円墳と方墳をくっ付けたからである。館林藩はなぜこのような修復をしたのであろうか。

 


『古事記』と『日本書紀』は共に、履中天皇(17代)の孫である顕宗天皇(23代)は、雄略天皇(21代)に殺された父・市辺押磐皇子の仇討ちをすべく雄略天皇の陵を破壊しようとしたが、後の仁賢天皇(22代)である兄がこれを諌め止められたとある。「諌め止めた」というのは、天皇を美化し物語化する後世の編修で、史実は雄略天皇の陵は破壊されたのではないかと思える。河内の高鷲の地には立派な前方後円墳は存在していないことから、江戸幕府も雄略天皇陵は破壊されたと考え、館林藩に円墳と方墳をくつっけたる命令を下したのであろう。

 

雄略天皇の和名は『古事記』が「大長谷若建命」、『日本書紀』が「大泊瀬幼武尊で、「おおはつせわかたけるのみこと」である。熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した鉄剣の銀象嵌、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌には「獲加多支鹵大王」の銘があり、「ワカタケル大王」と読めることから、雄略天皇を指していると考えられている。雄略天皇の陵の古墳年代が不明であっても、江田船山古墳・稲荷山古墳の年代が分れば、雄略天皇の活躍していた時代がわかる。

K62江田船山古墳.pngK63横口式家形石棺.pngK64横矧板鋲留短甲.png








熊本県玉名郡の江田船山古墳は編年の要素としての、造出し・横口家形石棺・円筒埴輪Ⅴ式・馬形埴輪・横矧板革綴短甲・横矧板鋲留短甲・馬具・須恵器が出土している。江田船山古墳の年代は、消滅する要素としての「横矧板革綴短甲」「横矧板鋲留短甲」と、新たに登場する要素の「円筒埴輪Ⅴ式」の出会いから、465~475年と定めることが出来る。横口家形石棺から出土した須恵器の型式は議論が定まらないが、周濠からはTK23・TK47(460~500年)が出土しており、古墳年代と何ら齟齬はない。


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