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43-8.仁徳陵古墳の年代 [43.古墳年代の確定と古墳時代の解明]



K59仁徳陵古墳.png成22年10月文化庁は、世界遺産暫定一覧表への百舌鳥・古市古墳群の掲載を認めた。堺市・羽曳野市・藤井寺市が提出した提案書の表題は、「百舌鳥・古市古墳群-仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳群-」であった。この提案書の作成には考古学者も関わっているなかで、「仁徳陵古墳」と表記されたことは意義深いことに思われる。それは、考古学においては、仁徳陵古墳は大山古墳(現仁徳陵)と記載されており、仁徳天皇陵であるとは認めていなかったか、あるいは仁徳天皇の存在すら認めていない風潮があったからである。






仁徳陵古墳は宮内庁の管理下にあり、考古学的資料は少ないが、1872年(明治5年)に、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し、石室と石棺が発見され調査が行われている。石棺は開封されなかったが、その時描かれた絵図の一部が現存している。それによると、石棺は長持形石棺であり、横矧板鋲留短甲・小札鋲留眉庇付冑が副葬されていたことが分る。江戸時代には後円部が露呈しており、長持形石棺があったようである。





K60須恵器仁徳.jpg墳丘・周豪から出土したものには、円筒埴輪Ⅳ式・馬形埴輪があり、長持形石棺・円筒埴輪Ⅳ式・馬形埴輪・横矧板鋲留短甲の要素から導き出される仁徳陵古墳の年代は、400年~470年の古墳中期としか言えない。1998年(平成10年)に宮内庁は、仁徳陵古墳の東側造出しから須恵器を採取した。復元された須恵器の大甕はON46型式であることが判明した。私が作成した須恵器の編年表からすると、仁徳陵古墳の古墳年代は、ON46型式(TK208)である440年~460年になる。





宋書の帝紀・倭国伝によると、倭国王「讃」は421年・425年・430年と宋に朝貢し、438年には「倭王讃死し、弟珍立つ。珍遣使献ず」とある。倭王讃が亡くなった年代(438年頃)と仁徳陵古墳の古墳年代(440年~460)とが一致し、倭王讃が仁徳天皇であることが確定できる。ちなみに、「2.日本書紀原典の再現」で示した年表によると、仁徳天皇の即位は383年、崩御は434年であり、倭王讃の朝貢、倭王讃の崩御、仁徳陵古墳の年代の全てを満足している。古墳時代の中期の始まり(400年)の画期は、仁徳天皇の治世下にあった。




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