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73-8.鉄滓の製鉄工程(製錬・精錬・鍛錬)の分類 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

Z461.天辰分類.png遺跡から出土した鉄滓が、製錬・精錬・鍛錬の何れの製鉄工程で発生したものであるかを知るために化学分析がなされ、その組成から製鉄工程の分類が行われている。ただ、その判別は大澤正己氏等の金属学に精通した分析の専門家に委ねられているのが現状である。天辰正義氏が「出土鉄滓の化学成分評価による製鉄工程の分類」の論文を平成16年に発表している。論文には二酸化チタン(i2)と全鉄量(Total Fe)の関係から、製鉄工程の分類を求める図表が示されてあり、分析の専門家外のものでも理解できるようになった。図461が天辰氏が示した出土鉄滓の工程分類図である。〇付着滓(ガラス質滓)、が砂鉄製錬滓、▲が砂鉄精錬滓、■が鉱石製錬滓、△が鍛錬鍛冶滓(砂鉄・鉱石)である。天辰氏は鉱石精錬滓の領域を定めていないが、鉱石製錬滓と鍛錬鍛冶滓にまたがった領域と推定される。これからすると、i2とT-eの指標では、砂鉄製錬滓は分類できるが、鉱石製錬滓は鉱石精錬滓や鍛錬滓(砂鉄・鉱石)と混じり合い、製鉄工程の分類が出来ない欠点があるのではないかと思える。分析の専門家は顕微鏡下で、製錬・精錬・鍛錬の工程で固有の相・組織を観察して、製鉄工程の分類が行っている。

 

私は始発原料の判定指標にTi2/MnOの値を基本として使用した。それは、砂鉄にはTi2が多く、鉱石にはMnOが多いからである。これらからTi2含有量の評価を小さくし、MnO含有量の評価を大きくして合計したものを指標とすれば、砂鉄製錬滓領域と鉱石製錬滓領域が同じレベルになり、鍛錬滓(砂鉄・鉱石)と明確に区別できることに気が付いた。そして(Ti2/5+MnO*2)とT-eの指標が製鉄工程の分類に有用であることを発見した。ただ指標としては、SQRT(Ti2/5+MnO*2)を使用している。平方根(SQRT)を使用したのは、10以上の大きい値を小さく、1以下の値を大きくして図表を見やすくするためである。なお、この製鉄工程判定指標を今後“製鉄指標”と表記する。

 

Z462.鉄滓の製鉄工程分類.pngこの製鉄指標で、製錬滓・精錬滓・鍛錬滓の分類を何れの値にすれば、分析専門家の判定と相違が少なくなるかを調べ、決定したのが図462である。Aが製錬滓、Bが精錬滓、Cが鍛錬滓の領域である。(AB)領域では製錬滓と精錬滓が共存し、斜線はY=0.04X-0.75Y=0.04X-1である。(BC)領域では製錬滓と鍛錬滓が共存し、横線はY=0.75Y=0.6である。Ⅾ1・Ⅾ2の領域は、鉄滓が炉床・炉壁の粘土と反応し、ガラス質の新たな組成の鉄滓に変質する領域で、分類が出来ない領域とした。これならば、鉄滓の分析値があれば、その全ての製鉄工程の分類が誰にでも出来る。


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73-7.始発原料(砂鉄・鉱石)判定の信頼性は99% [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

我国最古の製鉄遺跡は岡山県総社市の千引カナクロ谷製鉄遺跡で、年代は出土した須恵器より6世紀後半と判断されている。これらより、我が国で製錬を伴なう製鉄が行われたのは、6世紀後半以降となっている。私がこの通説を覆す証拠を見つけることが出来るのは、鉄滓の分析値からのみである。鉄滓の始発原料(砂鉄・鉱石)が何であるか、また製鉄工程(製錬・精錬・鍛錬)の何が行われたかを分析値から判定する基準は明確でなく、その判定は金属学に精通した分析の専門家に委ねられている。信頼性のある明確な判定の基準を設定して、5世紀以前に製錬を伴なう製鉄が行われたという証拠を示したい。

 

Z459.始発原料の判定.png「66-10.鉄滓の始発原料の見分け方」で記載したように、鉄滓の分析データを整理している中で、原料・製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓・鉄塊に含まれる二酸化チタン(i2)と酸化マンガン(n)の両者の比率はそれほど変わらないことに気がついた。そして、Ti2/MnOが2.5以上であれば始発原料は砂鉄、2.5以下であれば鉱石と判定できることを発見した。図459は、分析者と私の判定が合致したものについて、原料・鉄滓・鉄塊のTi2/MnOと全鉄量(Total Fe)の関係を表したものである。なお、が砂鉄でが鉱石であり、グラフを見やすくするために縦軸は対数目盛にしている。Ti2/MnOの指標が有効であることが一目瞭然である。なお、全鉄量(Total Fe)が20%以下の鉄滓は、炉床・炉壁の粘土と反応しガラス質になっており、粘土の成分の影響を受けており、始発原料判定の対照から外す必要がある。

 

この指標の信頼性を確かめるには、原料の判定が一番である。私が集めた原料のデータは130点で、砂鉄が75点、鉱石が55点である。Ti2/MnOが2.5以上であれば始発原料は砂鉄、2.5以下であれば鉱石とする判定基準で原料を判定すると、砂鉄を鉱石と判定したものが3点、鉱石を砂鉄と判定したものが1点であった。砂鉄の判定を間違えた3点は真砂砂鉄と呼ばれる砂鉄で、その中でも日本刀の原料となる特に不純物の少ないものであった。真砂砂鉄は磁鉄鉱系を主成分とする砂鉄で、不純物の少ない優れた鉄源で産出地は山陰側の一部に限られてる。この真砂砂鉄を見分ける方法として、砂鉄の特有のバナジュウム()を指標に取り入れることにした。新たに定めた指標では、砂鉄の条件はTi2/MnOが2.75以上、またはTi2/MnOが1.5以上でバナジュウム()が0.1以上である。この判定基準では真砂砂鉄も全て合致し、不合致だったのは岡山県赤磐郡瀬戸町の池尻遺跡から出土した鉄鉱石1点のみであった。この鉄鉱石はTi2・V・Cr・Al23・MgOなどの不純物の多い特徴をもったものであったため、鉱石を砂鉄と判定したものであった。

 

Z460.始発原料判定結果.png私は全国(北海道・沖縄除く)の248遺跡の1019点の原料・鉄滓・鉄塊の分析値をデータベースに持っている。私の判定基準に従えば1019点全ての始発原料(原料を含めて)を判定することができる。鉄滓・原料・鉄塊の始発原料について分析者の判定と私の判定を比較したのが表460である。表の製鉄工程は分析者によるもので、椀形滓は精錬滓・鍛錬滓に分類していなかったもののみを示している。原料・製錬滓・精錬滓では合致率は99%以上と高い。鍛錬滓・鉄塊で合致率が低くなっているのは、分析者と私のどちらが間違っているのであろうか。分析者の始発原料の判定指標は、二酸化チタン(i2)の含有率を第一にしている。そのため、二酸化チタン(i2)の含有率が少なくなる鍛錬滓や鉄塊では、その判定が困難となる。表Z460の鍛錬滓や鉄塊の未定率が44%,39%と高くなっているのはそのためである。一方、私の判定基準の基本であるTi2/MnOの値は、製錬滓・精錬滓と鍛錬・鉄塊とあまり変わらない。鍛錬・鉄塊の始発原料の判定は、私の判定の方が正しいのではないかと思っている。Ti2/MnOが2.75以上、またはTi2/MnOが1.5以上でバナジュウム()が0.1以上が砂鉄という判定基準の信頼性は99%あると自負している。


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73-6.百済からきた卓素は製鉄技術を伝えた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『古事記』応神記には「百済の国主照古王、牡馬壱疋・牝馬壱疋を阿知吉師に付けて貢上りき。また横刀と大鏡とを貢上りき。また百済国に『若し賢しき人あらば貢上れ』とおほせたまひき。かれ、命を受けて貢上りひと、名は和邇吉師、すなはち論語十巻・千字文一巻、并せて十一巻をこの人に付けてすなはち貢進りき。また手人韓鍛名は卓素、また呉服の西素を貢上りき。」とある。一方、『書紀』応神15年には「百済王は阿直岐(あちき)を遣わして良馬二匹を奉った。・・・天皇は阿直岐に『お前よりも優れた学者がいるかどうか』といわれた。『王仁(わに)というすぐれた人がいます』と答えた。上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして王仁を召された。」とある。『古事記』と『書紀』の記事は、百済国主=百済王、牡馬壱疋・牝馬壱疋=良馬二匹、阿知吉=阿直岐、「賢しき人あらば」=「優れた学者がいるかどうか」、和邇=王仁であり、両者は全く同じ話である。『古事記』は百済王を照古王(しようこおう)とあるが、『書紀』には百済国王の名がない。倭国は応神天皇(362~390年)で、百済は肖古王(346~375年)の時代である。「記紀年表」によれ応神15年は373年となる。Z458.丸山古墳鞍金具.png

 

応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前方部の近くに陪塚の誉田丸山古墳(円墳:墳径50m✕高さ7m)がある。この古墳から江戸時代に金銅透彫鞍金具が前輪・後輪の対で2具分出土し、誉田八幡宮に納められ国宝となっている。両具共に龍をアレンジした唐草模様の透かし彫りで、朝鮮半島や中国東北地域との関わりが推定されている。私は丸山古墳から出土した鞍は、応神15年(373年)に百済の肖古王から応神天皇に奉った牡馬と牝馬の二匹に装着していた鞍で、いかり肩のような角ばった1号鞍が牡馬用、なで肩のように丸みをおびた2号鞍が牝馬用のものであったと想像している。

 

『記紀年表』による応神5年(366年)から応神12年(373年)の百済との交流により、倭国の文化は大きく変わった。私の「古墳の遺構・遺物の編年表」によれば、380年より古墳中期になり、円筒埴輪は野焼きから窖窯(あながま)での焼成となり、須恵器・馬具・鋲留短甲が新たに登場している。当時、倭国が最も欲した技術は、製錬を伴なう製鉄の技術であったと考えられ、百済からやって来た「手人韓鍛名は卓素」がその技術を伝えたのではないかと想像する。


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73-5.行者塚古墳の鉄鋌40枚は百済の肖古王の下賜品 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』神功46年には、卓淳国(韓国大邸市)に遣わされた斯摩宿禰は卓淳の王から百済王が倭国と交流したいと願っていることを聞き、従者の爾波移を百済国に遣わした。百済の肖古王は大変喜んで厚遇され、倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)鉄鋌40枚を与えている。百済の肖古王の在位は346~375年であり、神功46年は書紀の編年に従うと246年で年代が合わない。『書紀』の神功46年から応神41年までの百済・新羅・高麗および呉と関連する記事は、干支2廻り繰り上げられており、神功46年は干支2廻り繰り下げた366年で、「記紀年表」では応神5年となる。

 

百済の肖古王は372年、応神11年(神功52年:252+120)に使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉ったとある。この七枝刀が奈良県天理市の石上神宮にある国宝の七支刀で、表の金象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

七枝刀を奉ったとき、百済の使者久氐は、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。肖古王の時代、百済の都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流のに忠州市がある。忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、鉄鋌40枚が出土している。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

Z456. 弾琴台鉄綖.png

Z457. 行者塚古墳鉄鋋.png我国の5世紀の古墳から鉄鋌と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板でが、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚が出土している。鉄鋌が出土した古墳の中で、最も古いのが5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳で、鉄鋌40枚が出土している。行者塚古墳は墳長100m、後円径68mの帆立貝形前方後円墳で盾形の周濠を有し、造出が両くびれ部と後円部左右の4ヶ所にある特異な古墳である。後円部中央に埋葬施設があり3基の粘土槨が据えられている。円筒埴輪はIII(340379)で、ひれつき(280419)のものもあり、盾形埴輪・蓋形埴輪・短甲形(三角板革綴)埴輪(350469)・草摺形埴輪(280459)の器財埴輪、家形埴輪、囲形埴輪が出土している。出土した遺物には、金銅装帯金具(380559)・巴形銅器(290379)の青銅製品、円形鏡板付轡・長方形鏡板付轡・鎮轡の3点の鉄製馬具(380年~ )、鉄刀・鉄鏃・鍬先・鉄鋌の鉄製品がある。なお、(  )に示す数字は3294基の古墳データ(前方後円墳1922基)より、143種の遺構・遺物の編年を行った値である。

 

『書紀』神功46年の記事では、366年に百済の肖古王が倭国の使者爾波移に鉄鋌40枚を賜ったとあり、韓国忠州市にある弾琴台土城からは鉄鋌40枚が出土し、その年代は4世紀から5世紀初頭である。また、5世紀初頭とされている兵庫県加古川市の行者塚古墳から出土した鉄鋌40枚と、3者が40枚と合致していることに興味を覚える。行者塚古墳の築造年代は、埴輪はIII(340379)・巴形銅器(290379)と金銅装帯金具(380559)・鉄製馬具(380年~ )から375~385年であると考える。行者塚古墳の被葬者は斯摩宿禰、あるいは従者の爾波移で、埋納されていた鉄鋌40枚は、366年に百済の肖古王から賜ったものであると想像する。

 

「弁辰と加耶の鉄」(東潮:2003)によると、鉄鋌は4世紀中葉ごろ百済・新羅・加耶の地域で出現する。初期の鉄鋌の形状はバチ形で、6世紀になると小型化し、6世紀中葉ごろには鉄鋌という形の鉄素材が出土資料として認識できなくなるとある。また、我が国の鉄鋌の出現は5世紀の初めで(4世紀中葉頃の流入の可能性も示唆)、古墳への副葬は6世紀中葉頃には無くなっている。8世紀初めに編纂された『書紀』が“鉄鋌”について記載し、その年代が考古学な知見と合致していることは、366年に百済の肖古王が鉄鋌40枚を倭国の使者に賜ったという記事が、史実であったことを証明している。


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73-4.銅鐸を鋳造する技術レベルは鉄の製錬が可能 [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

我国の最古の製鉄遺跡とされているのは、岡山県総社市の千引カナクロ谷製鉄遺跡で、年代は出土した須恵器より6世紀後半と判断されている。6世紀後半といえば、古墳時代後期後半で欽明天皇の時代である。我が国の製鉄の始まりがそれほど遅いのかの疑問に、これより以前の製鉄遺跡が出土していないからと言われればそれまでだが、それよりも製鉄技術は非常に高度なもので、弥生・古墳前期・古墳中期の技術レベルでは鉄を造り出すことは出来ないという、先入観に囚われているのではないかと思える。

Z455-1 アフリカの鉄製錬.png
ヨーロッパで鉄の歴史を研究されている学者は、アフリカの原住民の製鉄に興味を持っている。それは、原始的な製鉄方法が垣間見られるからであろう。You Tubeの「Smelting Iron in Africa」の映像がある。この映像は西アフリカのBurkinaで撮られたものであるが、この地方には紀元前にNok Cultureが栄え、製鉄(製錬)が行われていたそうだ。この映像を見ると、目から鱗、日本の考古学者が考えているような炉・炉床がなくとも、鉄の製錬は出来ると推察できる。

 

Z455-2 アフリカの鉄製錬.png

炉を造る材料として粘土を採取し(7)、水を加えてスサ(8)を練りこむ。スサは木の葉(青い人の後ろにある)を利用している。炉の芯はヨシのような枝分かれしていな草の茎の下部の部分を、細い上部の部分で包んで作る(9)。下が大きく、上が小さい炉の形となる。

 

Z455-3 アフリカの鉄製錬.png

 炉の芯を立て表面に粘土を貼り付けて行く(10)。1m程度の高さまで貼り付けたら表面をなで(11)、スサを貼り付け(12)、そして粘土をもう一層貼り付ける。炉の強度を確保するためにはスサが重要である。

Z455-4 アフリカの鉄製錬.png

粘土が乾燥し強度が出てきたら炉芯に使っていた茎を抜き(13)、下部に炉口を切る(14)。炉芯に使っていた茎などを燃やし、炉を乾燥させる。これで炉本体(15)の完成である。

Z455-5 アフリカの鉄製錬.png

丸棒にスサ入りの粘土を巻き付け、羽口(16)・送風管(17)・フイゴ本体(18)を作る。  

Z455-6 アフリカの鉄製錬.png

炉に羽口・送風管・フイゴ本体を取り付け(19,20)、フイゴに革を張る(21)

Z455-7 アフリカの鉄製錬.png

炉に木炭を満杯に詰め、炉口より着火する(22)。木炭に火が付いたら羽口と炉口の隙間を粘土でふさぐ。木炭が燃え炉の頂上に隙間が出来ると、鉄鉱石と木炭を一籠ずつ交互に入れる(23,24)

 

Z455-8 アフリカの鉄製錬.png

 フイゴの操作は一人が右手と左手で交互に行い(25)、人を交代させながら休みなく行われ、木炭・鉄鉱石・オークストーンの投入が行われる。所定の投入が終わると、羽口の周辺に覗きの口を開け、中の様子を伺いながら送風を行い、時期を見てノロ(鉄滓)が流し出さされる(26)。その後、もう少し送風を続け温度を上げると、鉄塊(Bloom)が半溶融状態となる(27)。操業開始から約10時間程度である。

Z455-9 アフリカの鉄製錬.png

製錬の工程が終わると鍛冶の工程にはいる。送風を止め、鉄塊を取り出す。取り出された鉄塊の表面はノロや木炭が付き凸凹している(28)。鉄塊を鉄床の上に置き、鏨を鉄鉗で挟んで鉄槌で打ち切り分ける(29)。表面は黒くなっていても中は赤く、溶岩とおなじである(30)

 

弥生時代に造られた銅鐸で一番大きなものは、滋賀県野洲市大岩山出土の大岩山1号銅鐸と呼ばれているもので、高さ135cm、裾幅49cm×43cm、厚さ約3mmで、重量は45kgである。金属成分を銅鐸の平均的な組成の銅・錫・鉛(85:8:7)の青銅と考えると、比重は8.93で融点は約950である。銅鐸を造るに必要な45kg青銅の体積は5000㎤で、一辺17㎝の立法体の大きさである。鋳込みに必要な溶融温度は融点の10%程度上とされているが、高さ135cm、厚さ約3mmの銅鐸を鋳込むためには、湯(溶融青銅)の流動性を良くしておく必要があり、溶融温度は融点の200程度上の1150℃は必要と思われる。

 

たたら製鉄における炉内温度は1300℃前後である。また、西アフリカの製鉄の映像にあった円筒の炉で製錬された鉄塊の大きさは、一辺17㎝の立法体程度の大きさである。一方、銅鐸を鋳込むとき青銅を溶融させる炉は、鉄の製錬が行われる炉内よりもオープンで温度をあげ難いと思われる。これらを考えると、弥生時代の銅鐸を造る技術(炉・フイゴ・炭)は、製鉄に必要な高温を確保するにレベルにあることが分かる。原料の選別(砂鉄・磁鉄鉱・渇鉄鉱)、炉の構造、製鉄方法を知れば、弥生・古墳前期・古墳中期に原始的な方法で製鉄を行うことが出来ただろうと思える。


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73-3.景行天皇の時代に弁辰の鉄の供給が途絶えた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

Z452.景行天皇九州遠征.png景行天皇の行程は図Z452に示すように、周芳の婆麼から船で豊前国の長狭県に渡り行宮を建て、その地を京(福岡県京都郡・行橋市)と呼んでいる。それから碩田国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至り、禰疑野(竹田市菅生)にいる土蜘蛛を討伐しようと、直入県の来田見邑(大分県直入郡・竹田市)に向かっている。稲葉の川上(稲葉川:竹田市)で、海石榴(つばき)の木で作った椎(つち)で土蜘蛛を討った。椎を作った所を海石榴市、血の流れた所を血田という。『豊後風土記』では、海石榴市も血田も大野郡(大野川中流域)にあるとしている。その後、景行天皇は日向国の高屋宮(西都市)の行宮に入られた。景行天皇は日向で大隅半島の襲国(鹿児島県曾於郡)を平定したあと、九州巡幸を行っている。その道中で玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛を殺し、阿蘇国(熊本県阿蘇町)を巡り、御木(福岡県三池郡高田町)の高田の行宮に着かれている。熊本県玉名市から阿蘇町に行くには菊池川を遡り、鹿本町から支流の合志川を遡上し、大津町に出て阿蘇外輪山が途切れる立野より阿蘇谷(阿蘇盆地北部)の阿蘇町に入るルートと考えられる。景行天皇の九州遠征経路図を見て、不思議に思うことがある。それは、大分県側と熊本県側から阿蘇山に向かって内陸部に行っていることだ。

Z453.弥生時代の鉄器.png
表Z453は『邪馬台国と玖奴国と鉄』菊池秀夫(2010)に記載された、弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20を示したものである。⑤の徳永川の上遺跡は福岡県京都郡豊津町に在る。大分県では、⑫の守岡遺跡と⑬の下郡遺跡は大分市を流れる大分川下流の川沿いにある。⑰の小園遺跡と⑱の上菅生B遺跡は竹田市の大野川上流域近くにある。⑲の二本木遺跡、⑥の高添遺跡と⑮の高松遺跡は大野川中流域にある。そして、宮崎県では②の川床遺跡は西都市に隣接する新富町にある。熊本県では、⑦の方保田東原遺跡は菊池川沿いにあり、①の西弥護免遺跡は大津町にある。③の狩尾湯ノ口遺跡、④の池田・古園遺跡と⑧の下山遺跡は阿蘇町にある。図Z452にある
はこれらの遺跡である。景行天皇の行程は武器類鉄器の主要な遺跡がある地域を巡っている。弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20のうち14遺跡が、景行天皇の九州遠征経路に入っている。

 

話は変わるが『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。この弁辰の鉄が、弥生時代の後期後半、3世紀にわが国に入って来た鉄素材の斧状鉄板(板状鉄製品)である。4世紀に入り西晋(280~316年)が弱体化すると、朝鮮半島の勢力図は一変する。北部にあった高句麗は南下政策を取り、313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡を滅ぼした。また、4世紀初め頃には馬韓から百済が興り、辰韓から新羅が興っている。4世紀初め頃には、弁辰の鉄の我国への供給はストップしたと考えられる。


私の編年した「記紀年表」によれば、景行12年は315年となる。弁辰の鉄の供給がストップしたことは、大和王権にとっては重大なことであり、阿蘇地域で製鉄が行われていたことを伝え聞いていた景行天皇は、鉄の素材を求めて九州遠征を行ったと考える。景行天皇が九州遠征を行ったこと、弥生時代に阿蘇地域で製鉄が行われていたことは史実であると考える。

 

2012年の日本考古学協会福岡大会の第1分科会「弥生時代後半期の鉄器生産と流通」の報告書の最後に、「弥生時代の鉄製錬に関しても熊本県阿蘇周辺の弥生時代後期に鉄器を大量に出土する遺跡が、リモナイトの分布地域と一致することなどは事実として指摘できるが、直接両者を結びつけることのできる遺跡はまだ確認できていない。」と記載している。阿蘇地域には弥生時代後期の鉄器や鉄滓などが出土した遺跡は10ケ所ほどあり、その中で狩生・湯ノ口遺跡、池田・古園遺跡、幅・津留遺跡からは多くの鉄滓が出土している。しかし、これらの鉄滓の組成を分析した報告は何故だか見当らない。弥生時代の鉄製錬の存在の有無に大きく関わることだけに残念ことだ。


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C-5.オミクロン株は自滅し、桜の咲く頃には収束する [番外:新型コロナ感染指数で解く]

昨年8月の初めから猛威を振るった新型コロナウイルスデルタ株の感染者は、8月末にピークを向かえ、9月に入って急減し、9月の終わりには収束している。デルタ株の急減の理由について、政府コロナ分科会の尾身会長は、(1)一般市民の感染対策強化、(2)人流、特に夜間の人出抑制、(3)ワクチン効果、(4)医療機関・高齢者施設での感染者の減少、(5)気象の要因など5つの要素を掲げていた。一方、1967年にノーベル化学賞を受賞したドイツの生物物理学者のマンフレート・アイゲン博士が、その4年後に提唱した「ウイルスは変異しすぎるとそのせいで自滅する」という『エラーカタストロフの限界』説を持ち出し、デルタ株の急減を説明しようとする見解もあった。いずれにしろ、第6波の感染拡大を防ぐには、なぜ感染が急拡大し、急減したかの解明が不可欠であるが、専門家の間でもその答えは出ていない。

1.感染者推移は一つの方程式で現される!
NHK NEWS WEB
の特別サイトの「新型コロナウイルス」にある都道府県別、国別の感染者数の推移を見ていると、その増減の形はどの地域おいても釣鐘形であり、品質管理でいう正規分布、統計学でいう確率密度関数の分布をしているように見受けられた。そこで、感染者数の推移が一つの式で表せないかと試み、その式を見つけ出すことが出来た。これは「世紀の大発見」かも知れない。「論より証拠」、まずは感染者数の推移と方程式が描くグラフを示す。赤線が感染者の推移、青線が方程式が描く曲線。横軸は“月/日”、縦軸は国の場合は百万人当たり感染者数、都道府県の場合は10万人当たりの直近7日間の感染者合計(データはNHK「新型コロナウイルス」サイト)とした。

日本のコロナ感染者推移.png
世界の感染者推移.png

2.感染者推移の方程式は確率密度関数がベース
コロナ感染者の推移のグラフ(赤線)と方程式の曲線(青線)がものの見事に一致している。この方程式は統計学の確率密度関数をベースに作成している。

感染者推移方程式.png

横軸のXは”月/日“ではなく、感染者数のピークの日を”0“とした日数。縦軸Yは感染者数(国の場合は百万人当たり感染者数、都道府県の場合は10万人当たりの直近7日間の感染者合計)。σとKとAが決まれば、青線の曲線を描くことが出来る。σ は山の幅に関与し、Kは山の高さに関与する。Aはピークの初期高さ(感染者数)となる。Kは10日間で増加した感染者数Dが分れば、Kは計算できる。

エクセルには確率密度関数ƒ()が搭載されているので、上図のような表計算を行い、[挿入]タブから[グラフ]メニューの[散布図(平滑線)]を選択して、X(C4C24)Y(D4D24)の範囲を選べば、コロナ感染者の推移のモデル曲線を簡単に描くことができる。新型コロナの感染者推移が描く曲線が、確率密度関数の形状であることの意義は大きい。曲線は感染の拡大期と収束期が同じ形で左右対称、そしてピークが必ず存在している。このような曲線を描くのはウイルス自体の問題であり、第5波に見られる感染者数の急減は、デルタ株ウイルスが自滅したからと推察する。


3.東京の第5波のピークと収束日は8/1に予測出来た
感染者推移が描く曲線で注目するべきことは、拡大期には直線的に増加していく時期があることである。感染者が直線的に増加する時の傾きを知ることが出来れば、確率密度関数の曲線が描くことが出来、ピークアウトの月日と感染者数、また感染拡大が始まった時と同じ感染者数になる収束日を予測できる。東京都のコロナ第5波の感染拡大が始まったのは6月28日頃で、新規感染者は490名(27日移動平均)であった。グラフでは10万人当たりの直近7日間の感染者数を表しているので25名となっている。この頃には、大きな感染拡大が起こるとは思っていなかったが、その後急激な感染の拡大が起こり、7月25日から8月1日の7日間はに直線的に感染拡大が起こっている。8月1日に今後の予測をしたと仮定する。

東京コロナ感染予測.png

確率密度関数での予測では、東京都がピークアウトするのは8月21日となった。実際のピークは8月19日であり、ピッタリ当っている。収束するのは10月6日と予測したが、実際は9月24日であった。8月1日の時点で、ピークアウト日や収束日を予測した専門家はなく、確率密度関数の曲線による感染者の予測は、専門家を超えていると自負している。

東京都の人口は14百万人、予測ではピークの感染者数は6415人(322.4X139.3/7)で、実際(4770人)の1.34倍であった。728日の厚生省の専門家会議で京大の西浦教授は、東京都の感染者は8月26日には10,643人になると述べている。私の予測は西浦教授を超える精度である。第5波はデルタ株により感染拡大、確率密度関数の曲線で推移、ウイルスが自滅して収束したと考える。第6波の感染拡大阻止に有効な対策は何であろうか。

4.オミクロン株は自滅し、桜の咲く頃には収束する
南アフリカオミクロン.png
新型コロナのアルファ株・デルタ株の感染者の推移は、確率密度関数の曲線が描くことが出来た。オミクロン株は感染力が強く、今までと違った感染拡大となっており、同じ曲線を描くことが出来るのであろうか。右図はオミクロン株の発祥の地とされる南アフリカの11月19日から1月13日までの新規感染者の推移である。オミクロン株もこれまでと同様に、ピークアウトし収束に向かっている。南アフリカでは1月15日現在でワクチンが完了した人は27%であり、オミクロン株の収束はワクチンのせいではなく、ウイルスが自滅したからと推察する。

オミクロン株がこれまでのアルファ株・デルタ株と同じ挙動を示すならば、直線的な増加割合から確率密度関数の曲線が描くことが出来、オミクロン株のピークアウト日、収束日を予測することが出来る。1月15日までの感染者のデータにより予測した。
オミクロン株による新規感染者のピークアウトは、全国・東京・大阪共に1月29日、収束日は共に2月25日であった。ピーク時の1日当たりの新規感染者は、全国で36,740人、東京で6,630人、大阪で5,090人であった。この原稿を投稿しようとしている1月18日には、東京が新規感染者が5,185名、大阪が5,396人との速報値が出た。これで計算するとピーク時の1日当たりの新規感染者は、東京は7,313人、大阪は6,363人となる。なお、この感染者数は7日間の平均であり、ピークの日の実際の新規感染者はもう少し多くなる。オミクロン株は1月29日にはピークアウトして急減する。新しい株の発生がなければ、桜の花が咲くころには、我々は平穏な生活を営むことが出来ると予測する。

オミクロン感染予測.png

 

 


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73-2.景行天皇は鉄を求めて行幸した [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』景行4年(314年)に、景行天皇は美濃に行幸され泳宮に滞在している。美濃への行幸の目的が何であったかは記載されていないが、この地で美人の誉れの高い弟媛を召され、姉の八坂入媛を妃としている。八坂入媛の第1子稚足彦が成務天皇である。泳宮(くくりのみや)は岐阜県可児市久々利にあったとされている。万葉集にも泳宮は「百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮尓・・・(ももきね 美濃の国の 高北の 泳宮に・・・)と詠まれている。「八十一隣之宮」が何故「くくりのみや」なのか調べてみたら、掛け算で九✕九=八十一、「八十一隣之宮」は「九九隣之宮」であった。万葉集が成立した8世紀に、掛け算の九九が使われていたことは驚きである。

 

奈良県飛鳥池遺跡出土の木簡に「加尓評久々利五十戸丁丑年十二月次米三野国」とある。飛鳥浄御原宮の時代の木簡で、干支「丁丑」は天武6年(677年)にあたる。三野国加尓評久々利(美濃国可児郡久々利)は飛鳥時代には存在していたことが分る。可児市は“かにし”と呼ばれているが、「加尓評」の「尓」は“ニ”と呼ばれていたか“ジ”と呼ばれていたか定かではない。私は加尓評はカジ評で、“鍛冶(かじ)”に由来する地名であると思っている。なお、平城京から出土した木簡に「国司従五位下鍛冶造大隅」「間食一升鍛治相作料」とあり、“鍛冶(かじ)”も古くから使われていた言葉である。景行天皇は鉄を求めて美濃の泳宮に行幸したと想像する。可児市にある次郎兵衛塚1号・5号、稲荷塚2号からは鉄滓が出土している。これらの古墳は横穴式石室を伴ない、古墳後期のものである。残念ながら可児市には景行天皇の時代、古墳前期の製鉄遺跡や遺物は発見されていない。

 

Z452.景行天皇九州遠征.png『日本書紀』景行12年に、景行天皇は「熊襲がそむいて貢ぎ物を奉じなかった」と筑紫(九州)遠征をし、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から筑紫に向かっている。防府市の佐波川河口から約50Km遡った地点から栃山峠を越えた山口市阿東町地福に突抜遺跡がある。突抜遺跡の弥生時代末~古墳時代初頭の住居跡から鉄器・鉄滓・砥石が出土している。鉄滓の分析値からすると、鍛錬鍛冶に使用された鉄素材の始発原料は鉱石であった。突抜遺跡のある阿東町徳佐には時代不詳の小南製鉄遺跡がある。遺跡は後谷堤(河川跡)に流れ込む小川の右岸および堤の斜面に鉄滓と炭が円形に散乱していた。鉄滓の分析値から鉱石を原料とする製錬が行われていたことが分る。小南製鉄遺跡の近くには弥生環濠集落の宮ヶ久保遺跡があり、弥生中期中葉~末の土器や弥生時代末~古墳時代初頭の土器が出土している。突抜遺跡の鉄素材は小南製鉄遺跡で製錬された鉄塊が使用された可能性は十分ある。小南製鉄遺跡出土の炭の14C炭素年代測定をすれば、弥生時代の鉄製錬の存在が証明されると思われる。景行天皇は周防で鉄が取れることを知っていたのかも知れない。


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73-1.垂仁天皇は剣一千口を造らせた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』垂仁39年の条に「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らされ、石上神宮に納めた。」とある。『古事記』の垂仁天皇記には「イニシキノイリヒコ命は鳥取の川上宮においでになって、大刀一千口を作らせて、これを石上神宮に奉納した。」とある。

この川上宮は大阪府の南部の阪南市にあったと考えられている。阪南市には鳥取が付く地名が現在も残っている。奈良時代の法隆寺の『伽藍縁起并 流記資材帳』には「和泉国日根郡鳥取郷」とあり、鳥取は古来からあった地名であることが分る。

 

古代の製鉄工程は、鉄鉱石や砂鉄から荒鉄(生鉄・鉧・銑鉄)を取り出す「製錬」、荒鉄から不純物を取り除き炭素調整をして鉄素材を造る「精練鍛冶」、鉄素材を鍛造成形や熱処理をして鉄製品を造る「鍛錬鍛冶」に分けられている。垂仁天皇が造らせた剣一千口が史実とするならば、それは鉱石から製錬・精錬・鍛錬の工程を経て造られたことを伝えている。

 

阪南市の北端を流れる男里川は菟砥川と山中川に分れ、山中川の山間部は山中渓谷と呼ばれ、熊野古道紀伊路が通っていたところで、古来から和歌山市に通じる道があった。山中渓谷を3km遡った標高80m程度の所には、今はもう無くなったが昔は大阪の奥座敷と呼ばれた山中渓温泉があった。温泉は「川の傍らに冷泉が沸く」言い伝えられていたそうだ。川上宮はこの冷泉と関わる地にあったように思われる。菟砥川は後世に付けられた名前であろう。

 

阪南市の男里川・山中川を挟んでほぼ接しているのが泉南市。泉南市教育委員会のウエブサイト「せんなんのたからもの」には、壺石が泉南市信達岡中で昭和30年代に採取されたことが載っている。壺石は鳴石・鈴石あるいは高師小僧と呼ばれる、水酸化鉄の集合体である褐鉄鉱の一種で、形成のメカニズムには、水中の鉄イオンの沈殿による無機説や鉄バクテリアがかかわる有機説などが提唱されている。イギリスの古代の製鉄は、そのほとんどが湖沼鉄(Bog Iron)と呼ばれる褐鉄鉱をの原料として製錬している。この壺石(褐鉄鉱)は製鉄の原料として成りえるのである。

泉南市壺石.png

 

壺石が採取された泉南市信達岡中は山中川に沿った地域である。川上宮があったと推定される地域で、大刀一千口を造らせたとする鉄の原料となる褐鉄鉱の壺石が多量に存在していたことは製錬を伴なう製鉄が行われていたのではないかと想像できる。後は製鉄の製錬があったと思われる鉄滓や羽口が出土する遺跡があれば、記紀の記述が証明できたことになる。菟砥川と山中川に挟まれた阪南市自然田に亀川遺跡がある。亀川遺跡は、弥生・古墳前期・古墳後期・奈良時代を通じて存在していた息の長い遺跡である。しかし、亀川遺跡からは製鉄が行われたという鉄滓や羽口の出土はなく、「鳥取の川上宮においでになって、大刀一千口を作らせた。」ということが史実であったことは証明出来ない。

 

前章の「72-11.神武天皇は三角縁神獣鏡を携えて東征した」で示した「記紀年表」からすると「垂仁39年」は303年にあたる。我が国の製錬を伴なう製鉄が行われたのは古墳時代後期の6世紀中半から後半にかけてというのが通説である。古墳時代前期・中期、5世紀以前に製錬を伴なう製鉄が行われたということを見つける旅に出発する。 


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72-11.神武天皇は三角縁神獣鏡を携えて東征した [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

神武天皇が日向から東征に出発し、安芸・吉備・難波・熊野を経由して大和の橿原に建国したというストーリーの大筋は、東征に要した歳月以外は『古事記』『書紀』の両書共に同じである。『書紀』では、神武天皇が日向から東征に出発した年を太歳甲寅としている。「太歳」は天皇の元年の最後に太歳〇〇と干支を記載していることからして、東征に出発した年は非常に重要な記念の年であることが分る。神武天皇が建国したのが辛酉の年で、東征に7年掛かっている。「記紀年表」では、神武天皇の建国元年が248年の戊辰の年となつている。そうすれば、神武天皇が日向から東征に出発した年が241年の辛酉の年になる。

 

Z450.記紀年表神武.png

『魏志倭人伝』には、景初3年(239年)に魏の都洛陽を訪れ、皇帝の明帝に拝謁した難升米が帯方太守の使いと共に帰国した時の話として、「正始元年(240年)。太守弓遵が建中校尉の梯儁たちを派遣し、詔書と金印紫綬を奉じて倭国に行き、倭王に授けた。詔書と共に金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡などを与えた。」とある。

 

邪馬台国の女王卑弥呼に魏の明帝から「親魏倭王」の金印と鏡100枚等の賜物のが届けられた翌年の241年に、磐余彦尊(神武天皇)は東征に出発している。卑弥呼の使いの難升米に明帝は「魏が邪馬台国の後ろ盾である証の賜り物であることを国中の人に示せ」と言っている。磐余彦尊は鏡を携えて東征に出発したと想像する。

 

邪馬台国の都に比定している宮崎県西都市に隣接する児湯郡高鍋町の持田古墳群から景初4年銘の斜縁盤龍鏡が出土し、東征のルート上にある山口県周南市竹島町の御家老屋敷古墳から正始元年銘の三角縁神獣鏡が出土している。島根県雲南市加茂町の神原神社古墳から景初3年銘の三角縁神獣鏡が出土している。卑弥呼を共立した30ケ国の東端の国が吉備国と出雲国である。磐余彦尊は東征の途中、3年間吉備に滞在した。その間に出雲に立ち寄ったと想像する。『書紀』によれば、神武天皇の皇后・姫蹈鞴五十鈴姫命の出自は出雲である。磐余彦尊は河内の白肩の津で長髄彦と戦い敗れる。負傷した五瀬命を伴ない南下した茅渟海にある大阪府和泉市の黄金塚古墳から景初3年銘の画文帯神獣鏡が出土している。

 

『古事記』の崇神天皇の崩御干支の戊寅を即位干支に置き換え、崇神即位を258年(戊寅)として、神武天皇の在位7年(空白1年含む)と空位の3年の10年間を付け加えると、神武天皇の即位が248年(戊辰)となる。神武天皇が東征に日向を出発したのが、7年前の241年の辛酉の年であった。その1年前の240年には、邪馬台国の卑弥呼のもとに魏の明帝から金印と鏡100枚等の賜物が届けられている。「事実は小説より奇なり」。邪馬台国は日向にあり、神武天皇は実在し、東征は行われた。

 

「記紀年表」は、『古事記』の崩御干支と±7年以内(崇神天皇崩御干支は即位干支と置き換えて)の範囲にあり、また『書紀』に書かれてある全ての記事がこの年表の中に収まっている。そして、『魏志倭人伝』とは1年の隙間なく繋がり、『宋書』倭国伝・帝紀の倭の五王とは1年の齟齬も無い。「記紀年表」は『古事記』と『日本書紀』を包含した、我が国の古代史を俯瞰できる年表である。Z451に「記紀年表」と『日本書紀』年号の対照表を示す。

 

Z451.記紀年表対照表1.png

 

Z451.記紀年表対照表 2.png

 

 

 

 

 

 

 


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