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72-11.神武天皇は三角縁神獣鏡を携えて東征した [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

神武天皇が日向から東征に出発し、安芸・吉備・難波・熊野を経由して大和の橿原に建国したというストーリーの大筋は、東征に要した歳月以外は『古事記』『書紀』の両書共に同じである。『書紀』では、神武天皇が日向から東征に出発した年を太歳甲寅としている。「太歳」は天皇の元年の最後に太歳〇〇と干支を記載していることからして、東征に出発した年は非常に重要な記念の年であることが分る。神武天皇が建国したのが辛酉の年で、東征に7年掛かっている。「記紀年表」では、神武天皇の建国元年が248年の戊辰の年となつている。そうすれば、神武天皇が日向から東征に出発した年が241年の辛酉の年になる。

 

Z450.記紀年表神武.png

『魏志倭人伝』には、景初3年(239年)に魏の都洛陽を訪れ、皇帝の明帝に拝謁した難升米が帯方太守の使いと共に帰国した時の話として、「正始元年(240年)。太守弓遵が建中校尉の梯儁たちを派遣し、詔書と金印紫綬を奉じて倭国に行き、倭王に授けた。詔書と共に金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡などを与えた。」とある。

 

邪馬台国の女王卑弥呼に魏の明帝から「親魏倭王」の金印と鏡100枚等の賜物のが届けられた翌年の241年に、磐余彦尊(神武天皇)は東征に出発している。卑弥呼の使いの難升米に明帝は「魏が邪馬台国の後ろ盾である証の賜り物であることを国中の人に示せ」と言っている。磐余彦尊は鏡を携えて東征に出発したと想像する。

 

邪馬台国の都に比定している宮崎県西都市に隣接する児湯郡高鍋町の持田古墳群から景初4年銘の斜縁盤龍鏡が出土し、東征のルート上にある山口県周南市竹島町の御家老屋敷古墳から正始元年銘の三角縁神獣鏡が出土している。島根県雲南市加茂町の神原神社古墳から景初3年銘の三角縁神獣鏡が出土している。卑弥呼を共立した30ケ国の東端の国が吉備国と出雲国である。磐余彦尊は東征の途中、3年間吉備に滞在した。その間に出雲に立ち寄ったと想像する。『書紀』によれば、神武天皇の皇后・姫蹈鞴五十鈴姫命の出自は出雲である。磐余彦尊は河内の白肩の津で長髄彦と戦い敗れる。負傷した五瀬命を伴ない南下した茅渟海にある大阪府和泉市の黄金塚古墳から景初3年銘の画文帯神獣鏡が出土している。

 

『古事記』の崇神天皇の崩御干支の戊寅を即位干支に置き換え、崇神即位を258年(戊寅)として、神武天皇の在位7年(空白1年含む)と空位の3年の10年間を付け加えると、神武天皇の即位が248年(戊辰)となる。神武天皇が東征に日向を出発したのが、7年前の241年の辛酉の年であった。その1年前の240年には、邪馬台国の卑弥呼のもとに魏の明帝から金印と鏡100枚等の賜物が届けられている。「事実は小説より奇なり」。邪馬台国は日向にあり、神武天皇は実在し、東征は行われた。

 

「記紀年表」は、『古事記』の崩御干支と±7年以内(崇神天皇崩御干支は即位干支と置き換えて)の範囲にあり、また『書紀』に書かれてある全ての記事がこの年表の中に収まっている。そして、『魏志倭人伝』とは1年の隙間なく繋がり、『宋書』倭国伝・帝紀の倭の五王とは1年の齟齬も無い。「記紀年表」は『古事記』と『日本書紀』を包含した、我が国の古代史を俯瞰できる年表である。Z451に「記紀年表」と『日本書紀』年号の対照表を示す。

 

Z451.記紀年表対照表1.png

 

Z451.記紀年表対照表 2.png

 

 

 

 

 

 

 


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