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73-2.景行天皇は鉄を求めて行幸した [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』景行4年(314年)に、景行天皇は美濃に行幸され泳宮に滞在している。美濃への行幸の目的が何であったかは記載されていないが、この地で美人の誉れの高い弟媛を召され、姉の八坂入媛を妃としている。八坂入媛の第1子稚足彦が成務天皇である。泳宮(くくりのみや)は岐阜県可児市久々利にあったとされている。万葉集にも泳宮は「百岐年三野之國之高北之八十一隣之宮尓・・・(ももきね 美濃の国の 高北の 泳宮に・・・)と詠まれている。「八十一隣之宮」が何故「くくりのみや」なのか調べてみたら、掛け算で九✕九=八十一、「八十一隣之宮」は「九九隣之宮」であった。万葉集が成立した8世紀に、掛け算の九九が使われていたことは驚きである。

 

奈良県飛鳥池遺跡出土の木簡に「加尓評久々利五十戸丁丑年十二月次米三野国」とある。飛鳥浄御原宮の時代の木簡で、干支「丁丑」は天武6年(677年)にあたる。三野国加尓評久々利(美濃国可児郡久々利)は飛鳥時代には存在していたことが分る。可児市は“かにし”と呼ばれているが、「加尓評」の「尓」は“ニ”と呼ばれていたか“ジ”と呼ばれていたか定かではない。私は加尓評はカジ評で、“鍛冶(かじ)”に由来する地名であると思っている。なお、平城京から出土した木簡に「国司従五位下鍛冶造大隅」「間食一升鍛治相作料」とあり、“鍛冶(かじ)”も古くから使われていた言葉である。景行天皇は鉄を求めて美濃の泳宮に行幸したと想像する。可児市にある次郎兵衛塚1号・5号、稲荷塚2号からは鉄滓が出土している。これらの古墳は横穴式石室を伴ない、古墳後期のものである。残念ながら可児市には景行天皇の時代、古墳前期の製鉄遺跡や遺物は発見されていない。

 

Z452.景行天皇九州遠征.png『日本書紀』景行12年に、景行天皇は「熊襲がそむいて貢ぎ物を奉じなかった」と筑紫(九州)遠征をし、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から筑紫に向かっている。防府市の佐波川河口から約50Km遡った地点から栃山峠を越えた山口市阿東町地福に突抜遺跡がある。突抜遺跡の弥生時代末~古墳時代初頭の住居跡から鉄器・鉄滓・砥石が出土している。鉄滓の分析値からすると、鍛錬鍛冶に使用された鉄素材の始発原料は鉱石であった。突抜遺跡のある阿東町徳佐には時代不詳の小南製鉄遺跡がある。遺跡は後谷堤(河川跡)に流れ込む小川の右岸および堤の斜面に鉄滓と炭が円形に散乱していた。鉄滓の分析値から鉱石を原料とする製錬が行われていたことが分る。小南製鉄遺跡の近くには弥生環濠集落の宮ヶ久保遺跡があり、弥生中期中葉~末の土器や弥生時代末~古墳時代初頭の土器が出土している。突抜遺跡の鉄素材は小南製鉄遺跡で製錬された鉄塊が使用された可能性は十分ある。小南製鉄遺跡出土の炭の14C炭素年代測定をすれば、弥生時代の鉄製錬の存在が証明されると思われる。景行天皇は周防で鉄が取れることを知っていたのかも知れない。


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