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73-1.垂仁天皇は剣一千口を造らせた [73.日本の製鉄(製錬)の始まりは何時か?]

『日本書紀』垂仁39年の条に「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らされ、石上神宮に納めた。」とある。『古事記』の垂仁天皇記には「イニシキノイリヒコ命は鳥取の川上宮においでになって、大刀一千口を作らせて、これを石上神宮に奉納した。」とある。

この川上宮は大阪府の南部の阪南市にあったと考えられている。阪南市には鳥取が付く地名が現在も残っている。奈良時代の法隆寺の『伽藍縁起并 流記資材帳』には「和泉国日根郡鳥取郷」とあり、鳥取は古来からあった地名であることが分る。

 

古代の製鉄工程は、鉄鉱石や砂鉄から荒鉄(生鉄・鉧・銑鉄)を取り出す「製錬」、荒鉄から不純物を取り除き炭素調整をして鉄素材を造る「精練鍛冶」、鉄素材を鍛造成形や熱処理をして鉄製品を造る「鍛錬鍛冶」に分けられている。垂仁天皇が造らせた剣一千口が史実とするならば、それは鉱石から製錬・精錬・鍛錬の工程を経て造られたことを伝えている。

 

阪南市の北端を流れる男里川は菟砥川と山中川に分れ、山中川の山間部は山中渓谷と呼ばれ、熊野古道紀伊路が通っていたところで、古来から和歌山市に通じる道があった。山中渓谷を3km遡った標高80m程度の所には、今はもう無くなったが昔は大阪の奥座敷と呼ばれた山中渓温泉があった。温泉は「川の傍らに冷泉が沸く」言い伝えられていたそうだ。川上宮はこの冷泉と関わる地にあったように思われる。菟砥川は後世に付けられた名前であろう。

 

阪南市の男里川・山中川を挟んでほぼ接しているのが泉南市。泉南市教育委員会のウエブサイト「せんなんのたからもの」には、壺石が泉南市信達岡中で昭和30年代に採取されたことが載っている。壺石は鳴石・鈴石あるいは高師小僧と呼ばれる、水酸化鉄の集合体である褐鉄鉱の一種で、形成のメカニズムには、水中の鉄イオンの沈殿による無機説や鉄バクテリアがかかわる有機説などが提唱されている。イギリスの古代の製鉄は、そのほとんどが湖沼鉄(Bog Iron)と呼ばれる褐鉄鉱をの原料として製錬している。この壺石(褐鉄鉱)は製鉄の原料として成りえるのである。

泉南市壺石.png

 

壺石が採取された泉南市信達岡中は山中川に沿った地域である。川上宮があったと推定される地域で、大刀一千口を造らせたとする鉄の原料となる褐鉄鉱の壺石が多量に存在していたことは製錬を伴なう製鉄が行われていたのではないかと想像できる。後は製鉄の製錬があったと思われる鉄滓や羽口が出土する遺跡があれば、記紀の記述が証明できたことになる。菟砥川と山中川に挟まれた阪南市自然田に亀川遺跡がある。亀川遺跡は、弥生・古墳前期・古墳後期・奈良時代を通じて存在していた息の長い遺跡である。しかし、亀川遺跡からは製鉄が行われたという鉄滓や羽口の出土はなく、「鳥取の川上宮においでになって、大刀一千口を作らせた。」ということが史実であったことは証明出来ない。

 

前章の「72-11.神武天皇は三角縁神獣鏡を携えて東征した」で示した「記紀年表」からすると「垂仁39年」は303年にあたる。我が国の製錬を伴なう製鉄が行われたのは古墳時代後期の6世紀中半から後半にかけてというのが通説である。古墳時代前期・中期、5世紀以前に製錬を伴なう製鉄が行われたということを見つける旅に出発する。 


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