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72-6. 『住吉大社神代記』は垂仁天皇の没年を捏造 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

皇學館大学の学長であられた田中卓氏は、崇神天皇の没年は通説より干支一廻り前の258年とされている。田中氏の論拠は『住吉大社神代記』に「活目入彦命(垂仁天皇)は彌麻帰天皇(崇神天皇)の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇し、五十三年辛未に崩る。」とあることから、垂仁天皇の没年を311年(辛未)と捉え、53年前の258年を崇神天皇の没年としている。垂仁天皇の没年を干支一廻り後の371年(辛未)としたのでは、垂仁天皇の時代が百済の肖子王の時代となり、応神天皇が肖子王から馬二頭を献上されたと記載する『古事記』の記述と齟齬をきたすからであろう。

 

Z443.記258年表.png

崇神天皇の崩御を258年として作成した年表「記258年表」がZ 443である。検証の欄を見ると、誕生時父年齢と即位年齢で問題の箇所はひとつもない。もちろん垂仁天皇と景行天皇の在位年数が44年と41年なので、『書紀』垂仁紀と景行紀の記事年数22年と26年を収めることが出来る。しかし、逆に垂仁天皇と景行天皇の在位年数が44年と41年が長いことが気になる。『古事記』が記載している天皇の中で、在位が一番長いのは37年の推古天皇、次が33年の仁徳天皇、そして32年の応神天皇、雄略天皇(安康天皇在位3年として)、欽明天皇(日本書紀)である。125代平成天皇までで見ても、在位が40年以上の天皇は昭和天皇の63年、明治天皇の45年の2人のみである。

 

崇神天皇の崩御を258年とすると、垂仁天皇と景行天皇の在位年数が44年と41年が長くなり、258年説が本当に正しいか疑念が沸いてきた。そこで、その根拠となった『住吉大社神代記』の記述を検証した。『住吉大社神代記』の記述の中で、干支で表記されてる年の記事をピックアップした。

  仲哀天皇の即位は元年壬申の春正月

九年庚辰五十二歳で崩御

庚辰の年十二月譽田皇子を産む

新羅を伐った明年辛巳の春二月、皇后は群卿百寮を率いて穴門の豊浦宮に移る。

群臣は皇后を尊んで皇太后と曰す。是年太歳辛巳、攝政元年となす。

二年壬午十一月天皇を河内國長野陵に葬しまつる。

水色が『書紀』と同じ記述である。仲哀天皇と神功皇后に関する干支が記載された年の記事は、『書紀』と全く同一で、『住吉大社神代記』が『書紀』を引用して編年していることはあきらかだ。

 

垂仁天皇の崩御干支が記載されているのは「船木等本記」というところにある。垂仁天皇の崩御年号と干支の記述の前には、崇神天皇の崩御年号と干支が記載されている。「彌麻帰入日子之命(崇神天皇)とは、大日日命(開化天皇)の御子なり。志貴御豆垣宮に御宇しし天皇なり。六十八年、戊寅年を以て崩ります。山邊上陵に葬しまつる。活目入彦命(垂仁天皇)は彌麻帰天皇(崇神天皇)の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇しし五十三年辛未崩ります。菅原伏美野中の陵に葬しまつる。」 

 

『住吉大社神代記』は、崇神天皇が68年の戊寅の年に崩御したと記している。『古事記』では、崩御干支は戊寅である。『書紀』では、崩御の年号は68年で干支は辛卯である。『住吉大社神代記』は、崇神天皇の崩御の干支を『古事記』から、崩御の年号を『書紀』から引用ている。ちょっと胡散臭い史料である。

 

それでは垂仁天皇の崩御の年号53年と干支辛未は、何から引用しているのであろうか。『古事記』には垂仁天皇の崩御の年号も干支書かれていない。記載があるのは崩御年齢が153歳とあるだけだ。『書紀』では、垂仁天皇の崩御の年号は99年で干支は庚午である。垂仁天皇の崩御の翌年が景行天皇の元年で、太歳干支は辛未である。『住吉大社神代記』は、垂仁天皇の崩御干支を『書紀』の景行天皇の元年太歳の辛未を引用している。そして、『古事記』にある垂仁天皇の年齢153歳から100歳をマイナスして、53歳で亡くなったとするところを、53年に崩御とすり替えたと思われる。『住吉大社神代記』の垂仁天皇の没年を『書紀』と『古事記』から捏造したもので、史料として使えない。また、崇神天皇の崩御を258年とするのも在位年数から疑問が残る。


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