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19-3.天皇陵は寿陵か [19.天皇陵の古墳年代を解く]

私は学生時代から長らく、仁徳天皇陵の近くで生活していたが、以前から仁徳陵に関して一つの疑問を持っていた。それは「仁徳天皇陵は誰が作ったか」と言うことである。これは「大仙古墳は仁徳天皇の陵であるか」と言う疑問ではない。大仙陵を作ったのは、仁徳天皇かそれとも次の履中天皇かと言う疑問である。こんな単純な疑問の答えも、意外と専門書を読んでも書かれていない。 

建築会社・大林組の計算によれば、日本最大の前方後円墳・仁徳天皇陵を復元するとすれば、15年8ヵ月の歳月と、延べ680万人の人力で、総工費約8百億円の土木工事であるという。このような大事業を前王の偉業を讃えて造ったであろうか。政権の交代には争いが行われ、クーデターもあったに違いない。前王のためにということで、日本各地に前方後円墳は出現し得ないと思う。
 

「中国歴代の皇帝陵」羅哲文著には、前漢の墓葬制度は皇帝の即位の翌年から、国の税収の三分の一を出して、自分の巨大な陵を造営した「寿陵」であったと記載している。日本においても、前方後円墳の時代は生前から墳墓を造っておく、いわゆる寿陵であったと考える。寿陵としても簡単な話ではない。即位の翌年から自分の墓を造るとなると、誰しもその墓の規模は大きなものを考えるであろう。自分の政権が数年か持たないと考える者はいない。前方後円墳に葬られている王は、天寿をまっとうして亡くなったばかりでなく、その多くは病死や政権の抗争による死で、突然の死も多かったであろう。生前に造っていたとするならば、未完成のものが存在してもよいはずである。しかしながら未完成の天皇陵は存在していない。
 

天皇陵は生前から作った寿陵であると考える。前方後円墳製作のシステムは次のようであったと推定する。王が政権に着くと新しい都の建設に取りかかる。その遷都の目的は新しい田地の開発であった。日本書紀にも池を掘ったり、溝を掘ったりして新しい田地の開発が行われたことが載っている。これらの土木作業と並行して、前方後円墳が造られる。その製作にあたっては、三段築成される前方後円墳の一段目と二段目をまず造営して行く。だから在位期間が長いほどその規模は大きくなる。王が亡くなると、後任の王が古墳の周りに濠を掘り、その土で三段目の造営を行い、前王の埋葬を行うと共に、即位の儀式・大嘗祭が行われたのであろう。

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清水 進む

もう少し、映像があれば。
by 清水 進む (2011-11-14 11:24) 

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