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19-4.天皇の在位年数と墳丘長 [19.天皇陵の古墳年代を解く]

図52 在位年数と墳丘長.jpg前方後円墳を前述のシステムで造営すると、前方後円墳の大きさと在位年数の間には、一定の関係が成立するはずである。図52に元年表による天皇の在位年数と墳丘長の関係を示した。バラツキはあるものの、グラフは在位年数と墳丘長に一定の関係があることを示している。在位年数に比較して、非常に大きな古墳に治定されているのが履中天皇陵であり、非常に小さな古墳に治定されているのが欽明天皇陵である。この二つの天皇陵について検討して見る。

現在堺市では百舌鳥古墳群を世界遺産にしようという動きがある。百舌鳥古墳群の中心である大仙古墳がエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵を上まわる規模の古墳というだけではインパクトがない。やはり古事記・日本書紀に記載してある仁徳天皇陵だとしなければ、古墳の価値が半減するに違いない。その運動の一環として、著名な考古学者を招いてのシンポジウムが開かれている。しかし、そんな思いで開かれたシンポジウムでも、先生方から大仙古墳が仁徳陵だという答えは引き出すことは出来ていない。その一番の原因は、履中陵とされている上石津ミサンザイ古墳にある。上石津ミサンザイ古墳は、古墳規模から見ると全国第3位の大きさであるが、円筒埴輪や前方後円墳の形態から、応神陵とされている誉田御廟山古墳より古い古墳であると、多くの研究者から認められている。 

古墳の古い順にみれば、履中陵、応神陵、仁徳陵となっており、一方、天皇の系譜から見れば、古い順に応神天皇、仁徳天皇、履中天皇となっている。墳丘長と在位年数の関係で見ても履中陵は大きく外れている。履中天皇陵は百舌鳥古墳群にあって陵墓参考地となっている御廟山古墳ではないかと私は思っている。御廟山古墳は墳丘長が186メートルで、履中天皇の在位年数6年と合う。御廟山古墳の古墳年代は450年、履中天皇崩御の年の440年とほぼ合っている。
 


日本書紀によると、欽明天皇は檜隈坂合陵に葬ったとある。また、推古天皇の記述には、欽明天皇の妃の堅塩媛を檜隈大陵に改め葬ったともある。現在欽明陵に治定されているムメヤマ古墳の近くにある、全国第6位の規模の見瀬丸山古墳の石室の写真が十数年前に新聞に公表された。これは近くに在住の人が偶然石室の中に入り、写真に撮ったものである。この写真には、石室の中に二つの石棺が写っている。日本書紀の通り、石室の中に二つの石棺があったことから、見瀬丸山古墳の被葬者が欽明天皇であるという考えが強まってきている。欽明天皇の在位年数は32年、見瀬丸山古墳の墳丘長は318メートルで、在位年数と墳丘長の関係は満足されている。欽明天皇陵の古墳年代は575年となっており、欽明天皇の崩御の年571年とほぼ合っている。


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