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64-10.出現期前方後円墳の設計思想 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

墳丘形態は後円径が基となって設計されており、墳長/後円径と前方幅/後円径の関係から、出現期の前方後円墳は墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあることが分かった。しかし、この方法では墳長400m、後円径200m、前方幅150mの古墳と、墳長40m、後円径20m、前方幅15mの古墳は全く同じ点となり、古墳の規模が全く甘味されていない。

 

そこで、古墳規模を墳長と後円径、後円径と前方幅の関係で調べてみた。ただ、墳長の最大値は486m、最小値は18mであり、50m以下の古墳が多数ある。このような母集団を図に表すと、大きな値の所では点がパラパラとあり、小さな値の所では点が密集してしまう結果となる。そこで、それぞれの値を自然対数の値に変換(エクセルの関数:LN(数値))して図にあらわしている。目盛の値に対応する実際の値を図の下に示した。なお、自然対数の数値を実際の数値に直すエクセルの関数はEXP(数値)である。

 

墳長と後円径の関係はZ248の図のようになっている。の出現期の前方後円墳は、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、①X/Y=1.5と②X/Y=2.5の間に挟まれていた。数学的に“y=ax”の直線式を自然対数の式に直すと“y=x+loge a”直線式となる。エクセルの関数で“loge a”は“LN(a)”である。①のY=0.67Xは、自然対数の式ではY=X+LN(.67)でY=X-0.4の直線となる。Z247の図で①の直線がこれである。②のY=0.4XはY=X-0.92の直線となる。の出現期古墳は①と②の間に挟まれ存在している。①の直線より上の点が帆立貝式の前方後円墳である。

 

Z248.墳長と後円径.png

後円径と前方幅の関係はZ249の図のようになっている。の出現期の前方後円墳は、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあり、③W/Y=0.5、④W/Y=1.0の間に挟まれていた。Z248 の図において③のW=0.5YはY=X-0.69の直線となり、④のW=YはW=Yの直線となる。の出現期古墳は③と④の間に挟まれ存在している。③の直線より下の点の多くが帆立貝式のもので、④の直線より上がテルテル坊主形の前方後円墳である。

 

Z250.墳長と後前高差.png出現期前方後円墳の特徴としては、前方部の高さが後円部の高さより低いことが挙げられている。そこで、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲にあり、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にある前方後円墳について、墳長と後前高差(前方部高さー後円部高さ)の関係をZ250に示した。墳長は自然対数で示している。の出現期古墳は、1例を除いて後前高差はー2m以下であることがわかる。また、1例を除いて墳長はEXP(.)=44.7m以上である。なお、後円径と後前高差の関係から、後円径は1例を除いてEXP(.)=22.2m以上であった。

 

前方後円墳を築造した当時、44.7mとか22.2m、そしてー2mという“m”の単位は存在しない。だから、これらの数値が古墳設計の値とはならない。前方後円墳の出現した前期前葉は260~320年の時代で、中国では西晋(265~316年)の時代にあたる。魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百余歩とあり、古墳の寸法は歩の単位であったと思われる。西晋の時代の長さの単位は魏の時代と同じで、1尺の長さは24.2cmである。1歩は6尺で1.45mとなる。これらからすると、墳長が44m以上は30歩(43.5m)以上で、後円径22m以上は15歩(21.8m)以上で、後前高差がー2m以下はマイナス1.5歩(―2.18m)以下となる。

 

出現期(前期前葉)の前方後円墳は墳長が後円径の1.5~2.5倍、前方幅が後円径の0.5~1.0倍、くびれ幅が後円径の0.25~0.75倍の範囲にある。築造当時、小数点の概念はなかっただろうが、半分とか3分の1、4分の1の概念はあったと考える。そして、前方部高さが後円部高さより1.5歩(―2.18m)低く、墳長が30歩(43.5m)以上、後円径が15歩(21.8m)以上の範囲にある。この範囲こそが出現期前方後円墳の設計思想であり、考古学でよく使われている“定型化された初期の前方後円墳”の定型範囲であろう。定型化された前方後円墳の代表格が箸墓であり、これまでの図にその位置を示している。

 

Z251.定型範囲の古墳数.png前方後円墳の形態は前期前葉に定まった定型範囲から、後方長が短くなった帆立貝式の古墳が生まれ、前方幅が後円径より広いテルテル坊主形の古墳が生まれ、後円部と前方部の高さの差が少なくなり、墳長が30歩、後円径が15歩より小さな古墳が多く造られていった。Z251に、定型範囲をクリアーした古墳数を時代別に列記した。なお、くびれ幅は測定値が少ないので、くびれ幅/後円径が0.25~0.75の範囲にある条件は除いている。前期前葉に91%であった定型化された前方後円墳が後期後葉には3%になっている。


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65-1.箸墓古墳の築造年代は260年前後 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の象徴が前方後円墳であり、それは大和王権の象徴でもある。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、考古学的に導き出した古墳の編年とをマッチングさせ、古墳時代を解明したいと考える。なお、これ以降「縮900年表」による年代は青字で表示することにする。

 

Z252.前方後円墳の規模.png前方後円墳の時代別・規模別の変遷を表Z252に示す。前方後円墳が出現した前期前葉(260~320年)の地域別分布は、墳長が100m以上の大形前方後円墳では、奈良7基、京都・岡山2基、群馬1基で、大和王権発祥の地が奈良県にあったことが判る。一方、100m未満の古墳では、岡山13基、京都・兵庫・長野が2基、奈良・大阪・広島・香川・三重・茨城・群馬が1基と岡山県が圧倒的に多く、岡山が大和王権誕生に大きく関わっていたことが分かる。また下段に示すように、葺石は古墳の出現期(前期前葉)の時代から非常に高い比率で存在している。葺石は出雲の四隅突出弥生墳丘墓の影響を受けているといわれており、出雲が大和王権誕生に関わっていることを意味している。

 

『書紀』は、神武天皇は東征において吉備に3年間滞在し、船舶を揃え兵器や食糧を蓄え、天下を平定する準備を整え、そして大和に攻め入り橿原の地に建国(241年)したと記している。出現期の前方後円墳が岡山県に圧倒的に多いのは、大和王権の誕生に吉備が関係していることを暗示している。また、神武天皇が橿原の地に建国したとき、正妃に媛蹈鞴五十鈴媛命を召している。媛蹈鞴五十鈴媛命は出雲の大己貴神(大国主神)の孫にあたる。大和王権の誕生に出雲が関係していることを暗示している。

 

箸墓古墳.png最古の大型前方後円墳とされている箸墓古墳(墳丘276m)が築造された時代が古墳時代の始まりとになる。その箸墓古墳の話が『書紀』崇神9年の記事に「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳のある桜井市箸中は、中世までは大和国城上郡大市郷と称され、また纏向遺跡からは「市」と墨書きされた飛鳥時代の土器が出土しており、倭迹迹日百蘇姫の大市墓が箸墓古墳であることは確かである。箸墓古墳の後円部墳頂からは、奈良盆地と大阪平野の境にある二上山の山麓の芝山の石が出土しており、『書紀』の「大阪山の石を運んで造る。」と合致している。「縮900年表」によると、箸墓が造られた崇神9年は259年にあたる。

 

国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行い、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるとしている。箸墓古墳からは吉備系の都月型の特殊器台形埴輪が出土しており、古墳年代は260年から289年となる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、暦博の炭素14年代測定と、私の古墳年代決定プログラムで算出した古墳年代は、三者共に箸墓古墳の年代を260年前後としている。『魏志倭人伝』は邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのを247年前後のこととしており、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと言われている。

 

『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓は“径百余歩”と記されている。前節で述べたように、前方後円墳の主丘が埋葬施設のある後円部で、墳丘の寸法が後円径を基に定められていることからすれば、卑弥呼の墓が前方後円墳とするならば“後円径”が“百余歩”であることになる。箸墓の後円径は157mである。魏の時代の1尺の長さは24.2cmであり、1歩は6尺で1.45mである。箸墓の後円径は108歩であり、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓は“径百余歩”と一致する。

日向にあった邪馬台国は狗奴国に滅ぼされたのかも知れない。そうならば、磐余彦尊が日向から東征し建国した大和の地が、邪馬台国にとっての新天地である。その大和に邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が築かれても不思議ではない。「縮900年表」によれば、神武天皇が崩御されたのが、卑弥呼と同じ247年となる。箸墓古墳には卑弥呼と神武天皇の二人が葬られているのかも知れない。


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65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

日本書紀』は、朝鮮半島の百済・新羅・高句麗の三国との関わりについて多くのページを割いている。中でも百済とは、660年に白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に破れ百済が滅びるまで、友好国(同盟国)として互いに大きな影響を与えて来た。倭国と百済の外交が始まったのは、応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介からであった。その時、百済の肖古王は倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)、鉄鋌四十枚を与えている。

 

また、応神天皇の372年(神功52年:252+120)には、百済の肖古王が使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉り、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。

 

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌があり、表の象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、40枚の鉄鋌が出土した。鉄鋌の平均寸法は長さ30.7cm、幅4.13cm、厚さ1.45cm、重さ1.31kgの棒状で、日本の古墳から出土する厚さ0.2cmで両端が広がった鉄鋌とは異なっている。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

 

Z253.弾琴台土城鉄鋌.png

2016年から17年の弾琴台の南側斜面の発掘調査では、鉄鉱石を溶解し鉄を作る製錬炉が11基と、鉄鉱石を割るために火を炊いた遺構10基が発見されている。11基の製錬炉は3つの層から出ており、使っていた製錬炉を破棄後、その上に土を覆って新しい炉を造っている。焼けた木片の炭素年代を測定した結果は、これらの遺跡は4世紀に造られたことが判った。4世紀、少なくとも100年に渡って忠州の弾琴台で鉄を作ったのは、ここが鉄鉱石の主要産地であるうえ、南漢江の水上交通を通して鉄を運ぶことが出来たためと分析されている。

 

百済の肖古王の在位は346~375年で、都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流に忠州市がある。「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」にある河は漢江のことであり、水源の谷那の山の鉄鉱石から鉄にしたのが、4世紀に稼動した弾琴台の製錬炉であったのであろう。

 

366年に倭国の使者が肖古王より賜った鉄鋌は40枚、弾琴台土城から出土した鉄鋌が40枚、奇しくも40枚と一致しており、肖古王より賜った鉄鋌が弾琴台の製錬炉で作られたと考えてもおかしくない。弾琴台から出土した百済時代の鉄鋌・製錬炉は、書紀』が記す百済の肖古王に関する記事が、史実に基づいていることを照明している。石上神宮の国宝七支刀の鉄素材は、弾琴台で作られたのであろう。

漢江地形図1.png

 


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65-3.百済渡来の卓素が帯金式革綴短甲を開発 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の前期後葉(360~400年)になると、墳長が100m以上の大形古墳の分布は、大阪8基、奈良6基、群馬5基、三重3基、京都・兵庫・岡山・岐阜・宮崎が2基、福井・栃木・山口・香川・佐賀が1基となり、大阪の河内(古市・百舌鳥)新たに大形古墳が造られ始めている。前期後葉は埴輪Ⅲ式の時代で、北部九州では、その源流が朝鮮半島であると見られている竪穴系横口式石室を始めとする初期の横穴式石室を持つ古墳が登場し、また三角板革綴短甲や長方板革綴短甲、衝角付冑が副葬されるようになる。前期後葉の前半の時代は、応神天皇(354~378年)の時代にあたる。応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まっている。そして、百済王は368年(応神15年)に阿直岐を遣わして良馬二匹を奉っている。

 

Z253.老司古墳.png老司古墳(福岡市)は竪穴系横口式石室を持つ、初期の横穴式石室系の古墳である。年代確定プログラムでは埴輪Ⅱ式(310~369年)と須恵器・馬具(轡)・金環(400年~)の年代に矛盾が生じ、年代の決定ができなかった古墳の一つである。これらの遺物を除くと、老司古墳の年代は埴輪Ⅱ式と初期横穴式石室(370~479年)から365年から375年となり、百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上した368年とピッタリ一致している。老司古墳は朝鮮半島との往来が行われた玄界灘に面しており、中期古墳から出土する須恵器・馬具(轡)・金環が、それらに先だっていち早くもたらされたと考えられる。老司古墳から出土した轡は、肖古王が献上した馬に使用していたものであろうか?

 Z254.三角板革綴短甲.png

前期後葉(360~400年)の大きな画期は大形古墳が河内の古市・百舌鳥古墳群に築造され始めたことだが、この河内の古墳を中心として370年を境に、方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に替わって三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が副葬され始めている。三角板革綴短甲と長方板革綴短甲は帯金式革綴短甲と称されており、帯金という細長い鉄板で人の胴体に合う形状の骨組みをこしらえ、その帯金に地板という長方形や三角形の鉄板を革で綴じて製作されている。それまでの方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に比べて、鉄板を曲面加工せねばならず、高い鍛造技術が要求される。

 

「63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実」で示したように、『書紀』応神15年の記事と『古事記』応神記を照らし合わせると、368年に百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上し、その翌年に王仁が論語十巻と千文字一巻を携えて渡来してきたことが分かる。『古事記』には、王仁と共にその名を「卓素」という韓系の鍛冶技術者が倭国に渡来している。この「卓素」が、我が国で帯金式革綴短甲を開発したと考える。こう考えると、370年頃から帯金式革綴短甲の三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が古墳に副葬され始めたことが説明できる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』によって、未だ明確になっていなかった帯金式革綴短甲の源流を発見することが出来た。


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