SSブログ

65-4.帯金式鋲留甲冑の源流は高句麗の鉄盾 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳中期(400~470年)でも、大形古墳の分布は大阪15基、奈良9基、福岡3基、京都・兵庫・岡山・三重・千葉・群馬・栃木・鹿児島が1基で、河内には大形古墳が9基造られている。百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)は墳丘長486mで古墳規模が全国No1である。仁徳天皇陵古墳の年代は、宮内庁書陵部が1998年(平成10年)に採取した須恵器の大甕がON46型式であることより、440年から459年となる。「縮900年表」によると、430年(仁徳67年)に河内の石津原(百舌鳥耳原野)に陵地を定められ、431年(仁徳87年)に天皇が崩御され百舌鳥野陵に葬ったことになるが、実際の完成はもう少し後であろうと思われ、仁徳天皇陵古墳の年代とほぼ合っている。

中期の始まりは400年で、前期古墳の代表的な遺物の三角縁神獣鏡、石製腕飾(石釧・鍬形石・車輪石)・筒形銅器・巴形銅器・銅鏃などは副葬されなくなり、須恵器・馬具・帯金式鋲留短甲が副葬され、墳丘には窖窯(あながま)焼成された円筒埴輪Ⅳ式や人物埴輪・馬形埴輪が並び立つようになる。窖窯・須恵器・馬具は朝鮮半島、特に洛東江周辺の伽耶の地より伝わったものと考えられている。
Z255.4世紀末の朝鮮半島.png
図Z255の4世紀末の朝鮮半島の勢力図に示すように、伽耶諸国(任那・秦韓・加羅)にとっては、新羅と百済そして高句麗は脅威であったので、その後ろ盾として、倭国との結びつきを求めたと思われる。“遠交近攻”は古今東西を問わず、戦術として使われている。好太王碑の銘文にあるように、仁徳天皇(381~431年)が百済・新羅を勢力下に置こうとしたのも、鉄の供給源としての伽耶諸国との関係を重視したからかも知れない。これらにより、伽耶諸国から倭国に須恵器の製造技術者や馬・馬飼いがやってきたのであろう。しかし、帯金式鋲留短甲の源流は伽耶諸国ではないと見られている。それでは鋲留技術はどこからもたらされたのであろうか?

好太王碑の銘文には「百済と新羅とは、元来(高句麗の)属民であって、もとより朝貢していた。ところが、倭は辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡って来て百済を破り、東方では新羅を□し、臣民にした。」とあるように、仁徳天皇は朝鮮半島への進出を計っている。『書紀』仁徳12年(392年)の記事に「高麗国が鉄の盾と鉄の的を奉った。高麗の客を朝廷でもてなされた。群臣百寮を集めて、高麗の奉った盾と的を試した。多くの人が的を射通すことが出来なかった。ただ的臣の先祖の盾人宿禰だけが鉄の的を射通した。高麗の客たちは、その弓射る力のすぐれているのを見て、共に起って拝礼した。翌日盾人宿禰をほめて、的戸田宿禰と名を賜った。」とある。高麗の使者が訪れた年は、好太王碑にある辛卯の年(391年)の翌年であり、高麗の用件は百済と新羅から手を引くよう要請しに来たのであろう。

石上神宮は社宝として神庫に国宝の七枝刀や重要文化財の鉄盾2面を所蔵している。この2面の鉄盾は縦143cmx横約84~68~80cmと縦139cmx横約71~65~77cmの中すぼみの長方形で、矩形または鍵形の厚さ3mmの鉄板を矧ぎ合わせ鋲留している。この2面の鉄盾は、『書紀』仁徳12年の記事にある鉄盾とされるとの言い伝えがあるが、製作手法や型式の上から否定され、製作年代は古墳時代の5世紀末から6世紀初頭の頃と見られている。

Z256.鉄盾(石上神宮).png私は次の3つの視点から、石上神宮の鉄盾は『書紀』仁徳12年(392年)の記事にある、高麗が献じた鉄盾と考える。

1)石上神宮が所蔵する七枝刀は、その金象嵌の銘文と『書紀』の記事から、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かっている。それを現在まで所蔵していたのであれば、392年に高麗が仁徳天皇に献じた鉄盾を、石上神宮が現在まで所蔵していたとしても不自然ではない。

2)ウエブサイトの「遺跡ウォーカー」で「盾形埴輪」で検索すると、273基の古墳がヒットする。「鉄盾」でヒットする古墳は皆無である。これからすると、古墳時代の「盾」は革等の有機質系のもので出来ていたと考えられる。

3)石上神宮の鉄盾の製作技法は、横矧板鋲留短甲の製作技法に類似しているとされている。「遺跡ウォーカー」で横矧板鋲留短甲が出土する古墳は30基ヒットする。横矧板鋲留短甲が元で鉄盾が作られたとするならば「鉄盾」でヒットする古墳が皆無であるのは不自然に思える。鉄盾を元に横矧板鋲留短甲が作られたと、逆にする方が自然である。

 

Z257.三角板鋲留短甲.png帯金式革綴短甲(三角板革綴短甲・長方板革綴短甲)については前節で述べたように、369年に百済より王仁と共に渡来した、韓系の鍛冶技術者の卓素によって開発されたと考えた。我が国で帯金式革綴短甲を開発した鍛冶技術者の「卓素」、あるいはその弟子が、392年に高麗が仁徳天皇に献上した鉄盾の鋲留を見て、帯金式鋲留短甲(三角板鋲留短甲・横矧板鋲留短甲)を開発したと考える。400年から古墳に。帯金式鋲留甲冑が副葬され始めることと一致する。帯金式鋲留甲冑の鋲留め技術の源流は高句麗の鉄盾であった。


nice!(2)  コメント(0) 

65-5.仁徳朝に掘った大溝は「古市の大溝」 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

Z258.前方後円墳の立地変遷.png前方後円墳の立地の変遷を表Z258にまとめた。前期後葉(360~400年)になると、前期前葉に多く造られた山頂・尾根頂・丘陵頂の比率が減少し、段丘・台地に立地する古墳が多くなり、その傾向は中期・後期前葉と続いている。前期後葉と中期の多くの大形古墳が、河内の古市・百舌鳥古墳群のある台地に存在している。また、古墳の周濠の有無でみても、前期後葉になると周濠を有する古墳が大幅に増加し、その傾向は中期・後期前葉にも続いている。

 

394年、『書紀』仁徳14年の記事には「大溝を感玖に掘った。石河の水を引いて、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦、四ヶ所の原を潤し、四万頃(しろ=百畝)あまりの田が得られた。その地の百姓は豊な稔りのために、凶作の恐れが無くなった。」とある。石河は大和川の支流の石川で、感玖(こむく)は河内国石川郡紺口(こむく)で現在大阪府南河内郡河南町から千早赤阪村のあたり、鈴鹿はどこかはっきりしないが、豊浦は大阪府東大阪市豊浦町とされている。

 

Z259.感玖の大溝.png感玖の推定地(河南町から千早赤阪村)は南北に流れる石川の東側、豊浦の推定地(東大阪市豊浦町)は南北に流れる旧大和川の東側である。大和川は奈良盆地から大阪平野に向かうときは東から西に流れ、石川との合流地点で90度流れを変え旧大和川となり、南から北に流れ河内湖に流れ込んでいる。これらからすると、石川の東側と旧大和川の東側を結ぶ大溝は、東西に流れる大和川を横断せねばならず存在し得ない。大溝は南北に流れる石川・旧大和川の西側にあり、古市古墳群内を通っていたと予想できる。

 

昭和39年に航空写真を観察していた秋山日出雄氏は、藤井寺市野中付近に見られる直線的な溜池群の配置に注目し、古市古墳群内を通る巨大な水路跡を発見し、その後の発掘調査や研究により「古市の大溝」の存在が確認された。「古市の大溝」は石川を源流とし、取水口を富田林市川面町付近(石川の西側)として、古市古墳群内を通り東除川に注ぐ、全長12キロメートルの流路が復元された。その水路に沿って「今井樋上」「井路間」「井路側」「水守東」「水守田」「溝マタゲ」「上ノミゾ」といった小字が続き、人工的な水路を想定させている。「古市の大溝」の発掘調査はまだ点にしか過ぎないが、溝渠の堆積物は8世紀から12世紀の間に堆積したことが分かっている。

 

前期後葉(360~400年)の時代、応神天皇は難波(大阪市)に大隅宮を、仁徳天皇は難波に高津宮を造っており、河内の地の台地で水田開発が行われたことが想像できる。段丘・台地の水田開発と古墳の造営に関係があったと考える。『書紀』仁徳14年に書かれた「大溝」が古市古墳群のある台地にあったとの証拠はないが、「古市の大溝」はその前身であろうと想像できる。


nice!(2)  コメント(0) 

65-6.韓国から出土する倭製の甲冑 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

近年、韓国の古墳から出土した甲冑が倭製であるとの報告が成されるようになってきた。短甲は総数34領で、方形板革綴短甲2点、帯金式革綴短甲の長方板革綴短甲5点、三角板革綴短甲10点、そして帯金式鋲留短甲の三角板鋲留短甲6点、横矧板鋲留短甲8点、その他3点である。冑は総数14領で、三角板革綴衝角付冑2点、三角板鋲留衝角付冑1点、横矧板鋲留衝角付冑2点、小札鋲留眉庇付冑4点、横矧板鋲留眉庇付冑2点、その他3点である。倭製であることは韓国の学者も認めているようだ。

Z260.韓国倭製短甲.pngこれらの出土地を図Z260に示した。赤が方形板革綴短甲、緑が帯金式革綴甲冑、青が帯金式鋲留甲冑である。丸一つが古墳1基であり、1基の古墳から二つの型式の甲冑が出土した場合は一つの丸に2色で示している。図をみてすぐ気が付くことは、洛東江の周辺、特に釜山・金海に丸が多いこと、緑は南部の海岸沿いに出土し、青は内陸部からも出土していることだ。韓国の古墳から出土する倭製の遺物は甲冑ばかりではない。筒形銅器と巴形銅器が洛東江の下流域の金海市・釜山市に集中して出土している。金海市では13基の古墳から筒形銅器が45個、巴形銅器が9個、釜山市では4基の古墳から筒形銅器が9個、威安郡は1基の古墳から筒形銅器が1個出土している。図Z260に、これらを赤で示しており、数字は筒形銅器が出土した古墳数である。この内、倭製甲冑と筒形銅器・巴形銅器が共伴したのは、赤方形板革綴短甲が出土した釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳だけである。福泉洞64号墳からは2個、大成洞1号墳は8個の筒形銅器が出土している。

Z255.4世紀末の朝鮮半島.png「縮900年表」によれば、366年に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まり、百済の肖古王は368年良馬2匹を、372年に七支刀を応神天皇に献上している。その間の369年にあたる『書紀』神功49年の記事には「倭国の荒田別と鹿我別の二人の将軍は兵を整え、百済の使者と共に卓淳国に至り、百済の木羅斤資の率いる精兵の応援も得て、新羅を打ち破った。そして比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国を平定した。・・・百済王の肖古と皇子の貴須は、荒田別・木羅斤資と意流村で一緒になり、相見て喜んだ。・・・百済王は春秋に朝貢しようと誓った。」とある。この比自・南加羅・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヶ国はZ255に示す加羅・任那・秦韓の地域の国々であり、伽耶諸国とされている国々である。『書紀』が記す「七ヶ国を平定」は潤色であり、倭国と伽耶諸国との同盟関係が出来たことを示していると考える。百済と伽耶諸国にとっては新羅・高句麗が脅威で、倭国の後ろ盾が必要であったのであろう。

 

私の古墳遺物の編年では、筒形銅器・巴形銅器が320~399年、方形板革綴短甲が340~369年、帯金式革綴甲冑が370~469年、帯金式鋲留甲冑が400~499年である。釜山市の福泉洞64号墳と金海市の大成洞1号墳から方形板革綴短甲(340~369年)が出土していることは、応神天皇(354~378年)の369年に倭国と伽耶諸国との同盟関係が始まったことを証明している。そして、帯金式革綴甲冑(370~469年)が伽耶諸国から多く出土していることは、仁徳天皇(381~431)の時代に、その同盟関係がより強くなり、特に任那(金海)・秦韓(釜山)は倭国との結びつきが強くなったことを意味している。

 

『宋書』倭国伝によれば、451年宋に朝献した済(允恭天皇:443~460年)に「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」が与えられている。順帝の昇明2年(478年)に朝献した武(雄略天皇:464~486年)にも同じ称号が与えられている。倭王に与えられた「使持節・都督・諸軍事」の意味は、軍事・内政面に支配権を与えるという称号であるが、倭国がこれらの国を支配しているという意味ではなく、宋に朝貢していない国々の支配権を認めたということに過ぎない。

 

応神天皇の369年に始まった伽耶諸国との同盟関係や、仁徳天皇の時代に結びつきが強くなった任那(金海)・秦韓(釜山)の関係は、宋の皇帝から「慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭王」の称号が与えられた允恭天皇(443~460年)・雄略天皇(464~486年)の時代には、加羅との関係を強め、慕韓を支配下に置こうとしたと思える。図260に見られるように、青帯金式鋲留甲冑(400~499年)が任那・秦韓だけでなく、加羅・慕韓の地からも出土しているのは、このことを物語っている。考古学から見た遺物の年代と、「縮900年表」を通してみた『書紀』の年代は、朝鮮半島でも見事に一致している。


nice!(2)  コメント(0) 

65-7.韓国に存在する前方後円墳 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

『書紀』雄略23年の記事に「百済の文斤王が亡くなった。天皇は昆支王の五人の子の中で、末多王が若いのに聡明なのを見て、詔して内裏に呼ばれた。・・・その国の王とされ、兵器を与えられ、筑紫の国の兵士五百人を遣わして、国へ届けられた。これが東城王である。この年百済の貢物は、例年よりも勝っていた。筑紫の安致臣・馬飼臣らは舟軍を率いて高麗を討った。」とある。雄略23年の記事は挿入記事であり、「縮900年表」では『書紀』の編年の通りの479年で、雄略天皇(武)が「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号を与えられた翌年のことである。

 

『三国史記』によれば、百済は蓋鹵王21年(475年)に高句麗によって漢城(ソウル)が陥落した。蓋鹵王の子の文周が即位し、都を熊津(公州)移している。477年に文周王は重臣の解仇により殺害され、子の十三歳の三斤が位を継いだ。478年に解仇が反乱を起し、三斤王側の二千人の軍隊も勝てなかったが、五百人の精鋭な軍隊により解仇を撃ち殺すことが出来た。479年に三斤王が薨去し、文周王の弟の昆支の子である東城王が即位した。王は胆力が人よりまさり、弓が上手で百発百中であったとある。

 

『三国史記』は、478年に解仇が撃ち殺され、479年に三斤王が薨去したとしているが、史実は478年に解仇が三斤王を殺し、479年に解仇が五百人の精鋭な軍隊により撃ち殺されたと考える。五百人の精鋭な軍隊こそ、『書紀』雄略23年(479年)の記事にある「兵器を与えられて帰国した東城王と筑紫の国の兵士五百人」であったと思える。その後、倭国は百済の弱体化に乗じて「慕韓」の地を支配化に入れた。東城王は高句麗に対抗するためには倭国の後ろ盾が必要で、それを認めざるを得なかったということではないかと考える。

 

継体6年(519年)に、百済の使者が調を奉り、上表文で任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁を欲しいと願った。哆唎の国守、穂積臣押山は「この4県は百済に連なっており、百済に賜って同国とすればこの地を保つためにこれに過るものはない。」と百済を援護している。大伴大連金村はこれらの意見に同調して天皇に奏上し、4県が百済に与えられている。これらからすると、雄略23年(479年)から継体6年(519年)の間、上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県は倭国の支配下にあり、倭人の国守や官吏が赴任していたと考えられる。

 

Z261.Z262.韓国四県.jpg

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の比定地については諸説あるが、田中俊明氏は『古代の日本と伽耶』の中で、図461に示すように韓国南西部の全羅南道の栄山江流域に定めておられる。の栄山江流域には図462(ピンクは前方後円墳)に示すように13基の前方後円墳が存在する。1980年の発見当初は、韓国において日本の前方後円墳の起源になる古墳として注目されたこともあったが、埋葬施設が横穴式石室で、玄室は百済の方形で穹窿状(ドーム状)の天井とは異なり長方形で平天井であることから、倭国の前方後円墳の影響を受け造られたものであり、その築造年代は5世紀末から6世紀前半であるとされている。私の遺構・遺物の編年では、横穴式石室は470年からであり、倭国で横穴式石室が造られ出した時代に、韓国で造られたことになる。

 

上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を倭国が支配下に置いた年代と、栄山江流域の前方後円墳の築造年代とが一致しており、前方後円墳に埋葬された被葬者は、4県に赴任していた倭人の国守や官吏と考えられる。栄山江流域の前方後円墳は、『書紀』が記す「任那四県割譲」が史実であったことを物語っている。


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。