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65-3.百済渡来の卓素が帯金式革綴短甲を開発 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の前期後葉(360~400年)になると、墳長が100m以上の大形古墳の分布は、大阪8基、奈良6基、群馬5基、三重3基、京都・兵庫・岡山・岐阜・宮崎が2基、福井・栃木・山口・香川・佐賀が1基となり、大阪の河内(古市・百舌鳥)新たに大形古墳が造られ始めている。前期後葉は埴輪Ⅲ式の時代で、北部九州では、その源流が朝鮮半島であると見られている竪穴系横口式石室を始めとする初期の横穴式石室を持つ古墳が登場し、また三角板革綴短甲や長方板革綴短甲、衝角付冑が副葬されるようになる。前期後葉の前半の時代は、応神天皇(354~378年)の時代にあたる。応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介で百済国との外交が始まっている。そして、百済王は368年(応神15年)に阿直岐を遣わして良馬二匹を奉っている。

 

Z253.老司古墳.png老司古墳(福岡市)は竪穴系横口式石室を持つ、初期の横穴式石室系の古墳である。年代確定プログラムでは埴輪Ⅱ式(310~369年)と須恵器・馬具(轡)・金環(400年~)の年代に矛盾が生じ、年代の決定ができなかった古墳の一つである。これらの遺物を除くと、老司古墳の年代は埴輪Ⅱ式と初期横穴式石室(370~479年)から365年から375年となり、百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上した368年とピッタリ一致している。老司古墳は朝鮮半島との往来が行われた玄界灘に面しており、中期古墳から出土する須恵器・馬具(轡)・金環が、それらに先だっていち早くもたらされたと考えられる。老司古墳から出土した轡は、肖古王が献上した馬に使用していたものであろうか?

 Z254.三角板革綴短甲.png

前期後葉(360~400年)の大きな画期は大形古墳が河内の古市・百舌鳥古墳群に築造され始めたことだが、この河内の古墳を中心として370年を境に、方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に替わって三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が副葬され始めている。三角板革綴短甲と長方板革綴短甲は帯金式革綴短甲と称されており、帯金という細長い鉄板で人の胴体に合う形状の骨組みをこしらえ、その帯金に地板という長方形や三角形の鉄板を革で綴じて製作されている。それまでの方形板革綴短甲と竪矧板革綴短甲に比べて、鉄板を曲面加工せねばならず、高い鍛造技術が要求される。

 

「63-13.『古事記』と『書紀』が伝えていた史実」で示したように、『書紀』応神15年の記事と『古事記』応神記を照らし合わせると、368年に百済の肖古王が応神天皇に良馬2匹を献上し、その翌年に王仁が論語十巻と千文字一巻を携えて渡来してきたことが分かる。『古事記』には、王仁と共にその名を「卓素」という韓系の鍛冶技術者が倭国に渡来している。この「卓素」が、我が国で帯金式革綴短甲を開発したと考える。こう考えると、370年頃から帯金式革綴短甲の三角板革綴短甲と長方板革綴短甲が古墳に副葬され始めたことが説明できる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』によって、未だ明確になっていなかった帯金式革綴短甲の源流を発見することが出来た。


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