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65-1.箸墓古墳の築造年代は260年前後 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

古墳時代の象徴が前方後円墳であり、それは大和王権の象徴でもある。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、考古学的に導き出した古墳の編年とをマッチングさせ、古墳時代を解明したいと考える。なお、これ以降「縮900年表」による年代は青字で表示することにする。

 

Z252.前方後円墳の規模.png前方後円墳の時代別・規模別の変遷を表Z252に示す。前方後円墳が出現した前期前葉(260~320年)の地域別分布は、墳長が100m以上の大形前方後円墳では、奈良7基、京都・岡山2基、群馬1基で、大和王権発祥の地が奈良県にあったことが判る。一方、100m未満の古墳では、岡山13基、京都・兵庫・長野が2基、奈良・大阪・広島・香川・三重・茨城・群馬が1基と岡山県が圧倒的に多く、岡山が大和王権誕生に大きく関わっていたことが分かる。また下段に示すように、葺石は古墳の出現期(前期前葉)の時代から非常に高い比率で存在している。葺石は出雲の四隅突出弥生墳丘墓の影響を受けているといわれており、出雲が大和王権誕生に関わっていることを意味している。

 

『書紀』は、神武天皇は東征において吉備に3年間滞在し、船舶を揃え兵器や食糧を蓄え、天下を平定する準備を整え、そして大和に攻め入り橿原の地に建国(241年)したと記している。出現期の前方後円墳が岡山県に圧倒的に多いのは、大和王権の誕生に吉備が関係していることを暗示している。また、神武天皇が橿原の地に建国したとき、正妃に媛蹈鞴五十鈴媛命を召している。媛蹈鞴五十鈴媛命は出雲の大己貴神(大国主神)の孫にあたる。大和王権の誕生に出雲が関係していることを暗示している。

 

箸墓古墳.png最古の大型前方後円墳とされている箸墓古墳(墳丘276m)が築造された時代が古墳時代の始まりとになる。その箸墓古墳の話が『書紀』崇神9年の記事に「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳のある桜井市箸中は、中世までは大和国城上郡大市郷と称され、また纏向遺跡からは「市」と墨書きされた飛鳥時代の土器が出土しており、倭迹迹日百蘇姫の大市墓が箸墓古墳であることは確かである。箸墓古墳の後円部墳頂からは、奈良盆地と大阪平野の境にある二上山の山麓の芝山の石が出土しており、『書紀』の「大阪山の石を運んで造る。」と合致している。「縮900年表」によると、箸墓が造られた崇神9年は259年にあたる。

 

国立歴史民俗博物館(歴博)は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行い、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるとしている。箸墓古墳からは吉備系の都月型の特殊器台形埴輪が出土しており、古墳年代は260年から289年となる。「縮900年表」を通して編年し直した日本書紀』と、暦博の炭素14年代測定と、私の古墳年代決定プログラムで算出した古墳年代は、三者共に箸墓古墳の年代を260年前後としている。『魏志倭人伝』は邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのを247年前後のこととしており、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと言われている。

 

『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓は“径百余歩”と記されている。前節で述べたように、前方後円墳の主丘が埋葬施設のある後円部で、墳丘の寸法が後円径を基に定められていることからすれば、卑弥呼の墓が前方後円墳とするならば“後円径”が“百余歩”であることになる。箸墓の後円径は157mである。魏の時代の1尺の長さは24.2cmであり、1歩は6尺で1.45mである。箸墓の後円径は108歩であり、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓は“径百余歩”と一致する。

日向にあった邪馬台国は狗奴国に滅ぼされたのかも知れない。そうならば、磐余彦尊が日向から東征し建国した大和の地が、邪馬台国にとっての新天地である。その大和に邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が築かれても不思議ではない。「縮900年表」によれば、神武天皇が崩御されたのが、卑弥呼と同じ247年となる。箸墓古墳には卑弥呼と神武天皇の二人が葬られているのかも知れない。


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