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64-5.古墳の年代決定プログラム [64.古墳の年代をエクセルで決める]

Z233.年代決定プログラム.png古墳年代の決定は143種の遺構・遺物の有無を示す古墳コードと、遺構・遺物の編年コードとを付き合せて行っており、そのプログラムをSheet[年代決定PG]に作成する。shee3[編年コード]をコピーして、G列・H列の2行目に貼り付ける。Z233の番号に従って命令を記入する。

 1)I列2行に「=SEARCH("1",$H$1,1)」の命令を記入。
 2)J列2行に「=SEARCH("1",$H$1,I2+1)」の命令を記入。AZ列2行までコピー。
 3)I列3行に「=IF(MID($H3,I$2,1)=""," ",1)」の命令を記入。AZ列3行までコピー。
 4)I列3行からAZ列3行までドラッグして、I列40行までコピー。
 5)F列3行に「=COUNT(I3:AZ3)」の命令を記入。F列40行までコピー。
 6)E列3行に「=IF(AND(F3=0,F4>0.5),G3+9," ")」の命令を記入。E列40行までコピー。
 7)D列3行に「=IF(AND(F3>0.5,F4=0),G4," ")の命令を記入。D列40行までコピー。
 8)D列2行に「=SUM(D3:D40)」の命令を記入。
 9)E列2行に「=SUM(E3:E40)」の命令を記入。


Sheet7[古墳コード]から年代を決定する古墳の行をコピーして、Sheet[年代決定PG]の1行目に貼り付ける。Z234は池田茶臼山古墳(大阪)の事例である。I列~Q列の2行にある数字は、池田茶臼山古墳に存在した遺構・遺物、前方後円墳()、竪穴式石槨()、割竹形木棺(12)、円筒埴輪(25)、埴輪Ⅰ式(27)、石釧(60)、剣(107)、刀(108)を示している。I列~Q列の3行以下の“ ”(空白)はその遺構・遺物が存在した年代で、“1”はその遺構・遺物が存在しなかった年代、ある。なお、編年コード・古墳コードでは“1”は遺構・遺物の存在したことを示している。反対にしているのは、年代計算が安易であったためである。池田茶臼山古墳の年代は300~319年で、決め手は石釧(60)と埴輪Ⅰ式(27)である。D列・E列2行に古墳年代が表示されている。Z234.池田茶臼山古墳.png


Z235は花光寺山古墳(岡山)の事例で、D列・E列2行に年代は出ていない。I列以降を見ると、石棺直葬(11)・長持形石棺(15)と埴輪Ⅰ式(27)が310年と320年で接しており、年代は315~325年としている。Z235.花光寺山古墳.png


Z236は平尾城山古墳の事例で、金銅環(95)と埴輪Ⅰ式(27)が交差しており年代は出ていない。金銅環は金銅製品が普及する以前に海外から持ち込まれた“舶載異常”と考えられる。金銅環を除いて年代をみると、粘土槨()・動物埴輪(39)・鶏埴輪(41)・倭製三角縁(45)・倭製鏡(56)・合子(63)と埴輪Ⅰ式(27)で、300~319年と思われる。これら3事例からみても埴輪型式の年代、特に消滅の年代が年代決定の決め手になっていることがわかる。

Z236.平尾城山古墳.png

 


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64-6.年代が決められなかった17基の古墳 [64.古墳の年代をエクセルで決める]

古墳年代決定プログラムでもって、3294基の古墳の年代を決定した。これらの古墳の内、遺構・遺物の年代に矛盾があり、古墳年代を決定できなかったのは17基のみであった。ただし、須恵器については横穴式石室の追葬、墳上祭祀、周濠・墳丘への混入など後世のものが遺物として多く出土している。副葬品よりも後世と思われる須恵器はコンタミとして省き、複数の型式の須恵器が出土している場合は一番古い型式のものを採用し、年代の検定に矛盾が起こらないようにしている。遺構・遺物の年代に矛盾が生じた17基の古墳について、その原因別に分類し表Z237に示した。Z237.年代未決古墳.png

「舶載異常」は、副葬品として普及する以前に海外から持ち込まれたものと考えられるものである。新山古墳(葛城郡広陵町)から出土した透彫りした金銅製帯金具は、中国西晋時代(265~316年)のものと類似性が強いとされており、5世紀以降に普及した帯金具とは別のものと見られている。帯金具を除くと新山古墳の年代は、倭製三角縁神獣鏡のⅡ段階と(320~399年)と埴輪Ⅰ式(290~319)の関係から315~325年となり、西晋の帯金具とする見解と合致する。

 

「遺物混入」とは、本来その古墳の副葬品でない後世のものが、副葬品として混入したものである。平尾城山古墳の金銅環は前節のZ236に示したように金銅環(95)と埴輪Ⅰ式(27)に年代の矛盾があった。金銅環は学術調査がなされた以前の出土品で、「遺跡ウォーカー」にも「一括性・出土地など疑問が残る。」との記載があり、「遺物混入」と考えた。副葬品として普及する以前に海外から持ち込まれた「舶載異常」とも考えられる。

 

「新旧混合」の川井稲荷山古墳(佐波郡玉村町)は、埴輪Ⅰ式を有する前期の古墳の上に、埴輪Ⅴ式を有する後期の古墳が築造されたもので、前期古墳は竪穴系の石室で三角縁神獣鏡が出土し、後期古墳は両袖式横穴式石室で馬具の轡が出土している。

Z238.帆立貝式.png同名別種」に掲げた弁天塚古墳(橿原市)は、帆立貝式前方後円墳の墳形と宮山特殊器台形埴輪・都月型埴輪が矛盾したものである。Z238は前方後円()墳と帆立貝式前方後円()墳の墳形を比較した。縦軸は後前高差(前方高さー後円部高さ)で、横軸は前方長(墳長ー後円径)を墳長で割った値である。前方長/墳長が0.4を越しているのも帆立貝式とされており、また0.3以下であるのに帆立貝式になっていないものもあり、帆立貝式の定義が曖昧であることが分かる。帆立貝式と呼べるのは前方長/墳長が0.33未満くらいではないかと思える。弁天塚古墳は墳丘が消滅しており、正確ではないが墳長が60m後円径は40mで、前方長/墳長は0.33程度であり、帆立貝式の範疇にはかろうじて入っている。矛盾原因である帆立貝形を取り除くと、弁天塚古墳の築造年代は最古の大型前方後円墳とされる箸墓と同じ260~289年であり、帆立貝式と称するよりは、前方後円形をなす弥生墳丘墓(纏向型前方後円墳)の延長と捉えた方がよいと思う。


「伝世」という言葉は先祖から受け継いだ遺品という意味で鏡によく使われるが、ここでは前世の遺物が何らかの要因で後世の古墳に副葬品として供えられたことも意味している。三玉大塚古墳(三次市)は朝顔形埴輪Ⅳ式、人物埴輪、横矧板鋲留短甲、馬具、須恵器のTK208が出土することより、中期の古墳であることは間違いない。しかし、前期古墳の副葬品である筒形銅器が1個出土している。「遺跡ウォーカー」で収集できた筒形銅器がする古墳は33基であるが、その内前期古墳以外で出土したのは三玉大塚古墳のみである。三玉大塚古墳に筒形銅器が副葬された原因が伝世かどうかは分からない。筒形銅器を除くと、三玉大塚古墳の年代は、須恵器のTK208より440~459年となる。

城山1号墳(香取市)は三角縁神獣鏡(260~399年)と横矧板鋲留衝角付冑(400~499年)と年代の違う二つの遺物が矛盾の原因となっている。私の古墳リストでは三角縁神獣鏡が出土した古墳は舶載と倭製(仿製)合わせて147基である。その内、前期古墳以外で出土したのは金鶏塚古墳(瀬戸内市)と城山1号墳の2つの古墳のみである。横矧板鋲留衝角付冑は、その製作技法が同じである横矧板鋲留短甲と同時に5世紀末で消滅したと考える。両者のどちらかが出土した古墳は22基であるが、6世紀になって出現する遺物、双龍環頭大刀・捩り環頭大刀・圭頭大刀・円頭大刀・頭椎大刀・須恵器(TK10MT85TK43TK209・平瓶)と共伴した古墳は城山1号墳のみである。城山1号墳の年代は三角縁神獣鏡と横矧板鋲留衝角付冑を除くと、TK43より550~579年となる。

「判定」に掲げた塚の越古墳は須恵器の型式で、妻塚古墳は埴輪の型式で、割地山古墳は短甲の品目で年代の矛盾を起した。これらの古墳については、「遺跡ウォーカー」にもその型式や品目に疑問符が付いており、古墳年代決定プログラムが“正直”であることを物語っている。紫金山古墳の埴輪型式については次節で詳しく述べてみたい。

 


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64-7.紫金山古墳の埴輪型式に物申す [64.古墳の年代をエクセルで決める]

紫金山古墳(茨木市)は古墳年代決定プログラムにおいて、円筒埴輪Ⅰ式(290~319年)と竪矧板革綴式短甲(340~369年)の交差により、年代の決定が不可となった古墳である。紫金山古墳は未盗掘の古墳で京都大学が発掘調査を行っており、その関係者である坂口英毅氏は『前期古墳解明への道標 紫金山古墳』(以降『紫金山古墳』)を著している。その本にも紫金山古墳の円筒埴輪はⅠ式と書かれてあり、埴輪Ⅰ式の判定が間違っているのか、私の埴輪型式の年代、あるいは竪矧板革綴式短甲の年代が間違っているか、『紫金山古墳』の著者との一騎打ちである。

 

近つ飛鳥博物館編集の『考古学からみた日本の古代国家と古代文化』には、円筒埴輪の編年についてまとめている。それを参考にして、埴輪Ⅰ式と埴輪式の違いをZ239にまとめた。これを見ると、埴輪式と断定できる要因は数個あるが、埴輪Ⅰ式と断定できる要因は、突帯と突帯の間の円周に▽・△・□の形状のスカシ孔が3個以上あるかどうかだけである。『紫金山古墳』の終りには、「第二次調査以降は、円筒埴輪列を検出することができておらず、その詳細はほとんど明らかになっていない。出土した埴輪にも、全形を復元できるような遺存状況の良好な固体はなく、今後の資料の増加が期待される。」と書かれてある。
Z239.円筒埴輪編年.png

紫金山古墳の円筒埴輪の写真を見ると、黒班と△形状のスカシ孔が1個あるものが復元されている。これからは埴輪Ⅲ式ではないことが分かるが、埴輪Ⅰ式か埴輪Ⅱ式かの判断は付かない。紫金山古墳の円筒埴輪が埴輪Ⅰ式である証拠は無いのである。坂口氏は状況証拠として、「紫金山古墳の円筒埴輪は最上段突帯が口縁端部の直下をめぐり、外反が短く終わる極狭口縁である。「極狭口縁」をもつ円筒埴輪が出土した古墳には、副葬品から前期中頃に位置づけられる例が多いことから、紫金山古墳の円筒埴輪はⅠ期でも後半段階の所産と見てよい。」としている。

 

坂口氏は「副葬品を利用して古墳の年代を検討しようとする場合、多くの古墳から出土例があり、なおかつそれ自体の編年研究が進んでいる品目を選択することが望ましい。紫金山古墳の場合は、鏡と(腕輪型)石製品がもっとも有効な品目であろう。貝輪・筒形銅器・竪矧板革綴短甲などは、品目そのものや同一の型式に属する事例が稀少ないし皆無であるため、条件に適さない。」としている。紫金山古墳からは、舶載三角縁神獣鏡のC段階1面と仿製(倭製)三角縁神獣鏡のⅠ段階6面・Ⅱ段階3面、そして鍬形石6個、車輪石1個が出土している。表Z240は埴輪の型式別に、これらの品目が出土する古墳の数を求めたものである。これらからすると、紫金山古墳の三角縁神獣鏡と石製腕飾は円筒埴輪をⅠ期とする状況証拠にはなり得ないことが分かる。

Z240.紫金山古墳遺物1.png

 

紫金山古墳の円筒埴輪が埴輪Ⅰ式であることが状況証拠でしかないのであれば、私にも言い分がある。紫金山古墳から出土した遺物に、ひれ付円筒埴輪、竪矧板革綴短甲1領、筒形銅器1個、棗玉4個がある。表Z241は、埴輪の型式別にこれらの遺物が出土する古墳の数を求めたものである。埴輪Ⅰ式に示す“1”は全て紫金山古墳である。埴輪Ⅰ式の出土する古墳で、ひれ付円筒埴輪、短甲(竪矧板革綴以外も含む)、筒形銅器、棗玉の遺物が出土する古墳は紫金山古墳以外にはまったく無く、状況証拠としては、紫金山古墳の円筒埴輪は埴輪Ⅱ式と言える。

 

Z242.松岳山鰭付楕円筒埴輪.pngなお、紫金山古墳からは、ひれ付楕円筒埴輪の破片が出土している。このひれ付楕円筒埴輪はひれの形状、突帯間隔などが大阪府柏原市の松岳山古墳出土(Z242:右下隅は紫金山古墳)のものと似ている。松岳山古墳のひれ付楕円筒埴輪には突帯と突帯との間に三角の形状のスカシ孔が6個あり埴輪Ⅰ式と言える要素である。近つ飛鳥博物館編集の『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』では、松岳山古墳の円筒埴輪の型式をⅠ式としているが、「遺跡ウォーカー」では松岳山古墳の円筒埴輪の型式をⅡ式とある。楕円筒埴輪のスカシ孔の数は、川西氏の定義した円筒埴輪の型式に当てはまらないのではないかと思う。

 

『紫金山古墳』では紫金山古墳の年代は4世紀前半としているが、古墳年代決定プログラムよれば、円筒埴輪の型式を無視すれば年代の決め手が竪矧板革綴短甲で年代は340~369年となり、違いはそれほど大きくない。紫金山古墳の円筒埴輪の型式がⅠ式ではなくⅡ式であり、私の埴輪型式の年代、あるいは竪矧板革綴式短甲の年代は間違っていないと思える。


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64-8.円筒埴輪Ⅲ式は前期に属している [64.古墳の年代をエクセルで決める]

古墳の年代決定のプログラムにより、3294基の古墳の年代を決定したが、その年代幅が前期・中期・後期の3期に明確に区分できた前方後円()墳は1512基で、前期(260~400年)462基、中期(400~470年)165基、後期(470~600年)885期であった。前期と後期は年代幅が大きいので、前期は前期前葉(260~320年)38基と前期後葉(360~400年)103基、後期は後期前葉(470~520年)107基と後期後葉(550~600年)45基の古墳を抽出した。各期の終りと次の期の始まりの年代が重なっているのは、±10年の重なりがあるためである。また、前期と中期にまたがる395~405年の年代と判定された古墳には円筒埴輪Ⅲ式が多いため前期に、また中期と後期にまたがる465~475年と判定された古墳には円筒埴輪Ⅳ式が多いため中期に編入している。巻末のZ243には、年代幅が30年以内であった385基の前方後円()墳の一覧を示した。

 

Z244.巨大古墳.png全国の古墳で墳長が200mを越える巨大古墳は、白石太一郎編
『古代を考える 古墳』には35基が掲載されており、その内訳は
前期11基、中期21基、後期3基である。年代が明確に区分され
た1512基の中で、巨大古墳はZ244に示すように29基、
その内訳は前期21基、中期7基、後期1基である。これらの巨大古墳は、『古代を考える 古墳』に記載された数よりも6基少ないにも関わらず、前期では10基も多い結果となっている。その原因は、
円筒埴輪のⅢ式の時代を、私は前期に編入しているが、白石氏(現在の考古学では)は中期に編入しているからである。

 

古墳を研究する者のバイブルである『前方後円墳集成』では、全国的規模での前方後円墳の横並びの関係をつかむために、広瀬和雄氏が作成した「畿内における前方後円墳の編年基準」を共通の編年基準として、古墳時代を10期に区分することを採用している。この編年基準では、川西宏幸氏の円筒埴輪編年と田辺昭三氏の須恵器編年を基本として、その他の要素を加えて編年基準が作成されている。この編年基準は「集成編年」として、研究者の間でもっぱら用いられている。

編年基準の5期の定義は、「円筒埴輪のⅢ式、同種多量の滑石製農工具が顕著となる。鉄鏃は4期出現の型式が、また短甲は三角板革綴・長方板革綴型式がそれぞれ主体を占める。銅鏃・筒形銅器・巴形銅器・石製腕飾類などは4期で消滅し、この時期には続かない。」とある。これに従えば、「石製腕飾(石釧・鍬形石・車輪石)・筒形銅器・巴形銅器・銅鏃」は、円筒埴輪のⅢ式と共伴しないことになる。

私が調査した古墳では、これら4種の副葬品は円筒埴輪Ⅲ式と共伴している。石製腕飾では島の山古墳(奈良)で石釧・鍬形石・車輪石が、遊塚古墳(岐阜)で車輪石が出土し、巴形銅器は鳥居前古墳(京都)、行者塚古墳(兵庫)、千足古墳(岡山)、白鳥古墳(山口)で出土し、銅鏃は久津川車塚古墳(京都)、乙女山古墳(奈良)、千足古墳(岡山)、愛宕山古墳(徳島)で出土している。また、前期古墳の象徴とされる三角縁神獣鏡が室宮山古墳(奈良)、久津川車塚古墳(京都)から出土している。

これらからして、円筒埴輪のⅢ式の時代は前期に編入するのが相応しいと考える。なお、古墳時代中期の代表的副葬品は、須恵器・馬具・鋲留短甲であるが、須恵器は後世のものが混入する可能性が高いので除くと、円筒埴輪のⅢ式から出土した馬具は新沢274号墳(奈良)と溝口の塚古墳(長野)の2基のみで、鋲留短甲は皆無である。新沢274号墳・溝口の塚古墳は前期と中期の接点の古墳で、年代は395~405年と考えれば、何も矛盾は起こらない。円筒埴輪のⅢ式の時代は、前期後葉(360~400年)の時代であるといえる。

古墳には盗掘されているものが多く、また天皇陵のように発掘調査されていないものも多い。そのような古墳で、築造年代を前期・中期・後期の3期に別けようとするとき、埴輪の型式は有効な指標となる。しかし、埴輪が出土している古墳でも、その型式が判定されている古墳は17%程度で意外と少ない。埴輪の型式判定の因子の一つ「黒班」は、最も容易に見つけることが出来る。円筒埴輪のⅢ式の時代を前期にいれると、「埴輪に黒班が有れば前期」という単純明快な指標が出来る。「遺跡ウォーカー」の検索で、「埴輪」は5574件がヒットするが、「黒班」でヒットしたのはたったの8件で、「黒班」が資料として重要視されていないのは残念である。

Z243-1.古墳前期前葉.png

Z243-2.古墳前期中葉.png












































Z243-3.古墳前期後葉.png


















































Z243-4.古墳中期.png





























































Z243-5.古墳後期前葉.png





























































Z243-6.古墳後期中葉.png





Z243-7.古墳後期後葉.png








































































































































































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64-9.前方後円墳は後円径を基に設計された [64.古墳の年代をエクセルで決める]

前方後円墳(前方後方墳を含む)は我が国独自の墳丘形態で、後円部と前方部より成り立っている。後円部には埋葬施設があり、弥生時代の円墳・方墳の流れを汲み墳墓としての主丘となっている。前方部の起源については、祭祀を行う場としての祭壇説や、弥生周溝墓の陸橋が発達した墓道説などがあり明確にはなっていない。最も古い大型の前方後円墳が箸墓古墳である。箸墓古墳は定型化された前方後円墳といわれるが、何をもって“定型”というのか定かではない。前方後円墳の墳丘規模や形態を古墳の年代別に層別して、出現期の古墳の設計思想を探ってみる。

 

Z245.前方後円墳図面.png墳丘の規模や形態は、墳長・後円径・前方幅・くびれ幅・後前高差などの値から解析した。これらの値はエクセルに取り込んだ「遺跡ウォーカー」の情報から「SEARCH」命令を使って抽出した。“後円径”の値には、前方後方墳の“後方幅”をも含めて表示し、“前方長”の値については「墳長ー後円径」と定義し、“後前高差”の値が無いものは「前方部高さー後円部高さ」で計算した。

 

前方後円墳の主丘が後円部であることからして、墳丘の形態は後円径が基となって設計されていると考え、墳長/後円径と前方幅/後円径の関係をZ246に示した。図を見ると、㊥の四角の領域にの出現期(前期前葉)の前方後円墳の全てが入っていることが分かる。出現期の前方後円墳は、墳長/後円径(X/Y)が1.5~2.5の範囲で、前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にある。後円径を基本とした非常にシンプルな設計であることが分かる。墳長/後円径(X/Y)が1.5以下の㊧の領域は、帆立貝式と呼ばれる前方後円墳の領域である。前方長が墳長に比べて非常に短い帆立貝式の領域が㊧であることは数学的に証明できる。前方長は“墳長ー後円径”(Z=X-Y)と定義しており、X/Y<1.5にY=X-Zを代入するとZ<0.33Xとなり、前方長が墳長の1/3以下であることを示している。前方幅/後円径が1より大きい(前方幅が後円径より大きい)㊤の領域の古墳の名称は特にないようだが、私はテルテル坊主形と呼んでいる。前方幅/後円径が最大の2倍ある古墳は、清寧天皇陵に治定されている墳長115mの白髪山古墳(大阪府羽曳野市)である。

Z246.初期前方後円墳範囲1.png

後方幅/後円径とくびれ幅/後円径の関係をZ247に示した。図を見ると、㊥の四角の範囲にの全てが入っている。前方幅/後円径(W/Y)が0.5~1.0の範囲にあるのはZ246と同じであり、くびれ幅/後円径が0.25~0.75の範囲にある。()の直線はV=Yの関係にあり、この直線の近くにある古墳はくびれ幅と前方幅が同じで、柄鏡式と呼ばれているタイプの前方後円墳である。()の直線はV=0.5Yの関係にあり、この直線の近くにある古墳はくびれ幅が前方幅の半分であり、撥(ばち)型と呼ばれるタイプの前方後円墳である。最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳が撥型であり、の出現期の多くの古墳がの直線の近くに多いことが分かる。しかし、図Z247からは、出現期の古墳の形態は、撥形から柄鏡形までの間の色々のタイプがあることも示している。


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