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65-2.国宝七支刀の鉄素材の故郷 [65.『日本書紀』と考古学のマッチング]

日本書紀』は、朝鮮半島の百済・新羅・高句麗の三国との関わりについて多くのページを割いている。中でも百済とは、660年に白村江の戦いで倭国と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍に破れ百済が滅びるまで、友好国(同盟国)として互いに大きな影響を与えて来た。倭国と百済の外交が始まったのは、応神天皇治世下の366年(神功46年:246+120)に伽耶の卓淳国の仲介からであった。その時、百済の肖古王は倭国の使者に五色の綵絹(色染めの絹)各一匹、角弓箭(角飾りの弓)、鉄鋌四十枚を与えている。

 

また、応神天皇の372年(神功52年:252+120)には、百済の肖古王が使者久氐を倭国に遣わし、七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉り、「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」と口上している。

 

奈良県天理市にある石上神宮には、左右に段違いに三つずつの枝剣があり、剣身を入れると七つの枝に分かれる特異な形をした、国宝の七支刀がある。この七支刀には、表と裏に60余文字の金象嵌があり、表の象嵌には泰和4年(東晋太和4年:369年)に七支刀が造られたことを記し、裏の象嵌には百済王が倭王のために造ったことを記している。石上神宮の七枝刀は、『書紀』に記載された七枝刀で、百済の肖古王が369年に造り、372年に倭国の応神天皇に献じたものであることが分かる。

 

韓国忠清北道忠州市にある弾琴台土城の発掘調査が2007年に行われ、40枚の鉄鋌が出土した。鉄鋌の平均寸法は長さ30.7cm、幅4.13cm、厚さ1.45cm、重さ1.31kgの棒状で、日本の古墳から出土する厚さ0.2cmで両端が広がった鉄鋌とは異なっている。同時に出土した土器は4世紀のものが多く、5世紀初頭までのものであった。

 

Z253.弾琴台土城鉄鋌.png

2016年から17年の弾琴台の南側斜面の発掘調査では、鉄鉱石を溶解し鉄を作る製錬炉が11基と、鉄鉱石を割るために火を炊いた遺構10基が発見されている。11基の製錬炉は3つの層から出ており、使っていた製錬炉を破棄後、その上に土を覆って新しい炉を造っている。焼けた木片の炭素年代を測定した結果は、これらの遺跡は4世紀に造られたことが判った。4世紀、少なくとも100年に渡って忠州の弾琴台で鉄を作ったのは、ここが鉄鉱石の主要産地であるうえ、南漢江の水上交通を通して鉄を運ぶことが出来たためと分析されている。

 

百済の肖古王の在位は346~375年で、都は漢城(ソウル)であった。ソウルを通って黄海に流れる漢江の上流に忠州市がある。「わが国の西に河があり、水源は谷那の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行きつきません。まさにこの河の水を飲み、この山の鉄を採り、ひたすらに聖朝に奉ります」にある河は漢江のことであり、水源の谷那の山の鉄鉱石から鉄にしたのが、4世紀に稼動した弾琴台の製錬炉であったのであろう。

 

366年に倭国の使者が肖古王より賜った鉄鋌は40枚、弾琴台土城から出土した鉄鋌が40枚、奇しくも40枚と一致しており、肖古王より賜った鉄鋌が弾琴台の製錬炉で作られたと考えてもおかしくない。弾琴台から出土した百済時代の鉄鋌・製錬炉は、書紀』が記す百済の肖古王に関する記事が、史実に基づいていることを照明している。石上神宮の国宝七支刀の鉄素材は、弾琴台で作られたのであろう。

漢江地形図1.png

 


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