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27-1.ガラスの起源 [27.古代ガラスの源流を探る]

古代史を解明した答えは、文献学と考古学の両者と、整合性が取れていなければならない。考古学だけで見ても、稲作・墳墓・土器・青銅器・鉄器などの変遷の答えが、互いに整合性が取れていなければならない。そう考えると、或る一つの物に焦点を絞って深耕すれば、古代の歴史を垣間見ることが出来るはずである。ガラスを透して古代を見てみる。そこには新しい発見があるかもしれない。 

2000年前のローマの政治家であるプリニウスが書いた「博物誌」に、ガラスの起源についての話がある。「メソポタミア(現イラク)に近い地中海の東岸で、フェニキア(現レバノン:3000年前)の商人が昼食を作るためソーダ灰の袋をカマドにして鍋を置き、料理していると、ソーダ灰と砂が混ざって融け、透明な液体となって流れ出し、美しい半透明の石のような物が出来た。」というものである。
 

考古学でいうガラスの起源は、5000年前頃のメソポタミアに始まる。それはファイアンスと言われる釉製品で、石英砂(90%程度)の胎の表面に釉薬を施し焼成したものである。表面の釉薬は融けてガラス化しているが、内部の胎は完全にガラス化していない。ファイアンス製品は不完全なガラスで、ガラスの範疇には入らない“夜明け前のガラス”という位置付けであろう。G-1.コアガラス.jpg
 

完全なガラスが登場するのは、4500年前頃のメソポタミアとその周辺地域からで、丸玉・管玉・トンボ玉(モザイク玉)のような小さな装飾品が鋳造で作られている。3500年前には、メソポタミアやシリア・エジプトでガラス容器が作られるようになった。これらのガラス容器の製造方法は、容器の内側の形を粘土で作り、その周りに融けたガラスをかぶせ、ガラスが冷えて固まってから、内側の粘土(コア)を壊して取り出すコアガラス法や、ガラス容器の外側の形状の型を作り、溶かしたガラスを押しつけて成形する型押し法であった。
 


G2モザイクガラス.jpgエジプトでは3000年前頃から約500年間ガラスの製造が断絶するが、メソポタミア地方ではガラスの製造は続けられ、3000年前頃にはモザイクガラスの技法、2600年前頃にはカットガラスの技法が生れた。これらの技法を駆使して製作されるガラス容器は、王侯貴族に尊ばれる高価な装飾品であった。アレキサンダー大王(紀元前356~323年)によってアレキサンドリアが建設されると、そこにガラス工場が作られ、そして広い地域から職人が呼び寄せられ、エジプトがガラス製造の中心地となった。素晴らしいガラス製品がギリシャやイタリア半島に輸出された。

27-2.ローマガラス [27.古代ガラスの源流を探る]

G3ローマガラス.jpgガラスはローマ帝国(紀元前27~後395年)に伝わり、ローマガラスとして大きな発展を遂げる。前1世紀後半ローマ領シリア地方において、外側の形状の型を作り、溶かしたガラスを吹き込んで成型する型吹き法が発明された。そして、その技法はローマに伝わり、溶けたガラスを鉄製のパイプの先につけ、息を吹き込んで自由に成形する、宙吹き法が確立した。この吹きガラスの技法により、ガラスの量産が可能となり日用品も増加した。もちろん、装飾品として価値のある高級品も造られ続けられ、装飾技法も多様化し、切子(カット)や研磨、溶解したガラス紐の溶着、エナメル顔料の絵付けなども行われた。 

ローマガラスの製作地はローマ、イタリア南部のクマエ、
地中海東岸のシドン、エジプトのアレキサンドリアであった。これらの製作地で作られたガラス器は、香水・香油・食物などを入れる瓶壺類と飲食器が主体で、模造宝石や装飾品、モザイク、そしてガラス塊があった。ローマの勢力拡大に伴って、ローマガラスが交易品として世界の各地にもたらされた。図G5に由水常雄氏の「ガラスの道」に記載された、「ローマ・グラスの分布状況および交易ルート」を示す。 (クリツクすると大きくなります)
G4ローマガラス.jpgG5ローマガラス.jpg












メソポタミアで起こったガラス製造技術は、シリア・エジプト、そしてイタリア半島と広がった。これらの地域で製作されたガラスの全てが、ソーダ石灰ガラスで、その組成はソーダ灰(
Na2O)と生石灰(CaO)、そして石英砂(シリカ・SiO2)である。特に石英砂を低温(790℃)で溶融させるアルカリ原料のソーダ灰が重要で、海岸近くの植物や砂漠の灌木などの植物灰や、エジプトで採れる天然ソーダ(Na2CO3)の鉱石・ナトロンが原料として使用されている。

27-3.ササン朝ペルシャのガラス [27.古代ガラスの源流を探る]

ササンガラスはイラン高原・メソポタミアを支配したササン朝ペルシャ(226年~651年)で作られたガラスである。本質的にはローマガラスの技法を応用したものであり、G6切子碗.jpg成形法としては型吹き法と宙吹き法の両者が使われている。ササンガラスの大きな特徴は、器の表面全体に、円形の文様を装飾していることだ。これらの円形文様は、ガラスの円塊を溶着したものや、凹や凸の円形模様を削り出すカット(切子)技法、そして型に模様を付けておくものなどがある。ササンガラスの組成は、ソーダ石灰ガラス(Na2O-CaO-SiO2)であるが、砂漠の植物灰で作られたため、マグネシア(MgO)の量が多くなっている。 

G7正倉院.jpg正倉院の宝物に「白瑠璃碗」という円形切子碗がある。この白瑠璃碗はシルクロードを通ってペルシャよりやって来たササンガラスである。この白瑠璃碗の製作地が、ササン朝ペルシャであると判明したのは、20世紀半ばのことだそうだ。昭和34年3月、東京大学イラン・イラク調査団の先発隊としてイランの首都テヘランにいた深井晋司氏は、なにげなく入った骨董屋で、ガラクタの中に正倉院の宝物の「白瑠璃碗」と同じ円形切子装飾を施したカットグラスを見つけたそうだ。

深井氏の著書『ペルシャのガラス』には、「いったい正倉院のガラス器と同じ作品がこんな骨董屋の、しかもがらくたの中にあるのか、そんなはずはない」と書かれてあり、その時の興奮ぶりが伺える。
 このカットグラスはイラン北西部のカスピ海沿岸ギラーン州のアムラシュの遺跡から、盗掘品として約100個が古美術市場に出回ったものの一つであった。円形切子装飾を施したカットグラスが製作され始めた年代は、紀元1世紀頃まで遡ると推定されており、ササン王朝時代に隆盛を極め、七世紀後半イスラム時代に入って衰退すると考えられている。なお、正倉院の白瑠璃碗の組成は酸化鉛が5%含むソーダ石灰ガラスであるが、アムラシュの遺跡の同種のカットグラスは、鉛を全く含まないソーダ石灰ガラスであるという。正倉院の白瑠璃碗の故郷が100%解明されたわけではないのである。

G8ササン朝ペルシャ.jpg図8に6世紀のササン朝ペルシャと東ローマの領土を地図に示した。ササン朝ペルシャと東ローマの戦いは繰り返し行われており、6世紀のシルクロードがササン朝ペルシャで行き止まり、ペルシャの製品が東方に出回ったことが分かる。中国の寧夏回族自治区固原県と陝西省西安市から、浮き出しの円形文様のあるササンガラスの椀と瓶が出土している。

27-4.中国(戦国時代)のガラス [27.古代ガラスの源流を探る]

中国のガラスの始源は、表面の釉薬は融けてガラス化しているが、内部の胎は完全にガラス化していない、ファイアンスで作られた珠である。西周時代(紀元前1020~770年、都:陝西省西安)の陝西省の宝鶏市・扶風県・岐山県・長安県や河南省洛陽市から、G9ファイアンス珠.jpg稜や瘤(こぶ)のある淡青色から淡緑色の単色の珠が全部で1000点以上出土している。春秋時代(紀元前770~403、都:河南省洛陽)のファイアンス珠が、河南省の陝県と淅川県から出土している。形態は稜や瘤(こぶ)があり、西周時代のものと同じである。戦国時代(紀元前403~221年)のファイアンス珠には眼玉模様が登場する。眼玉模様のガラス珠のデザインは、オリエント(メソポタミア・シリア・エジプト)にあると言われている。 

g10戦国トンボ珠.jpg戦国時代(紀元前403~221年)の遺跡からは、眼玉模様のガラス珠(重層貼付同心円文珠)、いわゆるトンボ玉が多数出土している。これらのトンボ玉のガラス組成は、鉛バリウムガラス
PbO-BaO-SiO2)が最も多く、ほんの僅か鉛ガラス(PbO-SiO2が存在している。ソーダ石灰ガラス(Na2O-CaO-SiO2)とカリガラス(K2O-SiO2)が少量ある。ガラスの組成別に出土地を見てみと、鉛バリウムガラスのトンボ玉は湖南省・河南省・山東省から多量に出土している。河南省洛陽市・輝県、河北省平山県、湖北省随州市・荊州市、山東省曲阜市、湖南省長沙・湘郷市、安徽省毫州市、広東省肇慶市、貴州省安順市、四川省青川県、重慶市開県、甘粛省礼県である。鉛ガラスは河南省洛陽市でG11曽候乙墓トンボ玉.jpg1個見つかっている。 

カリガラスのトンボ玉では湖北省荊州市・黄岡市、貴州省畢節市、四川省理県、雲南省玉渓市江川県。ソーダ石灰ガラスでは、河南省洛陽市・国始県・輝県・淅川県、湖北省随州市である。湖北省随州市の曽候乙墓(紀元前433年没)は、夥しい青銅器や玉器が出土した有名な墓である。曽候乙墓から出土したトンボ玉のほとんどはソーダ石灰ガラス珠であるが、鉛バリウムガラス珠も混じっている。前漢劉安の『淮南子』という書物に「随公之珠」とあり、曽候(随公)乙墓の墓から出土した珠と関係があるのではないかと言われている。
 


G12ガラス璧.jpg戦国時代のガラス璧が、湖南省(当時楚国)に集中して出土している。湖南省長沙市・湘郷市・常徳市・益陽市・資興市などの楚墓からである。写真12は湖南省長沙市楊家山出土のガラス璧(直径
11.3cm、厚み0.2cm)である。ガラスの剣装具(剣首と剣珥)も、湖南省の長沙市・湘郷市・益陽市、そして安徽省寿県、湖北省江陵県で出土している。これら壁と剣装具のガラス組成は、鉛バリウムガラスである。 

河南省輝県市瑠璃閣出土の呉王夫差(紀元前473年没)銘青銅剣と、湖北市荊州市江陵楚墓出土の越王勾践(紀元前465年没)銘青銅剣に象嵌されていたガラスはカリガラスであった。鉛バリウムガラスとカリガラスは、西アジアには見られないガラス組成である。
 

G13戦国ガラス分布.jpg図13は戦国時代のトンボ玉・璧・装飾品などのガラス製品の、組成別分布である。鉛バリウムガラスは湖南省の長沙を中心に分布、ソーダ石灰ガラスは河南省洛陽を中心に分布、カリガラスは長江沿いに分布している。鉛バリウムガラスは中国独自のガラスであり、カリガラスはオリエントにはないガラスで、インド・タイ・ベトナムで確認されている。ソーダ石灰ガラスの起源は、眼玉模様のガラス珠のデザインと共に、オリエント(メソポタミア・シリア・エジプト)にある。戦国時代にオリエントのトンボ玉が中国に来ていたと考えられている。

27-5.中国(前漢・後漢)のガラス [27.古代ガラスの源流を探る]

前漢時代(紀元前206~後8年)になると、鉛バリウムガラスによるガラス製品(璧・容器・装飾具)が多く作られている。ガラス璧は陝西省興平市、江蘇省淮安市、広東省広州市、広西省合浦市などで出土、ガラス容器は江蘇省徐州市の楚王墓(紀元前128年G14前漢鉛バリウむ.jpg頃)から円筒形杯が、河北省満城県の中山靖王墓(紀元前113年没)から耳杯と盤が出土している。ガラス武装具が河南省洛陽市・禹州市、江蘇省徐州市・盱眙県・江都市、湖南省長沙市で出土している。また玉衣をガラスに置き換えたガラス布片約600が江蘇省揚州市から、金銅(鍍金青銅)でガラス板の縁装飾したガラス牌が広東省広州市から出土している。 

G15突起付き環.jpg前漢時代にはカリガラスの製品が中国南西部から出土している。広西省合浦市の文昌塔1号前漢墓から青緑色透明の突起付きのガラス環が、同市飼料公司7号前漢墓からは半透明のコバルト着色紺色のガラス環が出土している。湖南省長沙市沙橋の前漢墓から出土したガラスの矛は材質の分析がなされていないが、比重が2
.47であることから鉛バリウムガラスではなく、カリガラスであると考えられている。伴出した陶製の五銖銭は、形態から前漢の紀元前113年~前49年のであることが分かっている。広東省広州市の横枝崗1号墓出土の紺色碗3点、広西省合浦県や貴港市の前漢墓から紺色・青色のカリガラスG16前漢ガラス分布.jpgの碗と盤が4点出土している。 

前漢時代のカリガラスのトンボ玉が南西部から戦国に引き続き出土している。ただ、遥か離れた青海省・北京市からも出土している。データが少ないので全国的な広がりを持つのかどうか不明である。図16は前漢時代のガラス製品の組成別分布図である。
特に注目すべきは、鉛バリウムガラスの中心地が湖北省から江蘇省に変わったことと、カリガラスの容器が広西省で 発展していることである。

後漢時代(紀元後20~220年)中原で製作されたガラスは、武装具のような小物が多くなる。ガラスの組成も鉛バリウムガラスが衰退し、鉛ガラスが一般的となる。この鉛ガラスは紀元前2世紀頃に出現し、漢代に流通したがその後3世紀後半頃には一時途絶え、隋代6世紀末には復活して多量に流通した。『随書』の何稠(かちゅう)伝の「緑瓷(瓶)をもって久しく絶えていた中国ガラスを復活させた」という記載は、この鉛ガラスのことを物語っていると考えられている。
 

後漢時代の広西省合浦県・貴県からは、前漢に引き続き多量のカリガラス容器(碗・脚坏・托・盤)の5点が出土している。これらのカリガラスは青・緑・青・紺色の透明・半透明である。カリガラス製品の出土は、広東省・広西省・雲南省が中心だが、甘粛省・河南省・江蘇省などからも出土している。このカリガラスも漢代以降は途絶えている。

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