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28-3.戦国の鉛バリウムガラスを解く [28.中国・韓国の古代ガラス]

日本の古代ガラスの源流を探るため、オリエント・インド・東南アジア・中国で製作されたガラスについて述べて来た。そこで、これまでのカテゴリー名を「古代ガラスの源流を探る」に改め、今後述べる日本の古代ガラスについてのカテゴリー名を「ガラスを透して古代を見る」とした。なお、鉛バリウムガラスの項目と、カリガラスの項目について順番を入れ替えた。

G13戦国ガラス分布.jpgG16前漢ガラス分布.jpgG35 鉛バリウムガラス.jpg



鉛バリウムガラスは、ガラスの分布G13とG16で示したように、戦国時代には内陸部の湖南省を中心としてビーズが作られ、前漢時代にはその中心が沿岸部の江蘇省に移り、容器や装飾品が作られている。このことは製作地の変化だけでなく、表G35に示すようにその成分も変化している。特に大きな変化を示すのは、石英(SiO2)とアルミナ(Al2O3)が減少し、酸化鉛(PbO)が増加している事である。 

「鉛バリウムガラスの通説を斬る」で、中国の鉛バリウムガラスは石英(SiO2)と白鉛鉱(PbCO3)・毒重石(BaCO3)で製作されたとした。表35にある戦国時代のビーズの成分で、アルミナ(Al2O3)の存在は石英(砂)に含まれている不純物の長石でと考えることは出来る。それならば、K2OCaO、そして分析値が少ないがNa2Oの存在は、白鉛鉱・毒重石の鉱石に含まれる不純物であることになる。 

私には化学屋で重晶石(BaSO4)にも詳しい、歴史好きの友人がいる。その友人から、「古代は綺麗な結晶を使用していただろうから、不純物は少なかったと思われる」とのアドバイスを受けた。そう考えると、K2OCaONa2Oは、白鉛鉱・毒重石の鉱石に含まれる不純物ではなく、原料に含まれる成分として必然的に入って来たと考えられる。中国で戦国時代に鉛バリウムガラスのビーズが作られた時、石英が使われたのではなく、ガラスの性質を持つ黒曜石が使われたとの結論に達した。黒曜石と白鉛鉱・毒重石の組み合わせで、戦国時代の鉛バリウムガラスの組成成が出来る。なお、黒曜石の組成は一例であり、産地によって変わってくる。       
                             SiO2   Al2O   CaO    MgO    K2O    Na2O   PbO   BaO
        ①黒曜石       76%   13 %   0.73% 0.15%  4.45% 4.18%
        ②白鉛鉱・毒重石                       23%   12%
        ①
x0.65+              50%  8.63% 0.47%  0.10%  2.89% 2.17%  23%   12%
        戦国鉛バリウムB  49% 7.42% 1.68%  0.29%  1.21% 2.99%  24%   12%

28-4.前漢の鉛バリウムガラスを解く [28.中国・韓国の古代ガラス]

G35 鉛バリウムガラス.jpg前漢時代の鉛バリウムガラスのように、大きな容器や装飾品を製作するためには、ガラスはビーズの製作の時より、より低温で融けなければならない。そのために、アルミナ(Al2O3)成分を減ずるための技術の飛躍がなされたのであろう。戦国時代の湖南省長沙の璧の成分が、前漢時代の容器や装飾品の成分の値に近いことからすると、技術の飛躍は長沙でなされたのかもしれない。 

G36 江蘇省ガラス杯.jpg表35の成分表で、
Al2O3SiO2の比率を見ると、戦国時代の鉛バリウムガラスでは0.15であり、黒曜石の0.17に近い。しかし、前漢時代の鉛バリウムガラスでは0.02であり、黒曜石は使われていないことが分かる。前漢時代になって、大型のガラスが製作されるようになると、黒曜石が使われなくなったと考えられる。しかし、表35で見られるように、Na2Oが使用されている。このNa2Oは何を原料として入れられたのであろうか。 

古代オリエントでガラスの起源となるソーダ石灰ガラスが始めて作られた時、ソーダ成分は砂漠地帯の植物灰からであった。そして、その後エジプト産出の天然ソーダ・ナトロンが使用されるようになった。植物灰とナトロンの違いは、
Na2Oに対する(MgOK2O)の比率で見分けることが出来る。植物灰を使用したガラスでは、(MgOK2O)/Na2Oの値は0.31で、ナトロンを使用したガラスでは0.075である。 

前漢時代の鉛バリウムガラスに含まれる、
Na2Oに対する(MgOK2O)の比率を見ると、0.082であり、ナトロンが使用されていたことが分かる。ナトロンとは天然の炭酸ナトリウム(ソーダ:Na2CO3)のことで、中国でも青海・新疆・チベット・内蒙古などの塩湖のある乾燥地帯で産出する。 

前漢時代の鉛バリウムガラスの組成は下記の通りである。
                                           SiOAl2O3    CaO     MgO    K2O   Na2O   PbO   BaO
     前漢鉛バリウムG   37%  0.85%  0.48%  0.09% 0.17% 3.17%  40%  16%
前漢時代の鉛バリウムガラスは、石英とナトロン、そして白鉛鉱・毒重石で製作されたと考える。石英(SiO2には砂が使用され、石英砂には2%程度の長石(Al2O3)が混じっていたのであろう。古代オリエントのナトロンを使用したソーダ石灰ガラスには、ガラスの品質を向上させるためにCaOが添加され、Na2Oに対するCaOの比率、CaO/Na2Oの値は0.43である。前漢時代の鉛バリウムガラスの値は0.15と低い。CaOMgOK2Oと同様ナトロンに混じっていたものであろう。 

G16に見られるように、前漢時代の中国にはソーダ石灰ガラスの分布が見られない。しかしながら、前漢時代の中国の鉛バリウムガラスには、ソーダ石灰ガラスの原料となるナトロンが使用されていた。このことは、日本の古代ガラスの解明に、重要な意味を持つと考えられる。

28-5.韓国の古代鉛系ガラス [28.中国・韓国の古代ガラス]

題目は朝鮮半島の古代ガラスとするべき所であるが、北朝鮮側の情報がなく、韓国国内について、原三国時代までについて述べてみる。原三国時代とは、紀元前108年に楽浪郡が置かれてから、新羅・百済が国を興す4世紀中頃までを言う。なお、三国時代の新羅の古墳からは、西アジアから輸入されたと考えられている素晴らしいガラス容器が出土しているが、これらについては、日本出土の西アジア伝来のガラス容器の所で述べる事にする。

韓国古代ガラスの組成成分は、鉛バリウムガラス、鉛ガラス、カリガラス、ソーダガラスの大きく四つのグループに分類することが出来る。これら4種類のガラスが原三国時代から発見されている。鉛バリウムガラス・鉛ガラスを鉛系ガラス、カリガラス・ソーダガラスをアルカリガラスとしてまとめてみた。
 

韓国内の最古のガラスは忠清南道扶余郡の合松里遺跡から出土した、8点の鉛バリウムガラスの青色管玉である。この管玉は不透明・半透明で径5~6㎜、長さ10㎜程度である。合松里遺跡からはガラス管玉の他に、銅剣・銅戈・多鈕細文鏡・銅鐸と鋳造鉄斧・鉄鑿が出土している。韓国式銅剣文化と初期鉄器文化ということから、紀元前2世紀初め(或いは前半)とされている。忠清南道地域では、合松里遺跡の他にも、唐津郡素素里・公州郡鳳岩里などでガラス管玉と青銅器・鋳造鉄器が伴って出土している。また、鉛バリウムガラスは全羅南道海南郡郡谷里、慶尚南道義昌郡茶戸里・晋陽郡大坪里で出土したガラス玉でも確認されている。
 

韓国(合松里・郡谷里・茶戸里)の鉛バリウムガラス4点の組成と中国の前漢時代の鉛バリウムガラスと比較して見た。両者のガラス成分と比較すると、若干の違いはあるものの韓国出土の鉛バリウムガラスは、中国の前漢時代のガラス組成であることが分かる。
                     SiO2    Al2O3     CaO    MgO     K2O    Na2O    PbO   BaO
    韓国鉛バリウムG 48%   0.78%  1.43%  0.31%  0.28%  3.75%   34%   9.4%
    前漢鉛バリウムG  37%   0.85%  0.48%  0.09%  0.17%  3.17%   40%  16% 

近年、全羅北道完州郡の葛洞遺跡(紀元前3~2世紀)から外径4㎝・幅1㎝・厚み3㎜の環形のガラス製品2点が発見され、いずれも鉛バリウムガラスであった。韓国の鉛バリウムガラスは紀元前3世紀頃から紀元後3世紀まで、中国の前漢・後漢・三国時代の間続いたということになる。
 

韓国の鉛ガラスとしては、紀元前1世紀から紀元後2世紀頃のものとして、全羅南道海南郡郡谷里から出土した緑色環玉が知られている。このガラス成分は
SiO2 26%PbO 72%であり、両者を合わせると98%となり、他の成分が非常に少ないガラスである。この高鉛ガラスは4~5世紀ころに再び出現した後衰え、その後統一新羅時代(7世紀中頃)に広く普及した。 

中国においては、鉛が60~75%程度の高鉛ガラスは、前2世紀頃の前漢時代に出現し、後漢時代にはそれまでの鉛バリウムガラスが衰退して鉛ガラスが栄えたが、その後3世紀後半ころに一時途絶え、隋代の6世紀末に復活して大量に流通した。「随書」何注稠伝の「緑瓷をもって久しく絶えていた中国ガラスを復活させた」という記載は、高鉛ガラス事を言っている。韓国の高鉛ガラスの栄枯盛衰は、中国のそれと同じである。

28-6.韓国の古代アルカリガラス [28.中国・韓国の古代ガラス]

中国から入って来た鉛バリウムガラスで始まる韓国古代のガラスは、続いて紀元1世紀頃には、カリウムガラスとソーダガラスのガラス玉が登場する。カリウムガラス玉が出現するのは、紀元前1世紀ころで大邱市八達洞、慶尚南道義昌郡茶戸里から、紀元後1世紀ころには昌原市三東洞、慶州市朝陽洞、済州市龍潭洞から、4~5世紀になると晋州地域、昌原市道渓洞、釜山広域市老甫洞、慶山市林堂洞など、中南部で広域に分布している。 

慶州市朝陽洞出土のカリガラス製小玉・管玉の成分分析と、中国のカリガラスの値を比較してみた。両者の組成がほぼ一致することが分かる。前漢時代には中国のカリガラスは、広西省と広東省の沿岸部で発達している。韓国のカリガラスの始まりは前漢の終わり頃であり、この頃広西省と広東省の沿岸部と、どのような交流があったか興味がそそられる。
                                               SiO2   Na2O   K2O   CaO   MgO   Al2O3
     韓国カリガラス 
    74%   1.0%    14%   2.6%   0.4%   3.0%
    中国カリガラス
       76%    0.4%    14%   1.8%   0.6%   3.6% 

韓国のソーダガラスの初例は、全羅南道海南郡郡谷里貝塚出土の草緑色管玉で、原三国時代の紀元1世紀に属する層から出土している。これ以後、2・3世紀から三国時代にかけて作られた大部分のガラス玉はソーダガラスであった。金海市良洞里、慶尚南道陜川郡玉田、昌原市道渓洞、釜山広域市老甫洞、慶山市林堂洞から出土している。 

韓国のソーダガラスには、Al2O3の含有量が多くCaOの含有量は少ないタイプと、Al2O3は少なくCaOが多いタイプの2種類がある。ソーダガラスは(K2O+MgO)Na2Oの値で、原料にナトロン(天然Na2CO3)を使用したか、それとも植物灰を使用したかが分かるが、詳細な分析データを知らないので判断出来ない。中国には前漢時代以降ソーダガラスが普及していないことを考えれば、韓国のソーダガラスは注目に値する。

29-1.東北・関東の縄文ガラス [29.ガラスを透して古代を見る]

日本列島にガラス製品がいつ入って来たか。縄文時代にガラスが大陸から流入していたかと言う問題は、まだその資料数が少なく明確にされていないようだ。その4点の資料、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡、青森県八戸市の是川中居遺跡、埼玉県岩槻市の真福寺貝塚、山口県下関市の御堂遺跡を追いかけてみた。 
G37 遮光器土偶.jpg
遮光器土偶で有名な青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡において、縄文晩期の大洞A
式土器を主体として含む包含層から、径4㎜、孔径1㎜、幅2.8㎜の淡い水色のガラス小玉1点が出土している。材質については化学分析がなされ、アルカリ石灰ガラスとされている。 歴博の炭素14較正年代からすると、大洞A式土器は東日本の縄文晩期のBC550~400年にあたり、西日本では弥生前期後半の時期である。ガラスが舶載されたものと考えられ、亀ヶ岡遺跡のガラス小玉は弥生前期後半のガラスとして、取り扱つかわれている。 

赤い漆塗りの木製品が多量に出土したことで有名な青森県八戸市の是川中居遺跡からガラス製の密柑玉1・丸玉1・小玉6が出土している。
是川中居遺跡からは遮光器土偶が出土し、亀ヶ岡遺跡と同じ時代の縄文晩期遺跡である。また、同遺跡からは西日本の弥生時代前期に出土する遠賀川式土器が多量に出土している。東日本の縄文晩期が西日本の弥生前期という、歴博の年代観を証明する遺跡でもある。 

是川中居遺跡の密柑玉と丸玉には黄色の横縞が見られる雁木玉(トンボ玉の一種)、小玉は白色・琥珀色・水色・深緑色と色々あり、ガラス製品としては時代が新しく、後世の混入でないかと疑われている。それは、これらガラス製品が表面採取されたものであることに起因している。是川中居遺跡から直線距離で20㎞も離れていない、岩手県軽米町の大日向Ⅱ遺跡からはガラス小玉が出土し、遠賀川土器と共伴していることから弥生前期のガラスとされている。是川遺跡のガラス玉も弥生時代に舶載されたガラス製品ではないかと考える。
 

埼玉県岩槻市真福寺貝塚から、昭和3年にガラス小玉が表面採取されている。真福寺貝塚は国史跡に指定された関東地方の縄文後期から縄文晩期にかけての遺跡である。そのガラス小玉については、「全体麗しい青緑色を呈し、白色波状線の象嵌を有する所謂雁木玉である。現存部は高さ0
.8㎜の小玉の半片」、「若し之が石器時代住民の遺物であったなら、この微細な破片こそ、当時の文化、交通、及び年代を考察する上に、最も重要なる鍵といわねばならない。然し、その発見位置が貝塚表面であると云うことが、此品の考古学的価値を甚だしく減少せしめる。」「肯定、非定共に根拠薄弱なる今日にあっては、暫く疑問の品として将来の発見、及びこの玉自身の有する科学的成分の結果を待つことにしたい」と報告されている。真福寺貝塚からガラス小玉が発見されてから85年経つが、この問題は進展していない。

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