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29-1.東北・関東の縄文ガラス [29.ガラスを透して古代を見る]

日本列島にガラス製品がいつ入って来たか。縄文時代にガラスが大陸から流入していたかと言う問題は、まだその資料数が少なく明確にされていないようだ。その4点の資料、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡、青森県八戸市の是川中居遺跡、埼玉県岩槻市の真福寺貝塚、山口県下関市の御堂遺跡を追いかけてみた。 
G37 遮光器土偶.jpg
遮光器土偶で有名な青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡において、縄文晩期の大洞A
式土器を主体として含む包含層から、径4㎜、孔径1㎜、幅2.8㎜の淡い水色のガラス小玉1点が出土している。材質については化学分析がなされ、アルカリ石灰ガラスとされている。 歴博の炭素14較正年代からすると、大洞A式土器は東日本の縄文晩期のBC550~400年にあたり、西日本では弥生前期後半の時期である。ガラスが舶載されたものと考えられ、亀ヶ岡遺跡のガラス小玉は弥生前期後半のガラスとして、取り扱つかわれている。 

赤い漆塗りの木製品が多量に出土したことで有名な青森県八戸市の是川中居遺跡からガラス製の密柑玉1・丸玉1・小玉6が出土している。
是川中居遺跡からは遮光器土偶が出土し、亀ヶ岡遺跡と同じ時代の縄文晩期遺跡である。また、同遺跡からは西日本の弥生時代前期に出土する遠賀川式土器が多量に出土している。東日本の縄文晩期が西日本の弥生前期という、歴博の年代観を証明する遺跡でもある。 

是川中居遺跡の密柑玉と丸玉には黄色の横縞が見られる雁木玉(トンボ玉の一種)、小玉は白色・琥珀色・水色・深緑色と色々あり、ガラス製品としては時代が新しく、後世の混入でないかと疑われている。それは、これらガラス製品が表面採取されたものであることに起因している。是川中居遺跡から直線距離で20㎞も離れていない、岩手県軽米町の大日向Ⅱ遺跡からはガラス小玉が出土し、遠賀川土器と共伴していることから弥生前期のガラスとされている。是川遺跡のガラス玉も弥生時代に舶載されたガラス製品ではないかと考える。
 

埼玉県岩槻市真福寺貝塚から、昭和3年にガラス小玉が表面採取されている。真福寺貝塚は国史跡に指定された関東地方の縄文後期から縄文晩期にかけての遺跡である。そのガラス小玉については、「全体麗しい青緑色を呈し、白色波状線の象嵌を有する所謂雁木玉である。現存部は高さ0
.8㎜の小玉の半片」、「若し之が石器時代住民の遺物であったなら、この微細な破片こそ、当時の文化、交通、及び年代を考察する上に、最も重要なる鍵といわねばならない。然し、その発見位置が貝塚表面であると云うことが、此品の考古学的価値を甚だしく減少せしめる。」「肯定、非定共に根拠薄弱なる今日にあっては、暫く疑問の品として将来の発見、及びこの玉自身の有する科学的成分の結果を待つことにしたい」と報告されている。真福寺貝塚からガラス小玉が発見されてから85年経つが、この問題は進展していない。
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