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52-3.継体天皇崩御の年を解く [52.雄略天皇から継体天皇までの編年を解く]

『日本書紀』は継体天皇の崩御の年について、継体紀には「継体25年2月7日に、継体天皇が磐余の玉穂宮で崩御された」とある。書紀の編年に従えば、継体25年は辛亥の年で531年にあたる。一方、安閑紀には「継体25年春2月7日に、継体天皇は安閑天皇を即位させられた。その日に天皇は崩御された。」とあり、安閑天皇の即位は継体天皇が崩御された531年になる。一方、「元年春一月都を倭の国の勾の金橋に遷した。・・・この年、大歳甲寅」とある。『日本書紀』においては、「大歳」は天皇が即位した年の最後に記載している。「安閑元年」とあるから、安閑天皇が即位した年であり、甲寅の年は534年となる。安閑天皇の即位は531年と534年の二つが記載され、3年間の矛盾がある。

『日本書紀』の継体紀の最後には「――ある本によると、天皇は28年甲寅の年に崩御している。それを25年辛亥の年に崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたからである。その文には『辛亥の年3月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。』とある。辛亥の年は25年にあたる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。」との記載がある。ある本の通り、「継体
28年2月7日に、継体天皇は安閑天皇を即位させられた。その日に天皇は崩御された」とすると、継体天皇の崩御・安閑天皇の即位は甲寅の年で534年となり3年間の矛盾は起こらない。

『百済本記』の「辛亥の年3月、この月高麗はその王、安を弑した。」とある。『三国史記』高句麗伝によると、531年(辛亥)に興安王(安臧王)が亡くなっており、『百済本記』は干支・内容が正確であることが分る。一方、『日本書紀』によると、安閑2年12月17日に安閑天皇が崩御されている。継体天皇の崩御・安閑天皇の即位は534年とすると、安閑天皇の崩御は535年である。『百済本記』の「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。」の内容は合っていることが分る。『百済本記』が「辛亥の年3月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また聞くところによると、
この頃日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。」と、「是頃」の二文字さえあれば、『日本書紀』の述作者も早とちりすることがなかったのであろう。『日本書紀』の述作者とっては、『百済本記』は編年のバイブルであり、疑問を正すことが出来なかったのであろう。

Z-62.継体天皇年表.png

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元の「縮900年表」では、継体天皇崩御は531年で、2年間の空位の後に安閑天皇が534年に即位したことになっていた。新「縮900年表」(表Z61)は、継体天皇は28年甲寅(534年)の年に崩御、安閑天皇も同年に即位したと編年し、空位の2年間は無くなった。元の「縮900年表」より、継体紀は3年間延長されたが、その3年間は、525年に都を山城国乙訓に遷した、529年に都を大和の磐余に遷したと、両者の間に3年間あること(元の「縮900年表」では無し)で吸収している。表Z62に継体紀の年表を示した。そして末尾に、改めて「縮900年表」全体を掲示する。

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年表最終版1.png年表最終版2.png年表最終版3.png年表最終版4.png年表最終版5.png年表最終版6.png年表最終版7.png年表最終版8.png年表最終版9.png年表最終版10.png


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