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52-4 継体天皇の陵墓と筑紫国造磐井の墳墓 [52.雄略天皇から継体天皇までの編年を解く]

Z-63.新池遺跡前景.png

『日本書紀』は継体天皇を藍野陵に葬ったとある。宮内庁は継体天皇の藍野陵を大阪府茨木市(摂津国三島郡藍野)にある太田茶臼山古墳に比定している。太田茶臼山古墳は墳長が20位にランクされる227mの前方後円墳である。その築造年代を知る手掛かりは、陵墓から出土した埴輪でしかない。太田茶臼山古墳の埴輪は、その形状・整形の刷毛目・胎土分析・ベンガラの塗り具合から、陵墓の東北1kmにある、新池埴輪生産遺跡のA期の埴輪と一致することが明らかにされている。A期の埴輪生産遺構としては3基の窯と工房・集落が見つかっており、出土した円筒埴輪は型式Ⅳ期(400~479年)で、須恵器は型式ON46(400~459年)である。これらより太田茶臼山古墳の埴輪の製作年代は、継体天皇の即位514年よりも半世紀以上前であり、太田茶臼山古墳は継体天皇陵ではないと判断できる。

大阪府高槻市にある今城塚古墳が継体天皇の陵墓だと、多くの考古学者が比定している。今城塚古墳は墳長が190mで42位にランクされる規模の前方後円墳である。今城塚古墳から出土する須恵器の多くはTK10型式である。TK10の編年は520~539年であり、継体天皇の崩御534年との整合性はとれ、今城塚古墳は継体天皇の陵墓と言える。

Z-64.新池ヘラ記号「舟」.png今城塚古墳の埴輪は西北西800mにある、新池埴輪生産遺跡のC期の窯で製作されたものであることが分っている。それは両者の円筒埴輪の型式がⅤ期(470年~)で、埴輪の形状や整形の刷毛目が同じであるだけでなく、「舟」のヘラ記号を書いた円筒埴輪が、今城塚古墳と新池遺跡のC期の遺構の双方から出土しているからである「舟」のヘラ記号のある円筒埴輪の一つは、C期の窯の近くの1号井戸の井筒に使用されていたが、その井戸からはMT15(500~519年)の須恵器が出土している。継体天皇の即位は514年、崩御は534年であり、陵墓は生前から造営していた寿陵であったと言える。

『日本書紀』は継体21年6月に、近江の毛野臣が兵6万を率いて任那に行こうとしたとき、筑紫国造磐井が反乱を起こし、火国・豊国を抑え、毛野臣の任那への派遣を遮った。翌年11月に大将軍・物部麁鹿は、筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で磐井を斬り、反乱は鎮圧された。筑紫君葛子は父(磐井)の罪に連座して誅されるのを恐れ、糟屋の屯倉を献上して、死罪を免れることを請うたとしている。

筑後国風土記に、「上妻県の南二里に筑紫磐井の墓墳がある。・・・石人・石盾が六十枚ずつ交互に、列をなして四面をめぐっている。東北の一隅に別区があって衙頭という。その中には一人の石人があり・・・古老はこう伝えている。雄大迹
(継体)天皇の世に、筑紫磐井は強くまた暴虐で、天皇の命に従わなかった。この墓は彼が生前に造営したものであった。・・・官軍は磐井を追ってこの墓所に来たが、兵士たちは怒りのあまり石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち落としたという。・・・」とある。

Z-65.岩戸山古墳.png福岡県八女市にある岩戸山古墳が筑紫磐井の墳墓とされている岩戸山古墳は墳長125mの前方後円墳であるが、古墳からTK10型式の須恵器が出土しており、その築造年代は520~539年と考えられる。磐井が反乱を起こした継体21年は「縮900年表」では530年になる。反乱の翌年亡くなった筑紫磐井が、生前に造っていた墳墓が岩戸山古墳として齟齬はない。古墳の東北の空濠の外側には、風土記に「衙頭」と記されている一辺40mの方形の区画があって、そこから石人・石馬などの石製品が出土しているが、いずれも首や足が取れており、風土記に記してあるように、官軍が壊したものかも知れない。阿蘇の凝灰岩で製作された石人・石馬を飾った古墳は福岡県南部・熊本県北部・大分県東部に集中するが、それは磐井が抑えた筑紫国・火国・豊国と一致している。

Z-66.今城塚古墳祭祀埴輪.png継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳、筑紫磐井の墳墓とする岩戸山古墳の築造年代は、520~539年(TK10型式)と同じである。今城塚古墳の二重の濠を区分する内堤からは、東西約60m南北約6mの埴輪祭祀区があり、家形・器財・人物・動物の埴輪113点以上が出土している。一方、岩戸山古墳の空濠の外側にある一辺40mの方形の別区には、器財・人物・動物の石製品が多数出土している。今城塚古墳と岩戸山古墳の祭祀の製品は、埴輪と石製品との違いがあるが、いわゆる造出しと違った場所に、祭祀の区画を設けている点では同じである。

筑紫磐井は近江毛野臣に「昔はおれの同輩で肩肘触れ合わせ、同じ釜の飯を食った仲」と言っている。埼玉県の稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣には、「オワケ」なる人物が官人として雄略天皇に宮中で仕えていたと刻まれているが、筑紫の国造であった磐井は、官人として継体天皇に宮中で仕えていた時期があったのではないかと想像する。そのとき継体天皇が寿陵として造営していた今城塚古墳の様相を見聞きし、筑紫磐井はそれを参考して、生前から墳墓を造営したと考える。倭国の盟主国であった奴国の国王を先祖に持つ筑紫磐井にとっては、応神天皇の五世孫として越前の国から天皇に迎えられた継体天皇を妬み、自分も筑紫(北部九州)の王とならんと考え、乱を起こしたのではないだろうか。


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