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5-2.国・国造と県・県主 [5.伊都国の謎を解く]

景行天皇の巡幸で立寄った所は「県」が多い。長狭県、子湯県、熊県、高来県、八女県である。そして、豊前国の長狭県、日向国の子湯県とあるように、県は国の中に存在している。私は女王卑弥呼を共立した倭国の国々は、出雲・吉備以西の中国・九州の国造であるとした。大和王権が建国以来、地方をどのような方法でもって支配したかを明確にすることにより、魏志倭人伝に書かれた伊都国が、定説の糸島平野にあったとする伊都国でなく、末盧国と比定された唐津から東南の方向にある吉野ヶ里遺跡であることを証明したい。 

神武天皇が橿原の地に建国した翌年、論功行賞が行われ「国造」「県主」という言葉が出て来る。また垂仁天皇の時代に「屯倉」があり、景行天皇の世では「諸国に令して田部と屯倉を設けた」とある。そして成務天皇の時代には「国郡には造長を立て、県邑に稲置をおき、それぞれ盾矛を賜って印とした」と書かれている。国に国造、県に県主、屯倉に田部、これらが国を治める組織であった。 

これら組織のそれぞれの役割は、江戸時代の大名・旗本・御家人と比較するとわかりやすい。大名は江戸幕府の支配下にあり、軍役を負担するがそれぞれ独立した領地と組織を持っていた。それを藩あるいは、国といったりしている。大名が幕府の意にそわないと改易(領地没収)・天封(国替え)が行われた。大名には、徳川氏一族の親藩、徳川一門の譜代、そして関ヶ原の合戦以後徳川の配下に入った外様大名がある。外様大名の中には、戦国時代以前からその国を支配して来た大名もいる。 旗本は江戸幕府の将軍直属の家臣である直参で、一万石未満の禄高であるが、直接将軍に謁見する資格を持つ。俸禄には領地が与えられる知行取りと、米を支給される蔵米取りがあった。旗本は江戸に住み幕府の統制を受けていた。御家人は旗本と同じく直参で、直接将軍に謁見する資格のないものをいう。御家人の最高禄高は260石であった。これらの俸禄は将軍の直轄領・天領から収納された蔵米から賄われた。 

私は国造・県主・田部を次のように解釈する。国造は大和王権の支配下にあり、軍役を負担するが、それぞれ独立した領地を持つ国の長である。国造は江戸時代の大名にあたり、親藩・譜代にあたる大和王権設立以前から、同盟を結んでいた国造もいたであろうし、また外様大名のように、大和王権設立以後その支配下に入った国造もいたであろう。国造が大和王権に背くとその領地は没収され、王権の直轄領・屯倉になったり、分割して王権の家臣に与え、新たな国造に任命したりしている。 国造はその領地の一部を大和王権に差し出さねばならなかった。それを県と称し、その長が県主であった。県主は天皇直属の家臣で、国造より大和王権に割譲された土地()を与えられた。県から取れる米や特産物の一部を天皇に収める義務を持つと共に、国造を監視する役目を持っていたと思われる。県主は江戸時代でいうと旗本であろう。田部は朝廷の直轄領・屯倉を管理・運営する人であろう。田部は俸禄を貰うだけで領地を与えられることはない。田部は江戸時代でいう御家人にあたる。 

大和王権が諸国を統一し中央集権国家を作った組織が、国と国造、県と県主、屯倉と田部であったことが分かって頂けたと思う。こう考えると、景行天皇の巡幸に際し、県や県主が良く出て来る事が理解出来る。 
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