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5-3.筑紫の伊都の県主 [5.伊都国の謎を解く]

 魏志倭人伝に出て来る伊都国が、糸島平野に比定する事を研究者の誰も疑わなかったのは、糸島平野には三雲遺跡・井原鑓溝遺跡・平原遺跡の遺跡があるばかりでなく、この地域が奈良時代から「怡土・イト」と呼ばれていたことも大きく影響していると思われる。糸島平野がいつ頃から「伊都・怡土」と呼ばれるようになったのだろうか、日本書紀仲哀8年の記事に、筑紫の伊都県主の先祖の五十迹手(いとて)が船で天皇をお迎えに行き、「天皇は五十迹手を褒められて『伊蘇志』とおっしゃつた。時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇国といった。いま伊都というのはなまったものである」とある。この伊都が糸島平野の伊都である事に間違いはあるまい。 

「筑紫の伊都県主の先祖の五十迹手」の文章から、五十迹手も伊都県主であると考える。前節で書いたように、県主の領地は、国造より大和王権に割譲された土地()である。「筑紫の伊都県主」とあるように、伊都県主の領地は、もともと筑紫国、元の奴国の領地であった。邪馬台国が東遷し大和に国を建国したとき、奴国は国造として生き残り、糸島平野の領域を県として大和王権に差し出した。大和王権は、王権設立に最大の役割を果たした伊都国王(吉野ヶ里)の一族に、県を与え伊都県主を任じ論功行賞に報いると同時に、九州最大の筑紫の国造の監視を頼んだと考える。吉野ヶ里遺跡から背振山地の三瀬峠・糸島峠を越えると糸島平野に出る。糸島平野には前方後円墳が多数あるのも納得出来る。
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