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67-19.ウワナベ古墳は皇后八田皇女の陵墓 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

Z324.佐紀古墳群東部.png佐紀古墳群の東端にウワナベ古墳(墳長270m)があり、その隣
にコナベ古墳(204m)、そしてヒシアゲ古墳(219m)とカタ
カナ名の大型前方後円墳が並んでいる。宮内庁は、ウワナベ古墳を
仁徳天皇皇后の八田皇女の宇和奈辺陵墓参考地とし、コナベ古墳を
仁徳天皇皇后の磐之媛命の小奈辺陵墓参考地としている。そして、
ヒシアゲ古墳を仁徳天皇皇后磐之媛命の平城坂上陵に治定している。

 

「縮900年表」によると381年、仁徳天皇は即位し、翌年葛城
襲津彦の娘の磐之姫命を皇后に迎えている。398年、仁徳天皇は
八田皇女を妃に迎えたいと皇后に語るが、皇后は承知しなかった。
翌年、磐之姫は留守の間に天皇が八田皇女を妃としていたことに嫉妬し、山城の筒城宮に別居した。八田皇女は仁徳天皇に皇位を譲り自殺した異母弟の莬道稚郎子の妹である。404年、磐之姫命が筒城宮で亡くなり、翌々年奈良山に葬った。407年、八田皇女を皇后とされている。431年、仁徳天皇は崩御している。

 

ウワナベ・コナベの名前の由来には、「うわなり・こなみ」説がある。一夫多妻のころの制度で、先に結婚した妻、前妻または本妻を“こなみ”と呼び、後妻を“うわなり”と呼んでいる。古事記にも、神武記の歌謡に「宇波那理」と出てくる。宮内庁が、ウワナベ古墳を仁徳天皇の皇后八田皇女の御陵としているのは、古墳の名称が“うわなり”に通じるためであろうか。そして、仁徳天皇皇后の磐之媛命の平城坂上陵をヒシアゲ古墳に治定しているにも関わらず、コナベ古墳を磐之媛命の陵墓参考地としているのは、“コナベ”が“こなみ”に通じるからであろうか。コナベ古墳から出土した円筒埴輪の型式はⅢ式(340〜379年)であり、磐之姫命の陵としては年代が合わない。ちなみに、ヒシアゲ古墳の年代は埴輪Ⅳ式(380〜469年)と草摺形埴輪(280〜459年)から380〜459年となり、皇后が奈良山に葬られた406年の範疇には入っている。

 

『書紀』は八田皇女がいつ亡くなったか、何処に葬ったかは記載していない。380年に、仁徳天皇は莬道稚郎子に妹の八田皇女を奉りたいと申し入れていることからすると、当時八田皇女は少なくとも10歳以上であったと考える。仁徳天皇の在位は51年と長く、八田皇女は仁徳天皇の在位中に亡くなったと思われる。八田皇女が陵墓に葬られたのは407〜431年位であろう。ウワナベ古墳の造出からTK216型式の須恵器が出土しており、ウワナベ古墳の築造年代は410〜429年となる。ウワナベ古墳の築造年代は、八田皇女の陵墓としてぴったり合っている。

 

ウワナベ古墳の陪塚である大和6号墳(径約30mの円墳)からは、872枚の鉄鋌が出土している。このことをもって、ウワナベ古墳の被葬者は男性であると主張する学者もいる。宮内庁は大和6号墳から出土した鉄鋌のうち大型の274点を詳細に調査している。そのうち94点については、複数の鉄材を接合して作られたものであることが分かった。これらより、国内で鉄のかけらなどから鉄鋌の形状に仕上げた可能性が高いと言われている。 宮内庁は「副葬品として被葬者の埋葬に間に合わせるために急造されたものと考えられる」としている。

 

古墳において、墳丘規模や埴輪は現世に誇示する威信財であり、石槨・石室・棺に副葬されている威信財は、黄泉の世界で誇示するための品々であろう。『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。」とある。大和6号墳の872枚の鉄鋌は、仁徳天皇が、皇后の八田皇女が黄泉の国で使う貨幣として、造らせたものであろう。


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67-20.磐余彦尊の名と磐余の地名はどちらが先か [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

初代の天皇は神武天皇であるが、「神武」の漢風諡号は淡海三船が奈良時代の天平宝字2〜4年(762〜764年)に選定したとされている。『日本書紀』は「神日本磐余彦尊」、『古事記』は「神倭伊波礼毘古命」と記して、どちらも「かむやまといわれびこのみこと」と読み、神代に出てくる幼名も同じである。しかし、『書紀』神代下の最後の「一書第一」に、「狭野尊、または神日本磐余彦尊という。狭野というのは年小の時の名で、後に天下を平らげて八州を治められた。それでまた名を加えて、神日本磐余彦尊というのである。」とあり、『書紀』神武元年の記事には、「始馭天下之天皇と申し、名付けて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。」とある。神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命)は建国後に付けられた名であることが分かる。

 

Z325.磐余.png「神日本」は大和国を建国したことによるものであり、「彦火火出見」は諱(いみな:実名)と記載してあるが祖父の名である。「磐余」は何故付けられたのであろうか。「磐余」は奈良盆地の東南端にある古代からの地名で、その範囲は諸説あるがZ325に示すように、東は桜井市上之宮を流れる寺川、西は橿原市の天香具山を通る古道の中ツ道、北はJR桜井線の香具山駅を東西に通る古道の横大路、南は明日香村飛鳥と山田道の出会い、これらに囲まれた範囲の中にある。この磐余の地には、神功皇后の磐余若桜宮(349年)、履中天皇の磐余稚桜宮(432年)、清寧天皇の磐余甕栗宮(487年)、継体天皇の磐余玉穂宮(526年)、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(585年)などがあったと『書紀』は記している。なお、括弧内の年は「縮900年表」による宮の造営の年。

 

また、履中紀には「磐余池を作る」と記されてある。『万葉集』には「大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にて涙を流して作らす歌一首」と題し、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と、磐余池が読み込まれている。大津皇子が謀反の疑いで処刑されたのは686年のことであった。Z325に記した八つ手形の池は現存しないが、池之内町(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されいる。近年の発掘調査で池の遺構(東池尻・池之内遺跡)が出土している。

 

『書紀』神武紀の建国2年前の己未の年の記事に「磐余の地の名は、元は片居または片立であったが、皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に満(いわ)み居たことから、磐余とされた。またある人は、皇軍に滅ぼされた磯城の八十梟帥が屯聚(いわ)み居た[屯聚居、これを恰波瀰委(いはみい)という]から磐余邑と名付けたという。」とある。磐余の地名は、磐余彦尊の名前より先に存在していたと思える。狭野尊が何故、磐余彦尊になったのであろうか。


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