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67-21.メスリ山古墳は磐余彦尊の陵墓 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

『書紀』の天武紀にある壬申の乱(672年)の記述に、高市軍が金綱井に終結したとき、高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ御陵に馬と武器を奉納したとある。また、「三輪君高市麻呂が上道の守りに当たっていて、箸陵のほとりで戦った」ともある。箸墓を「箸陵」と表現しているところからすると、磐余彦天皇の陵は金綱井の近くにある前方後円墳と考えられる。金綱井は畝傍山の北、橿原市今井町付近と考えられているが、所在は未詳である。壬申の乱の大和の戦いで武勲を立て恩賞を賜った将軍大伴吹負の行動を、Z326を参照しながら辿ることにより、「金綱井」の地を探りたい。

 

Z326.神武天皇陵は何処.png

吹負は百済(広陵町百済)①にあった自分の家を出て、中道より飛鳥寺(明日香村)②に進み、寺の西で飛鳥古宮の守りに当たっていた敵の軍営に攻め込んでいる。そこで勝利を得た吹負は奈良に向って進軍した。その途中、稗田(大和郡山稗田)③に至った時、河内の方から近江の軍勢が沢山やって来るという情報を得て、軍を竜田(三郷町)と、大坂道(香芝町逢坂)と石手道(竹内峠)に向かわせ守らせた。近江軍は大津道と丹比道を通ってやって来た。吹負の軍は防戦出来ず、戦いに敗れ退却を余儀なくされた。そして将軍吹負は、ただ一人二人の騎馬兵と墨坂(榛原町)④にまで逃げていく。そこで菟の軍と出会い、金綱井まで引き返して散り散りになった兵士を集めた。

 

高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ御陵に馬と武器を奉納したのは、この時の事である。その後、近江軍が大坂道より来ると聞いて、吹負は軍を率いて西に向かい、当麻(当麻町)⑥で戦い、その後飛鳥の古宮の本営に帰っている。そこで伊勢街道から本隊がやって来たので、上道・中道・下道に軍を分け配置している。近江軍は中道からも上道からもやって来た。高市麻呂が箸陵のほとりで戦い大いに近江軍を破ったのは、この時のことである。その後、吹負は飛鳥の本営⑦に帰り、軍を構えたが近江軍は来なかった。 

 

金綱井は下道と横大路の交わった橿原市今井町付近と考えられているが、稗田で敗れ墨坂まで逃げた吹負が、散り散りになった兵士を集めるのに、この地は適切でない。兵士は中道からも上道からも逃げてくるであろうし、敵も追いかけてくるであろう。今井町付近では大坂道と下道から来る敵と中道や上道からの敵に対して挟まれてしまうし、敵の目標地の飛鳥の古宮が無防備になってしまう。私は「金綱井」は上道と横大路、そして伊勢街道の交わる桜井市金屋付近⑤であったと考えている。この地ならば、上道・中道・下道から逃げてくる兵士も集められ、背後は伊勢街道から墨坂通って本隊がやってくるため安全であり、飛鳥の古宮へは山田道が通じている。戦略上この上もない場所である。

 

Z327.メスリ山古墳.png金綱井に特定した桜井市金屋付近から、南に1.5キロメートル山に向かって進むと上の宮地区に至る。この地に全長224メートルの前方後円墳メスリ山古墳がある。この古墳は昭和34年に橿原考古学研究所により発掘調査が行われた。後円部の墳頂には、円筒埴輪列で囲まれた方形の区画があり、その地下に長さ8メートルにおよぶ竪穴主石室があった。円筒埴輪列(Z327)の106本の埴輪は直径50センチから1メートル、その高さは242センチで日本最大のものであり、この古墳が極めて荘厳なものであったかを物語っている。

 

石室はすでに盗掘にあっていて、玉杖を始めとする石製装飾品(石釧、車輪石、鍬形石、合子)と三角縁神獣鏡の銅鏡破片が残っていたのみであった。しかし、主石室の横に未盗掘の副石室があり、そこから他に類例のない長さ182センチの鉄製の弓と、長さ80センチの5本の鉄製矢、長さ115センチの刀1本、長さ18〜62センチの鉄槍先212本、銅鏃236本、石鏃50本などの武器や、多くの鉄製農工具(鋸・刀子・鑿・斧・鉇・鎌・針)が出土した。これらの出土品は、現在橿原考古学研究所付属博物館に展示されている。

 

メスリ山古墳の年代は円筒埴輪Ⅱ式(280〜339年)が指標となる。佐紀陵山古墳は後円部に円筒埴輪列で囲まれた方形区画を持ち、円筒埴輪の型式はⅡ式であった。そして、方形区画内には数個の器財埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪や家形埴輪)が飾られていた。それに対して、メスリ山古墳は方形区画の埴輪列は壮大であるが、器財埴輪は全くない。これらより、メスリ山古墳の年代は、円筒埴輪Ⅱ式でも佐紀陵山古墳(290年)より古い、280年頃と考えられる。高市県主許梅が神がかりして、「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ、馬と武器を奉納した御陵こそ、このメスリ山古墳と考える。磐余彦尊は「戦の神」として崇められており、メスリ山古墳から出土した武器がそれを示している。

 

「縮900年表」では、崇神天皇の即位について、「247年卑弥呼亡き後、磐余彦尊(神武天皇)は倭国連合の王となろうとしたが、大和国が強国となることを恐れた国々の反対にあった。磐余彦尊は祖父の彦火火出見尊にならい、壱与(崇神天皇)に王位を譲り、壱与が倭国王に共立された。磐余彦尊は大彦命として崇神天皇を支えた。」としている。大彦命は四道将軍として崇神11年(261年)まで活躍しており、その陵墓が造られたのが280年頃であっても齟齬はない。大彦命が亡くなり、磐余の地に陵墓が造られ葬られた。それで、大彦命は磐余彦尊と呼ばれるようになった。神日本磐余彦火火出見天皇は死後につけられた諡号と考えられる。


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67-22.桜井茶臼山古墳の築造年代は270年 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

初瀬川が奈良盆地に流れ込み大和川と名を改める桜井市外山、「磐余」の地の北東端の外れに桜井茶臼山古墳がある。桜井茶臼山古墳は墳長207m、後円径110m、前方幅61mの柄鏡形の前方後円墳で、後円部には主軸に沿って竪穴式石室があり、石室は全長6.8m、幅1.3m、高さ1.7m、天井石は12枚である。竪穴式石室の上には、南北約11.7m、東西約9.2m、高さ約1m未満の方形壇があり、方形壇上の周囲には二重口縁壺が置かれていた。また、方形壇は直径30cm程度の丸太垣約150本で囲まれていたようだ。

 

Z328-Z329.桜井茶臼山古墳.png

竪穴式石室は板状の安山岩を積み上げ、その石材は全面水銀朱が塗られており、水銀の使用量は200Kg程度と推定され、国内の古墳では最大である。石室は盗掘を受けていたが、コウヤマキの木棺が据えられており、副葬品は鏡・玉製品・石製品・武器・利器の断片のみがあった。鏡は三角縁神獣鏡26面を含む81面が確認されている。鏡片の中に「是」の文字があり、3次元レーザー計測の結果、群馬県高崎市の蟹沢古墳出土の「正始元年」銘の三角縁神獣鏡と同じ鋳型から造られていることが分かった。正始元年(240年)は邪馬台国の女王・卑弥呼のもとに魏の使者が訪れた年である。桜井茶臼山古墳から碧玉製の玉杖が4本分出土しており、それはメスリ山古墳出土の4本の碧玉製玉杖と同じ鉄芯で連結された構造である。石製装飾品では石釧・車輪石・鍬形石があり、武器では鉄剣・鉄鏃・銅鏃が出土している。桜井茶臼山古墳には副室が2ヶ所あることが分かっているが未発掘である。メスリ山古墳では副室から多くの副葬品が出土しており、桜井茶臼山古墳の副室の副葬品にも期待される。

 

桜井茶臼山古墳の特徴は、墳丘に飾られたものが特殊器台や埴輪ではなく、二重口縁壷である点である。二重口縁壷にも色々なタイプがあるが、茶臼山型と称される二重口縁壷は、口縁の屈曲部がラッパのように外側に開き、太く短い頸部を持ち、製作時から底部に孔をあけている特徴を持っており、これと同じものが箸墓古墳の前方部から出土している。明治大学名誉教授の大塚初重氏は「箸墓古墳の後円部の特殊器台と前方部の埴輪(二重口縁壷)には、考古学的な時間差がある。まず、後円部で埋葬時に吉備の土器が供献され、5年か10年後、前方部で埴輪を置き墓前祭のような葬送儀礼が行われていたのではないか。」と指摘している。大塚氏の指摘に従えば、箸墓古墳の築造年代を260年としたとき、前方部から出土した茶臼山型二重口縁壷は270年頃に供献されたものであることになる。

 

桜井茶臼山古墳は二重口縁壺(270〜369年)、石製装飾品(270〜379)から前期の古墳と判定できるが、築造年代決定の決め手がない。桜井茶臼山古墳から1.7km離れたメスリ山古墳と比較すると、墳形はどちらも柄鏡式、副葬品の種類はその数量を別にすると似かよっている。メスリ山古墳の築造年代は、埴輪Ⅱ式(280〜339年)と佐紀陵山古墳(290年)の方形壇の構成比較から280年と比定した。これを基準とすると、桜井茶臼山古墳の後円部にある方形壇を取り囲む構造(二重口縁壷列+丸太垣)が、メスリ山古墳の円筒埴輪列より古く考えられ、桜井茶臼山古墳の築造年代270年と比定することが出来る。


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