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67-17.室宮山古墳の被葬者は武内宿禰 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

武内宿禰は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕え、『書紀』の編年の通り計算すると年齢が265歳余りとなり、伝説上の人物とされている。一方、『新撰姓氏録』は平安時代に編纂された古代氏族名鑑であり、日本古代史の研究に欠かせない史料であるが、武内宿禰あるいはその息子を始祖と仰ぐ65氏族が掲載されており、実在の可能性も伺える。

 

『書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれて、武内宿禰に問われた。武内宿禰は『わが大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、倭の国では雁が産卵することは、私は聞いておりません。』と歌を返した。」とある。

 

この歌謡は万葉仮名で書かれており、天皇が詠まれた歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞で、「阿曾」が「朝臣」である。「朝臣」を「阿曾」と表記する例は万葉集に3首ある。「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、歌謡は伝承そのものであり、『書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は史実でなく、413年に武内宿禰が存命していたことにならない。

 

応神紀で武宿禰の名前が出てくる最後の記事は、応神9年(362年)の武宿禰に謀反の嫌疑がかけられた記事である。武宿禰を筑紫に遣わして百姓(人民)を監察させた。その時、武宿禰の弟の甘美宿禰が兄を廃しようとして、天皇に「武宿禰は常に天下望む野心があります。今筑紫において、『筑紫を割いて、三韓を招き、自分に従わせれば、天下が取れる』と密に謀っている」と讒言した。そこで天皇はただちに使いを遣わして、武宿禰を殺すことを命じた。その時、武内宿禰に容姿が似ていた壹伎直の祖の眞根子が身代わりとなって自決した。武宿禰は筑紫を脱出し、朝廷に参上して罪の無いことを弁明した。天皇は武宿禰と甘美宿禰とを対決させて問われたが、決着がつかなかった。天皇の勅命により、探湯が行われて武宿禰が勝った。武宿禰は甘美宿禰を殺そうとしたが、天皇の勅命で許され、紀伊直等の先祖に賜ったとある。武宿禰が362年には生存していたことは確かである。

 

神功51年に、百済の肖古王が久氐を遣わし朝貢した。皇太后は太子と宿禰に「わが親交する百済国は、珍しいものなど時をおかず献上してくる。自分はこの誠を見て、常に喜んで用いている。私の後々までも恩恵を加えるように」と仰せられたとある。肖古王の記事は干支2廻り遡らせて挿入しているから、神功51年の記事は371年(応神19年)の記事となる。この記事が史実かどうか疑わしい面もあるが、武宿禰が371年頃に生存していたのであろう。

 

武内宿禰の年齢を「縮900年表」に基づき計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、武内宿禰は371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。

 

Z322.室宮山古墳.png允恭5年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳(350〜379年)と考える。武内宿禰は371〜379年に葬られたと思われる。


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67-18.佐紀陵山古墳は皇后日葉酢媛命の陵墓 [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

奈良盆地の北端には標高100m程度の平城山(ならやま)丘陵が連なっている。その南山麓に佐紀古墳群がある。佐紀古墳群には墳長が200メートルを越える巨大前方後円墳が7基ある。その中で最も古い古墳であると見られているのが佐紀陵山古墳である。宮内庁は佐紀陵山古墳を垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定しているが、陵墓としては古墳の遺構・遺物の情報が非常に多い。それは大正年間に大掛かりな盗掘事件が発生し、出土遺物は回収され復旧工事が行われて、その時の調査・記録が残っていたためである。

 

佐紀陵山古墳は墳長207m、後円径131m、後方幅87mの前方後円墳である。佐紀古墳群の7基の巨大前方後円墳の中で、後円径に対する前方幅の割合(66%)が最も小さく、前方部の高さが後円部の高さより最も低い(-9m)、柄鏡形と言われる前期の前方後円墳である。後円部の中央にはひれ付を含む円筒埴輪で囲まれた方形壇(約16m四方)があり、その上に数個の蓋形埴輪・盾形埴輪や家形埴輪が立っており、中央の最高所にあった蓋(きぬがさ)形埴輪は高さ1.5m、横幅2mと非常に大きく、4個のヒレの部分には直弧文が描かれていた。円筒埴輪の型式はⅡ式である。

 

方形壇の地下には縄掛突起を持った5枚の天井石で覆われた竪穴式石室(長さ8.5mx幅1mx高さ1.5m)があり、天井石の上に屋根形石(長さ2.6mx幅1mx高さ0.5m)が置かれていた。天井石にある縄掛突起は長持形石棺などに付けられるものであり、屋根形石は家形石棺の蓋石と考えられ、石室内にあった石棺と推定されることもあるが、石棺直葬に通じる石棺を模した石室と考えられる。

 

石室は大正時代以前にも盗掘されていたようだが、出土遺物としては大型仿製鏡が三面、石製装飾品(車輪石3、鍬形石3、石釧1、琴柱形石2、合子1)、石製模造品(刀子3、斧1、高杯2、椅子1)があった。佐紀陵山古墳の築造年代は、 埴輪Ⅱ式(280〜339年)の年代であり、縄掛突起のある天井石は長持形石棺(290〜469)の年代と通じ、屋根形石の存在は石棺直葬(290〜)に通じており、これらから佐紀陵山古墳の築造年代は290〜339年の範囲にあると考えられる。


 

『書紀』垂仁32年の記事には、垂仁天皇の皇后日葉酢媛命が亡くなられたとき、野見宿禰が出雲国の土部百人をよんで、埴土で人や馬や色々の物の形を造って、日葉酢媛命の墓に立て殉死者の替りとした。この土物を名付けて埴輪といった。天皇は「今から後、陵墓には必ずこの土物を立てて、人を損なってはならぬ」と云われたとある。垂仁32年は「縮900年表」では291年になり、佐紀陵山古墳の築造年代(290〜339年)と整合性は取れており、佐紀陵山古墳を皇后日葉酢媛命の御陵で築造年代を290年と考える。

 

Z323.蓋形埴輪.png『書紀』は、「人や馬の形を造って」とあるが、人物埴輪・馬形埴輪の登場は古墳中期以降(380年〜)であり、形象埴輪を表現するための執筆者の潤色であろう。出現当初の器財埴輪は、墳頂部の円筒埴輪によって囲まれた方形区画の内側で、家形埴輪を取り囲むように配置されていた。佐紀陵山古墳では方形壇の最高所にあったのは巨大な蓋形埴輪であった。蓋形埴輪はその形状からして器財埴輪の象徴と言える。蓋形埴輪は埴輪Ⅰ式の時代に登場するが、京都府相楽郡山城町にある平尾城山古墳(280〜290年)1基のみである。古墳の築造年代は佐紀陵山古墳とほぼ同時期であり、日葉酢媛命の墓が蓋形埴輪の始まりと言っても過言ではないだろう。『書紀』が日葉酢媛命の墓が埴輪の始まりとしているのは、巨大な蓋形埴輪が人々の印象に残ったためであろう。

 

佐紀陵山古墳の後円部墳頂にある方形壇を取り囲んで立てられいるのがひれ付円筒埴輪である。ひれ付円筒埴輪は人垣を連想させ、殉死者の替りに埴輪を立てたとの伝承が生まれたのであろう。ひれ付円筒埴輪は埴輪Ⅱ式から登場することから、佐紀陵山古墳がその始まりといえる。垂仁28年(287年)の記事には、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなったとき、近習のものを集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋めたと殉死の話が載っている。奈良県北葛城郡広陵町にある新山古墳は、墳長137mの前方後円墳で、「大塚陵墓参考地」として宮内庁の管轄下にある。橿原考古学研究所は宮内庁の管轄外で、後方部端を画する溝を検出し、その外側に7基の円筒棺(埴輪Ⅰ式)を発見している。陵のめぐりに殉死者を埋める習俗があったのは史実であったのかも知れない。


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