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67-20.磐余彦尊の名と磐余の地名はどちらが先か [67.古墳時代は前方後円墳の時代]

初代の天皇は神武天皇であるが、「神武」の漢風諡号は淡海三船が奈良時代の天平宝字2〜4年(762〜764年)に選定したとされている。『日本書紀』は「神日本磐余彦尊」、『古事記』は「神倭伊波礼毘古命」と記して、どちらも「かむやまといわれびこのみこと」と読み、神代に出てくる幼名も同じである。しかし、『書紀』神代下の最後の「一書第一」に、「狭野尊、または神日本磐余彦尊という。狭野というのは年小の時の名で、後に天下を平らげて八州を治められた。それでまた名を加えて、神日本磐余彦尊というのである。」とあり、『書紀』神武元年の記事には、「始馭天下之天皇と申し、名付けて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。」とある。神日本磐余彦尊(神倭伊波礼毘古命)は建国後に付けられた名であることが分かる。

 

Z325.磐余.png「神日本」は大和国を建国したことによるものであり、「彦火火出見」は諱(いみな:実名)と記載してあるが祖父の名である。「磐余」は何故付けられたのであろうか。「磐余」は奈良盆地の東南端にある古代からの地名で、その範囲は諸説あるがZ325に示すように、東は桜井市上之宮を流れる寺川、西は橿原市の天香具山を通る古道の中ツ道、北はJR桜井線の香具山駅を東西に通る古道の横大路、南は明日香村飛鳥と山田道の出会い、これらに囲まれた範囲の中にある。この磐余の地には、神功皇后の磐余若桜宮(349年)、履中天皇の磐余稚桜宮(432年)、清寧天皇の磐余甕栗宮(487年)、継体天皇の磐余玉穂宮(526年)、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(585年)などがあったと『書紀』は記している。なお、括弧内の年は「縮900年表」による宮の造営の年。

 

また、履中紀には「磐余池を作る」と記されてある。『万葉集』には「大津皇子、死を被りし時に、磐余の池の堤にて涙を流して作らす歌一首」と題し、「ももづたふ磐余池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」と、磐余池が読み込まれている。大津皇子が謀反の疑いで処刑されたのは686年のことであった。Z325に記した八つ手形の池は現存しないが、池之内町(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されいる。近年の発掘調査で池の遺構(東池尻・池之内遺跡)が出土している。

 

『書紀』神武紀の建国2年前の己未の年の記事に「磐余の地の名は、元は片居または片立であったが、皇軍が敵を破り、大軍が集まってその地に満(いわ)み居たことから、磐余とされた。またある人は、皇軍に滅ぼされた磯城の八十梟帥が屯聚(いわ)み居た[屯聚居、これを恰波瀰委(いはみい)という]から磐余邑と名付けたという。」とある。磐余の地名は、磐余彦尊の名前より先に存在していたと思える。狭野尊が何故、磐余彦尊になったのであろうか。


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