SSブログ

72-10.卑弥呼の宗女壱与は崇神天皇の皇后 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

戦前は、記紀に書かれた歴史は全て正しいとされた。戦後は、記紀に書かれた推古より以前の歴史は、歴史の対象でないと全て否定された。近年、考古学の発掘が数多く行われ、科学的機器が取り入れられるに及んで、記紀が史実を書いていると見直されることも増えて来てた。現在その実在を信じられている最古の天皇は崇神天皇である。神武天皇の実在は信じられておらず、日本建国神話の一部であるとの考えから脱却できていない。

 

『古事記』『書紀』の両書共に、欠史8代の天皇を挿入し、900年歴史を延長して、神武天皇を釈迦より古い現人神としている。神武天皇が実在したかどうか決めつけず、神武天皇を含めた「記紀年表」を完成させ、その答えを探った。『古事記』の神武記には、神武天皇の年齢が137歳であるという以外に編年の情報はない。『書紀』の神武紀は、神武元年から神武76年の崩御までと3年の空位となっているが、記事が書かれてあるのは6年間のみである。「紀縮900年表」では、神武天皇の在位は1年・2年・③年・4年・31年・42年・76年の7年間、そして空位3年間としている。この編年を崇神天皇の即位258年(戊寅)とする「記紀年表」に結び付けてたのがZ450である。なお、「記紀年表」には『書紀』の記事が全て包含しており、今後人物名・地名は『書紀』の表記に従う。

 

Z450.記紀年表神武.png

私は、邪馬台国は日向(宮崎県西都市)にあって、女王卑弥呼を神武天皇の母・玉依姫に比定している。このストーリーが成り立つか「記紀年表」で検証した。卑弥呼が女王に共立されたのは倭国大乱(147~188年)が収まった頃と考えると、卑弥呼の誕生は(188-α)年となる。「記紀年表」で、神武天皇の誕生が207年からすると、誕生時卑弥呼は(19+α)歳であった。神武天皇は卑弥呼(玉依姫)の息子と言える。

 

「記紀年表」では、神武天皇の即位が248年、崇神天皇即位が258年、崩御が276年となっている。『魏志倭人伝』には、247年頃に邪馬台国の女王卑弥呼と狗奴国の国王との交戦があり、その後に卑弥呼が亡くなり、男王が立つが国中承服せず戦となった。卑弥呼の宗女壱与13歳を女王に共立し戦が収まっている。また、『晋書』には泰始2年(266年)に倭の女王(壱与)が晋に朝献したとある。私はこれまで「紀縮900年表」をもとに、崇神天皇は壱与であるとの説を主張してきた。「記紀年表」では、崇神天皇の即位を13歳とする解は得られず、崇神天皇の即位は25歳となり、崇神天皇は壱与であるとの説は取り下げざるを得なくなかった。しかし、壱与が崇神朝に関わりがあることは間違いない。

 

私は次のようにストーリーを考えた。磐余彦尊(神武天皇)と兄の五瀬命とが東征に出発した隙をついて、247年頃に日向の邪馬台国に大隅の狗奴国が攻め込んで来た。その後の254年に卑弥呼が亡くなった。248年に大和国を建国し国王となっていた神武天皇は、卑弥呼のあとを継ぎ同盟30ケ国の盟主である倭国王になろうとしたが、神武天皇の台頭を恐れた国々の反対に会い戦いが始まった。その戦いは3年間におよんだ。258年神武天皇は息子と、卑弥呼の宗女、3歳の壱与と結婚させ、壱与を倭国王とし、息子を大和国王の崇神天皇として争いを治めた。神武天皇は大彦命と称して、崇神天皇(御間城入彦)と倭国王壱与(御間城姫)を支えた。「記紀年表」の神武天皇崩御の254年は卑弥呼の崩御を意味し、神武天皇の年齢は崩御年齢でなく、254年に47歳であったと理解する。

 

卑弥呼(玉依姫)の宗女(長男の娘)の壱与は、磐余彦尊の兄・五瀬命の娘と考える。五瀬命が磐余彦尊と共に吉備に滞在したのは242~246年の3年間である。その時、吉備王の娘を娶り生まれたのが壱与(御間城姫)とすると、崇神天皇即位の258年に13歳であることと合っている。一方、崇神天皇が誰にあたるか、神武天皇と崇神天皇との間に欠史八代の天皇が挿入されており決めるのは難しい。「記紀年表」によれば、神武天皇が即位したのが41歳で、26歳の時に崇神天皇が誕生していることより、崇神天皇は神武天皇が日向で吾田の吾平津媛を娶り生まれた息子ということになる。

 

ただ、崇神天皇は25歳で即位している。垂仁天皇が誕生したのは即位前の24歳の時である。記紀共に、垂仁天皇(活目入彦尊)は崇神天皇(御間城入彦)と御間城姫の子としている。御間城姫を13歳の壱与とすると、御間城姫は12歳で活目入彦尊を産んだことになり、成り立たない。活目入彦尊には異母兄の豊城命がいる。崇神紀には、崇神天皇が息子兄弟のどちらを後継ぎにするか夢占いをした話が載っている。その結果、兄の豊城命は東国を治め、弟の活目入彦尊が天皇の位を継ぐことになっている。兄が天皇の位を継ぎ、弟が東国を収めたと解釈したら辻褄は合う。

 

倭国(同盟30ケ国)の歴史からみると、神武天皇は女王卑弥呼の時代、崇神天皇は女王壱与の時代。卑弥呼の時代の倭国の東端は吉備と出雲であったが、神武天皇の東征により大和・河内が加わり、崇神天皇の時代に丹波・北陸・東海・東国と拡がった。『古事記』崇神記の最後には崇神天皇を讃えて「初めて国を治めた天皇」と呼んだとあり、『書紀』の崇神紀にも崇神天皇は「御肇国天皇」と誉め讃えられたとあるのは、このためである。


nice!(2)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。