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72-7. 崇神天皇の崩御干支の戊寅は即位の年 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

私は「72-. 崇神天皇の崩御干支の戊寅は258年」で示したように、崇神天皇の崩御干支の戊寅の通説318年を否定した。しかし、258年の論拠となる『住吉大社神代記』の垂仁天皇の没年は『書紀』と『古事記』から捏造されたものであった。また、在位年数が垂仁天皇と景行天皇共に40年を超えており、125代の昭和天皇、そして明治天皇に続く在位である。崇神天皇の崩御258年説も行き詰ってしまった。そうかと言って『古事記』記載の「崇神天皇の崩御干支の戊寅」を無視したくは無い。この矛盾を解決することで思いついたのが、「崇神天皇の崩御干支の戊寅は即位干支であった」とすることであった。そこで「崇神即位を258年の戊寅」として作成した年表「記即位258年表」が、Z444である。誕生時父年齢と即位年齢に問題を起こさない最適年齢が得られた。また、『書紀』垂仁紀と景行紀の記事年数は垂仁記と景行記の在位年数の中に収めることが出来る。

Z444.記即位258年表.png

 

Z445.記即位と紀縮の比較.png私は25年前に『日本書紀』が歴史を900年延長していることを発見し「紀縮900年表」を作成している。「紀縮900年表」は『書紀』の記事と記事の間の空白の期間が4年以上の場合、その期間は歴史を延長した期間であるとして省き作成している。その4年以上の空白の期間の合計が900年である。「紀縮900年表」は『書紀』の全ての記事を収めることができている。そして、『宋書』倭国伝・帝紀にある倭の五王、讃を仁徳天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇として、『古事記』(応神天皇から安康天皇の崩御年を5年繰り下げた)と同様に年代がピッタリ合っている。この「記即位258年表」と「紀縮900年表」を比較したのがZ445である。両者は全く違ったプロセスで作成した年表だがよく似た年代観を示している。崩御年の差(崩A-B)でみると、仁徳天皇から雄略天皇まではほぼ一致していることが分る。大きく違っているのが、応神天皇の19年である。仲哀天皇・成務天皇・景行天皇とその差が16年から13年と少し下がり、崇神天皇では両者が一致している。在位年数の差(在A-B)で見ると、仁徳天皇だけが▲18年と大きく、その他の天皇は概ね近いことがわかる。これらより、応神天皇の崩御の年(仁徳天皇の即位の年)を見直せば「記即位258年表」と「紀縮900年表」が近づいてくることが分る。

 

歴史・考古学者の間では『書紀』の太歳干支より『古事記』の崩御干支の方が信頼が高い。そこで「記即位258年表」の年表に「紀縮900年表」を重ね合わせることにした。私は『古事記』の編年と『日本書紀』の編年とを合体させるにあたり、留意した点がある。それは、百済の肖古王(照古王)が応神天皇に良馬二匹・大刀(七枝刀)・大鏡(七子鏡)を奉った年代を合わせる事である。『古事記』の応神記には次の文章がある。「百済の国王照古王が牡馬一疋・牝馬一疋を阿知吉師に付けて貢りました。また大刀と大鏡とを貢りました。百済国に賢人があれば貢れと仰せになり、和邇吉師が論語十巻・千字文一巻を携え召された」。これらに関する『書紀』の文章は下記の通りである。

神功52年(372年:252+120

    百済の肖古王が七枝刀一口、七子鏡一面、種々の重宝を奉った。

神功55年(375年:255+120

  百済の肖古王が薨じた。翌年、百済の皇子貴須が王となった。

応神15年

 百済王は阿直岐を遣わして良馬二匹を奉った。天皇が優れた学者を請われ、翌年に王仁がきた。

朝鮮の正史『三国史記』によると、肖古王の在位は346年~375年で、神功52年・神功55年の記事は干支二廻り120年繰り上げられた挿入記事であり、応神朝の事である。応神15年の記事が372年~375年の間に入るような年表の作成が必要である。

 


『古事記』と『書紀』を合体させた年表を「記紀年表」と名付けた。「記紀年表」は下記の条件を満足するものとした。

 1)『古事記』の崇神天皇崩御の干支戊寅は即位干支に置き換え、崇神天皇の即位は256年とする。

 2)「各天皇の崩御年は『古事記』の崩御干支の年(通説)から10年以内のこと。

 3)「記紀年表」には『書紀』の全ての記事(引用記事を除く)が収まること。

 4)各天皇の誕生時父年齢と即位の年齢は、特別の場合を除き18歳から60歳の範囲に入っていること。

 5)『宋書』の倭の五王の記事との対比において、讃は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、

   武は雄略天皇の比定に1年の齟齬も生じないこと。

 6)『書紀』の応神15年の肖古王の記事は、372年から375年の間に収まること。

「紀縮900年表」は『書紀』の全ての記事を収めることができているので、天皇の在位年数を減らす場合は「紀縮900年表」にある記事と記事の空白の期間、あるいは空位の期間を減らし、天皇の在位年数を増やす場合は「紀縮900年表」の作成時に省いた記事と記事の空白の期間を復活させることにした。作成できた「記紀年表」をZ446に示す。


 

Z446.記紀年表.png

これらの原則に反したのは、雄略天皇のみであった。雄略天皇の在位年数は『古事記』では32年(安康天皇の在位を3年として)、その差の9年の内5年は、倭の五王と年代を合わせるために安康天皇の崩御年を5年繰り下げて埋まり、2年は『書紀』にはない空白の年を2年加えた。この2年の空白年の増加により、『書紀』の雄略12年にある身狭村主等を呉に遣わした記事が676年になった。『三国史記』では675年には百済の王都漢城が高句麗より落城している。『宋書』倭国伝では、678年に武(雄略天皇)が朝貢し、差し出した上表文には「高句麗が百済の征服をはかったため朝献出来なかった。」と言い訳をしている。「記紀年表」の精度が如何に高いかが分る。


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72-8.『古事記』も900年歴史を延長していた [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

私は25年前に『日本書紀』が歴史を900年延長していることを発見し、「紀縮900年表」を作成している。その延長の900年は、神武天皇で69年、欠史8代の天皇で484年、崇神天皇から雄略天皇で340年、継体天皇で7年であった。『古事記』にも欠史8代の天皇(2代綏靖天皇~9代開花天皇)の記事が記載されている。これからすると、『古事記』も歴史を延長していると考えられる。

 

崇神天皇から雄略天皇において、『古事記』には在位年数の記載がなく、編年の分かるのは天皇崩御の干支だけである。通説では前後の天皇の崩御干支の間は干支一廻り以内としているが、『古事記』の編年は崩御干支に影響が無いように、干支一廻り60年の単位で歴史を延長しているかも知れない。もし、そのような延長がなされていたとするならば、その延長の痕跡が天皇の年齢に残されていると考える。天皇の年齢が90歳以上の場合、『古事記』は歴史を干支一廻り60年、あるいは二廻り120年延長していると考える。崇神天皇から雄略天皇において、90歳以上の天皇は6名(崇神・垂仁・景行・成務・応神・雄略)である。崇神天皇は年齢168歳で120年の延長、後の5名天皇は60年の延長、合計420年歴史を延長していると思う。

 

欠史8代の天皇(2代綏靖天皇~9代開花天皇)は歴史を延長するために創作された天皇であると考える。欠史8代の天皇では90歳以上の天皇が3名(5代孝昭天皇93歳、6代孝安天皇123歳、7代孝霊天皇106歳)いる。これらの天皇ではそれぞれ60年、合計で180年延長されている。また、8代の天皇の在位年数合計も延長された年数である。欠史8代の天皇においては、年齢は全ての天皇に記載されているが、崩御干支は誰一人として記載がなく、在位年数を知る手がかりは年齢だけである。天皇ごとの在位年数は分からないが、欠史8代の在位年数の合計ならば、年齢から算出できる方法を考えた。

Z447.欠史八代在位 ①.png

 

8代の天皇の系譜(前天皇との関係)は全て父子であり、それも2代綏靖天皇が第3子以外は第1子と第2子である。「次の天皇となる皇子は、天皇が即位した年に生まれた」と仮定したのが表Z447である。表の黄色の期間が求める欠史8代天皇の在位年数合計であり、下記の公式が成り立ち、欠史8代の在位年数の合計は201年であることが分る。

欠史8代在位年数合計=([2代綏靖~10代崇神]年齢合計

―(2代綏靖皇子年齢+10代崇神天皇在位年数))/

      ≒([2代綏靖~10代崇神]年齢合計

        ―(2代綏靖年齢+10代崇神年齢)/)/

      ≒(449-(45+48)/2)/2=201

 

Z448.欠史八代在位 ②.png

欠史8代の在位年数の合計は、天皇誕生時の父(前天皇)年齢(n)からも計算できる。表Z448に示すように、欠史8代天皇の在位年数合計は下記の公式が成り立つ。

欠史8代在位年数合計=9代開花年齢―1代神武年齢
(n1~n8)合計

(n1~n8)の平均をNとすると

欠史8代在位年数合計=9代開花年齢―1代神武年齢+8N

=63-47+8x26=224

 

9代開花天皇の年齢は63歳、初代の神武天皇の年齢は137歳であるが90年延長されているとして47歳とした。平均天皇誕生時父年齢Nは不明であるが、前章の「記紀年表」で前天皇と父子関係にある天皇(垂仁・景行・成務・応神・仁徳・履中・安康)の平均天皇誕生時父年齢Nは26歳であった。この値を代用すると欠史8代在位年数合計は224年となった。「次の天皇となる皇子は、天皇が即位した年に生まれた」と仮定して計算した201年と大きく変わらない。欠史8代在位年数合計は両者の平均として210年とする。

 

『古事記』が歴史を延長している年数は、崇神天皇から雄略天皇が420年(年齢)で、欠史8代が180年(年齢)と210年(在位)、そして神武天皇については、初代の天皇は崩御干支に影響を与えないので年齢の延長がそのままの歴史延長に繋がるとして90年(年齢)とした。『古事記』が歴史を延長している合計が900年となった。私は『書紀』が900年歴史を延長していることを発見したが、『古事記』もまた900年歴史を延長していた。


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