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72-9. 神武天皇の建国は釈迦入滅より古い [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

『古事記』は和銅5年(712年)1月に太安万侶が元明天皇に献上している。その序文には、天武天皇が「諸家に伝わっている帝紀及び本辞には、すでに真実と違い、多くの虚偽が加わっている。今この時にその誤りを改めなければ、今後幾年も経たないうちに滅んでしまう。これらは国家の経緯、天皇家(王化)の基本である。帝紀を撰録し、旧辞を検討して、偽りを削って正しきを定めて、後世に伝えようと思う。」と仰せになったとある。

 

『日本書紀』は養老4年(720年)に舎人親王により撰上されている。『書紀』には序文はないが、天武10年(681年)3月の記事に、天武天皇が大極殿にお出ましになり、帝紀と上古諸事(旧辞)を記録し定めるようにと、川島皇子等13名に詔を発し、それを大嶋・子首に執筆させ記録に残したとある。『古事記』の編纂も、『書紀』の編纂も、この「詔」が出発点で、帝紀・旧辞を基にしていることがわかる。

 

 津田左右吉氏は帝紀・旧辞の成立について、『古事記』の旧辞を出典として考えられる物語の多くが、23代顕宗天皇の御世までであることを理由に、「それらからあまり遠くない時代、しかしその記憶がやや薄らぐくらいの欽明朝の頃、6世紀の中頃には一通りまとまっていたのだろう。」と述べている。帝紀・旧辞は欽明朝に成立したのであろう。

 

『古事記』『書紀』の両書共に、欠史8代の天皇を挿入し、900年歴史を延長ていることから、帝紀・旧辞の成立した欽明朝に歴史を古く見せる編年が行われていたと考える。何故、帝紀・旧辞は900年歴史を延長した編年を行ったのか、何故、神武天皇の建国が辛酉の年であるのか明らかにしなければならない。

 

明治時代の学者那珂通世氏は、『書紀』が神武天皇の建国を紀元前660年と古い時代に持ってきたのは、大和政権の権威を高めるために、中国の歴史に比べて遜色ないように脚色された。神武天皇の建国が「辛酉」の年になっているのは、中国の漢代に流行した思想、「辛酉の年ごとに、中でも21度目の辛酉の年に大いに天の命が改まる」に基づいて定められたという辛酉革命説を唱え、それが定説となっている。

 

神武建国から21度目の辛酉の年は推古5年にあたる。その前年に我が国の仏教の礎となった法興寺(飛鳥寺)が落成しており、辛酉革命説はそれを指しているのだろう。『書紀』が歴史を900年延長し、神武天皇の建国を紀元前660年と古い時代に持ってきたのが辛酉革命説としたならば、その延長が欽明朝になされていることより、大和政権の権威を高めるためではなく、仏経が我が国に伝わったことと関係するのではないかと思われる。

 

Z449.タイカレンダー.png私は2000年にタイランドに赴任した。その年は、正確には翌年からが21世紀であるにも関わらず、マスコミは新しい世紀に入ったと、多くの報道をしていた。スナックで先輩と飲んでいた時のことである。日本語の喋れるタイ人のママさんと、21世紀についての話が弾んだ。その時、ママさんが「タイは今年2543年、キリストよりもお釈迦さまの方が古い」と言った。すると、その年還暦を迎えた先輩は「私が生まれた年には、皇紀2600年のお祝いがあった。だから今年は2660年、お釈迦さまより日本の神武天皇の方が古い」と言い返した。

 

私は、25年前に出版した「神武天皇と卑弥呼の割符 900-660=240」の中で、「釈迦の存在を知った大和人は、日本(やまと)建国の神武天皇は釈迦より古い現人神として、歴史を作ったのではないだろうか」と書いている。タイで採用されている仏暦が、『書紀』の編年の延長は「大和政権の権威を高めるためになされた」とする歴史学会の難しい定説より、「神武天皇は釈迦より古い現人神」とするためになされたとする方が、真実に近いと証明してくれたように思う。

 

『書紀』欽明天皇13年には、仏教伝来についての記述が見られる。百済の聖明王は侍臣を遣わして、釈迦仏の金銅像一体・経論千巻をたてまつり、仏法は諸法の中で最も勝れている。遠く天竺から三韓に至るまで、教えに従い尊敬されていると仏を広く礼拝する功徳を伝えている。蘇我稲目は「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」と、仏教礼拝に賛成した。物部尾輿・中臣鎌子は「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地の祠の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて仏を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう」と、仏教礼拝に反対した。

 

拝仏反対派の物部氏の先祖は、神武天皇が東征された時、長髄彦を殺害し帰順した饒速日命。中臣氏の先祖は、天照大神が天の岩屋にこもったとき、岩屋の前で祈祷した天児屋命、また神武天皇が東征した時の侍臣であった天種子命である。拝仏反対派の物部尾輿・中臣鎌子の二人、あるいはどちらかが帝紀・旧辞の編纂に関わりを持っていて、「神武天皇は釈迦より昔に我が国を建国された」との筋書きを作り、歴史を編纂させたと考える。蘇我氏と物部氏・中臣氏の仏教を巡る争いが、記紀の編年を歪めた源流なのであろう。


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72-10.卑弥呼の宗女壱与は崇神天皇の皇后 [72.『古事記』と『日本書紀』の編年を合体]

戦前は、記紀に書かれた歴史は全て正しいとされた。戦後は、記紀に書かれた推古より以前の歴史は、歴史の対象でないと全て否定された。近年、考古学の発掘が数多く行われ、科学的機器が取り入れられるに及んで、記紀が史実を書いていると見直されることも増えて来てた。現在その実在を信じられている最古の天皇は崇神天皇である。神武天皇の実在は信じられておらず、日本建国神話の一部であるとの考えから脱却できていない。

 

『古事記』『書紀』の両書共に、欠史8代の天皇を挿入し、900年歴史を延長して、神武天皇を釈迦より古い現人神としている。神武天皇が実在したかどうか決めつけず、神武天皇を含めた「記紀年表」を完成させ、その答えを探った。『古事記』の神武記には、神武天皇の年齢が137歳であるという以外に編年の情報はない。『書紀』の神武紀は、神武元年から神武76年の崩御までと3年の空位となっているが、記事が書かれてあるのは6年間のみである。「紀縮900年表」では、神武天皇の在位は1年・2年・③年・4年・31年・42年・76年の7年間、そして空位3年間としている。この編年を崇神天皇の即位258年(戊寅)とする「記紀年表」に結び付けてたのがZ450である。なお、「記紀年表」には『書紀』の記事が全て包含しており、今後人物名・地名は『書紀』の表記に従う。

 

Z450.記紀年表神武.png

私は、邪馬台国は日向(宮崎県西都市)にあって、女王卑弥呼を神武天皇の母・玉依姫に比定している。このストーリーが成り立つか「記紀年表」で検証した。卑弥呼が女王に共立されたのは倭国大乱(147~188年)が収まった頃と考えると、卑弥呼の誕生は(188-α)年となる。「記紀年表」で、神武天皇の誕生が207年からすると、誕生時卑弥呼は(19+α)歳であった。神武天皇は卑弥呼(玉依姫)の息子と言える。

 

「記紀年表」では、神武天皇の即位が248年、崇神天皇即位が258年、崩御が276年となっている。『魏志倭人伝』には、247年頃に邪馬台国の女王卑弥呼と狗奴国の国王との交戦があり、その後に卑弥呼が亡くなり、男王が立つが国中承服せず戦となった。卑弥呼の宗女壱与13歳を女王に共立し戦が収まっている。また、『晋書』には泰始2年(266年)に倭の女王(壱与)が晋に朝献したとある。私はこれまで「紀縮900年表」をもとに、崇神天皇は壱与であるとの説を主張してきた。「記紀年表」では、崇神天皇の即位を13歳とする解は得られず、崇神天皇の即位は25歳となり、崇神天皇は壱与であるとの説は取り下げざるを得なくなかった。しかし、壱与が崇神朝に関わりがあることは間違いない。

 

私は次のようにストーリーを考えた。磐余彦尊(神武天皇)と兄の五瀬命とが東征に出発した隙をついて、247年頃に日向の邪馬台国に大隅の狗奴国が攻め込んで来た。その後の254年に卑弥呼が亡くなった。248年に大和国を建国し国王となっていた神武天皇は、卑弥呼のあとを継ぎ同盟30ケ国の盟主である倭国王になろうとしたが、神武天皇の台頭を恐れた国々の反対に会い戦いが始まった。その戦いは3年間におよんだ。258年神武天皇は息子と、卑弥呼の宗女、3歳の壱与と結婚させ、壱与を倭国王とし、息子を大和国王の崇神天皇として争いを治めた。神武天皇は大彦命と称して、崇神天皇(御間城入彦)と倭国王壱与(御間城姫)を支えた。「記紀年表」の神武天皇崩御の254年は卑弥呼の崩御を意味し、神武天皇の年齢は崩御年齢でなく、254年に47歳であったと理解する。

 

卑弥呼(玉依姫)の宗女(長男の娘)の壱与は、磐余彦尊の兄・五瀬命の娘と考える。五瀬命が磐余彦尊と共に吉備に滞在したのは242~246年の3年間である。その時、吉備王の娘を娶り生まれたのが壱与(御間城姫)とすると、崇神天皇即位の258年に13歳であることと合っている。一方、崇神天皇が誰にあたるか、神武天皇と崇神天皇との間に欠史八代の天皇が挿入されており決めるのは難しい。「記紀年表」によれば、神武天皇が即位したのが41歳で、26歳の時に崇神天皇が誕生していることより、崇神天皇は神武天皇が日向で吾田の吾平津媛を娶り生まれた息子ということになる。

 

ただ、崇神天皇は25歳で即位している。垂仁天皇が誕生したのは即位前の24歳の時である。記紀共に、垂仁天皇(活目入彦尊)は崇神天皇(御間城入彦)と御間城姫の子としている。御間城姫を13歳の壱与とすると、御間城姫は12歳で活目入彦尊を産んだことになり、成り立たない。活目入彦尊には異母兄の豊城命がいる。崇神紀には、崇神天皇が息子兄弟のどちらを後継ぎにするか夢占いをした話が載っている。その結果、兄の豊城命は東国を治め、弟の活目入彦尊が天皇の位を継ぐことになっている。兄が天皇の位を継ぎ、弟が東国を収めたと解釈したら辻褄は合う。

 

倭国(同盟30ケ国)の歴史からみると、神武天皇は女王卑弥呼の時代、崇神天皇は女王壱与の時代。卑弥呼の時代の倭国の東端は吉備と出雲であったが、神武天皇の東征により大和・河内が加わり、崇神天皇の時代に丹波・北陸・東海・東国と拡がった。『古事記』崇神記の最後には崇神天皇を讃えて「初めて国を治めた天皇」と呼んだとあり、『書紀』の崇神紀にも崇神天皇は「御肇国天皇」と誉め讃えられたとあるのは、このためである。


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