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70-8.『金光明最勝王経』は粟田真人が持ち帰った [70.新元号「令和」の深層]

『書紀』の仏教伝来の記事が、『金光明最勝王経』をもとに記述されていることは、明治時代から明らかにされている。大正14年に「欽明紀の仏教伝来の記事について」を発表した藤井顕孝氏は、『金光明最勝王経』が日本へ伝来した機会は3回あるとした。

 1)慶雲元年(704年)7月、遣唐使執節使粟田真人の帰国

  2)慶雲4年(707年)5月、学問僧義法・義基等が新羅より帰国

  3)養老2年(718年)12月、道慈が遣唐使とともに帰国

 

井上薫氏はこれら一つ一つを吟味して、昭和18年に発表した「日本書紀仏教伝来記載考」で、義浄が漢訳した『金光明最勝王経』を日本にもたらしたのは、養老2年(718年)12月に遣唐使船で帰国した道慈であると唱え、それ以後この説が定説化され、『書紀』の仏教関係の記事の述作に道慈が関わったと考えられるようになった。道慈が17年間の留学を終え帰国して1年半後の養老4年(720年)5月に、『書紀』が舎人親王により撰上されたことからすると、巻第14の雄略紀から巻第21の崇峻紀の述作に道慈が関わったのは無理があるように思える。

 

近年「道慈と『日本書紀』」の論文を発表した皆川完一氏は、道慈が『金光明最勝王経』を日本にもたらしたという直接的史料はなく、状況証拠による推論である。大宝律令制定以後は、政務に関わるには官人でなければならず、僧侶の道慈が政務の一環である『書紀』の編纂に参画するようなことはありうるはずはないと述べている。そして、『金光明最勝王経』その他の仏典を用いて『書紀』の文を述作した人物は、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であるとして、粟田真人と山田史御方をあげ、山田史御方を一押している。

 

山田史御方は学問僧として新羅に留学していたが、『金光明最勝王経』に関係あるのだろうか。『三国史記』新羅本紀によると、聖徳王2年(703年)に日本国から総勢204人の使者が来たとあり、また同3年(704年)3月入唐していた金思譲が帰国し『金光明最勝王経』を献上したとある。『続日本紀』にも703年の遣新羅使のことは記載されている。この一行に山田史御方が居たとすれば、帰国は学問僧義法・義基等と同じ慶雲4年(707年)5月となり、『金光明最勝王経』を写経し新羅より持ち帰ったことの可能性は十分ある。

 

しかし、『続日本紀』の慶雲4年(707年)4月に、「賜正六位下山田史御方布鍬塩穀。優學士也。」とあり、慶雲4年(707年)5月に帰国した船には、乗船していなかったことが分かる。『書紀』の持統6年(692年)10月に、「山田史御方に務広肆を授けられた。先に沙門となって、新羅に学問をしに行ったものである。」とある。山田史御方が学問僧として新羅行っていたのは692年以前であり、『金光明最勝王経』とは関係ない時期であった。

 

白雉4年(653年)の遣唐使では、13名の学問僧が派遣されている。『書紀』はその内の3名について、定惠(大臣之長子也)・安達(中臣渠毎連之子)・道観(春日粟田臣百濟之子)とカッコで示す割注を記載しており、この道観が粟田真人である。道観と一緒に入唐した定恵は、大化の改新の立役者である中臣鎌足の長子で、弟が藤原不比等である。道観と安達は、定惠の学友であり、付き人であったと考えられる。定恵は入唐当時11歳であり、道観も同じ年頃であったのであろう。定恵は天智4年(665年)に唐船で帰国しており、道観の帰国も同じではないかと推察する。粟田真人(道観)は12年間の留学生活を送ったのであろう。 

粟田真人は帰国後還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下の位を授かっている。大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として出国し、10月には唐の朝廷に宝物を献じている。『宋史』日本伝には、「粟田真人を遣わし、唐に入り書籍を求めしめ、律師道慈に経を求めしむ」とある。粟田真人・道慈が唐に到着した翌年の長安3年(703年)10月に、義浄が『金光明最勝王経』を完成している。新羅の金思譲が704年3月に新羅に持ち帰っていることからすると、704年7月に帰国した粟田真人が『金光明最勝王経』を持ち帰えったと考える。


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70-9.藤原不比等は『書紀』の編纂を粟田真人に任せた [70.新元号「令和」の深層]

和銅5年(712年)太安万侶が『古事記』を撰上した翌年に、風土記編纂の官命が出され、その翌年に紀清人と三宅藤麻呂に対して国史撰述の詔勅が下されている。このことは、『古事記』が国史として評価されなかったからだと考える。『日本書紀』には中国の史書『漢書』『後漢書』『三国志』が引用されている。それからすると、朝廷(藤原不比等)には国史というもののイメージがあったと思われる。『古事記』に記載されている内容は、天皇の系譜と歌謡が多く、国の歴史を伝える記事が少なく、中国の国史に比較して見劣りがするものだと判断されたのであろう。だから、不比等は『漢書』『後漢書』『三国志』に負けない国史を作ろうと考えたに違いない。不比等が天皇の権威を高めるために、『日本書紀』の編纂を行ったのではないと考える。また、『日本書紀』が『古事記』について、一切触れていないのはこの為であろう。 

和銅元年(708年)から筑紫大宰師の任務についていた粟田真人は、和銅6年(713年)に風土記編纂の官命が出ると、筑紫11ヶ国の風土記を霊亀元年(715年)5月までに述作した。翌年には粟田真人に国史編纂に参画するようとの勅命を受け、書き上げた筑紫11ヶ国の風土記を持って大和に帰任したと想像する。不比等は兄の定惠から粟田真人が優秀であることを聞いており、共に大宝律令の撰定に携わり真人の文章能力も知っていたので、『日本書紀』の編纂を粟田真人に任せたと考える。 

 

『日本書紀』の述作を行ったのは、正三位の粟田真人、従五位下の山田史御方、従六位上の紀清人、正八位下の三宅藤麻であり、担当の範囲を山田史御方が神代・神武~安康紀、粟田真人が雄略~天智紀であった。粟田真人は学問僧として12年間唐に留学し仏典にも通じており、遣唐使執節使として出向いた唐で、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美」と言わしめている。12年間の留学で唐人並みの正音・正格漢文が書ける能力があり、『書紀』α群の述作者としての条件を全て満足している。

 

述作を始める前に、太安万侶が『古事記』に定めた天皇名の和風諡号や宮名を、真人が好字を使って改めた。当時、太安万侶は存命で官位は正五位上であったが、真人の官位は正三位で6階級上位であったので、太安万侶に配慮することなく諡号を決定した。真人は筑紫の風土記に書いた天皇名・宮名をそのまま採用し、また、山田史御方は、真人の書いた筑紫の風土記の記事を引用した。

 

粟田真人が天皇名を定めたという証拠は、『書紀』・「甲類九州風土記」の双方に使用されている日本武尊で分かる。ヤマトタケルは古事記が「倭建」で、「甲類九州風土記」・『書紀』が「日本武」となっている。「日本」という国号は736年にできた『史記』の注釈書である『史記正義』の中に、「則天武后が倭を改めて日本とした」とする記述があることから、粟田真人が遣唐使執節使として派遣された702年の遣唐使から「日本」が使用されたとされている。粟田真人が「日本」という国号の成立に関わっていたと考えられる。


粟田真人(道観)は、唐に学問僧として12年間、定惠のお供をした。その定惠の父親が大化の改新の立役者である中臣鎌足であった。留学中に道観は定惠より、「大化の改新」の話を聞いていたと考える。中臣鎌足と中大兄(後の天智天皇)の出会は、蹴鞠の催しで中大兄の皮鞋が鞠と一緒に脱げ落ちたのを、中臣鎌足が拾って両手で捧げ奉ったことに始まると言う逸話も、道観が定惠より聞いた話であろう。そんなこともあって、粟田真人は大化の改新のあった皇極紀から書き始め、天智紀までを先に述作した。

 

 その後、粟田真人は雄略紀から述作した。欽明紀では唐から持ち帰った『金光明最勝王経』を引用しながら、欽明13年(552年)に仏教が百済の聖明王から伝えられた記事を述作した。粟田真人は仏教の有難味を表現するために『金光明最勝王経』を引用しただけの話であり、仏教伝来の歴史を捏造したわけではない。粟田真人は崇峻紀を述作した所で、養老3年(719年)2月に亡くなった。享年は65歳頃であったと推定される。本来、推古紀・舒明紀は粟田真人が書く予定であったが、山田史御方が代りに記述した。『書紀』撰上の翌年の正月に、山田史御方・紀清人は褒賞されている。

 

粟田真人は『日本書紀』が完成した時点で「序」を書き、粟田真人名で天皇に撰上する予定であったが、完成の前年に亡くなった。山田史御方・紀清人・三宅藤麻ではその任は役不足であり、そのため『日本書紀』は「序」が書かれることなく、養老4年(720年)5月に『日本書紀』の編纂に関わりのなかった舎人親王により撰上された。このように考えると、「甲類九州風土記」と『日本書紀』の先後の疑問点も、『日本書紀』の仏教伝来記事の疑問点も、『日本書紀』の述作者の疑問点も、年代の齟齬なく解決することが出来る。まさに「事実は小説より奇なり」である。 

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