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71-1. 仏教伝来の年は欽明朝 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

前章において『日本書紀』の欽明紀に書かれた仏教伝来の記事は、粟田真人が704年7月に唐から持ち帰った『金光明最勝王経』を引用しながら記述したと記載した。「仏教伝来の年」については、これまでにも取り上げてきたが、ここに再度新たな視点からその解明に取り組んでみる。

仏教が伝来した年については、『日本書紀』に記載された552年説と、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に基づく538年説の2説がある。『書紀』には欽明13年(壬申:552年)10月に、百済の聖明王が仏像と経論を献じたと記載されている。『法王帝説』には「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)、始めて渡りきて仏像・経典、併せて僧等を奉る。」とあり、また『元興寺縁起』にも「広庭天皇(欽明天皇)の七年戊午の年12月」とある。ただ、『書紀』の編年に従えば『法王帝説』『元興寺縁起』の仏教伝来「戊午」の年は欽明朝には無い。

 

欽明天皇に百済の聖明王が仏像と経論を献じたことは両者同じである。聖明王は『三国史記』によれば百済の聖王(諡を聖、諱を明穠)で、在位は523年から554年である。なお、聖王の父の武寧王の陵墓が忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から発見され、出土した墓誌には523年に崩御したとあり、『三国史記』の聖明王の在位は正しいことが分かる。 聖明王の在位からすると、仏教伝来を552年とする『書紀』も、538年とする『法王帝説』も年代の齟齬はない。

 

Z429.天皇崩御の年.png欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の崩御の年について、『法王帝説』と『書紀』に記載された年を比較した。5代の天皇の崩御の年は全て一致している。両者のの編年の大きな違いは、欽明天皇即位で、『書紀』では540年、『法王帝説』では531年である。『書紀』の編年に従えば、531年は継体天皇が亡くなった年に当たる。『法王帝説』『元興寺縁起』の538年の欽明朝に仏教が伝来したことを認めると、安閑天皇(在位2年)・宣化天皇(在位4年)の両天皇は居なかったことになる。その矛盾を払拭するために、継体天皇亡き後に、安閑・宣化朝と欽明朝が並立していたとする説がある。こんな説でも考えなければ「欽明天皇の戊午の年(538年)に仏教が公伝した」は整合性が取れないのである。

 

『書紀』の欽明13年の仏教伝来の記事には、「この法は諸法の中で最も勝れております。解かり難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことが出来ないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無情の菩提を成し」とある。唐の義浄が長安3年(703年)に漢訳した『金光明最勝王経』をもとに記述されており、欽明13年(552年)当時には存在していなかったことから、『書紀』の記事の信憑性が疑われ、仏教公伝の年は『法王帝説』にある戊午の年(538年)が有力視されている。

『日本書紀』:「是法於諸法中最爲殊勝難解難入。周公・孔子、

不能知此法能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提

『金光明最勝王経』:「金光明最勝王経、於諸経中 最爲殊勝難解難入。聲聞獨覚、所不能知此経能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提


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71-2. 聖徳太子が著した『三経義疏』 [71.聖徳太子を解けば仏教伝来の年が分かる]

我国の仏教の基盤を築いたのは聖徳太子であると言っても過言ではない。聖徳太子によって著されたとされるのが『三経義疏』(さんぎょうぎしょ) で、『法華経疏』『維摩経疏』『勝曼経疏』の三経の注釈書(義疏)である。聖徳太子真筆の草稿とされる『法華義疏』のみが残存しており、明治11年に法隆寺から皇室に献上され御物となっている。『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみが伝えられている。

 

『日本書紀』には、聖徳太子が推古天皇14年(606年)に『勝鬘経』・『法華経』を講じたという記事があるが、『三経義疏』を著した話は記載されていない。平安時代初期に成立した『上宮聖德太子傳補闕記』には、「聖徳太子は己巳の年(推古17年:609年)に勝鬘經疏を書き始め、辛未の年(推古19年:611年)に完了した。維摩經疏は癸酉の年(推古21年:613年)に完了し、法華經疏は乙亥の年(推古23年:615年)に完了した。」とある。『三経義疏』の成立年代を記載している史料は『補闕記』のみである。

 

『傳補闕記』は、『法王帝説』と同じ頃成立しているが、聖徳太子の行実を調使(太子の従者)・膳臣(太子妃の実家)の家記にもとづいて記載している。『補闕記』には神秘的な内容や説話が多く盛り込まれており、『書紀』『法王帝説』に比べ史料としては重要視されていない。ただ、聖徳太子が経典を注釈・講話したことについては「補闕(ほけつ)」という題名の通り、『書紀』『法王帝説』には無い史料があり、私には史実が書かれてあるように思える。

 

Z430.座像行信.png『法隆寺縁起資財帳』(747年)には、聖徳太子御製の『法華経疏』3部各4巻・『維摩経疏』1部3巻・『勝曼経疏』1巻があることを記載している。そして、『法隆寺東院資財帳』(761年)には、聖徳太子御製の『法華経疏』4巻・『維摩経疏』3巻・『勝曼経疏』1巻が記載されてある。『法隆寺東院資財帳』は、正式には『上宮王院縁起并資財帳』であり、上宮王院は平安時代に法隆寺に取り込まれ法隆寺東院となっている。上宮王院は法隆寺の高僧行信の尽力により、天平9年(737年)から11年かけて聖徳太子の斑鳩宮跡に造営されている。行信は天平13年(747年)に大僧都になっている。

 

『法隆寺縁起資財帳』には『法華経疏』3部各4巻と記載されているが、「3部各4巻」の表現から、写本が3部あるように感じられる。また、『法隆寺東院資財帳』に記載の『法華経疏』の添え書きには「正本」とあり、また行信が「覓求奉納」したとある。「覓求奉納」とは探し求めて発見し奉納したことを意味している。これらから、上宮王院が落成した後に、聖徳太子の『三経経疏』のが法隆寺から上宮王院に施入されたと思われるが、『法隆寺東院資財帳』に記載されていた『法華経疏』は、『法隆寺縁起資財帳』とは異なるものであると考える。


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