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66-16.弥生時代の鉄滓の始発原料は砂鉄 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

弥生時代の鉄滓の分析値を見ていて、気になったことがある。それは9遺跡13点の鉄滓(福岡:西新町2・辻田1、熊本:西弥護免1・諏訪原1・二子塚4、長崎:金比羅1、島根:柳1、京都:扇谷1・王子1)の始発原料が西新町遺跡の1点を除いて全て砂鉄になっていることだ。弥生時代の鉄素材は朝鮮半島から入ってきており、その始発原料は磁鉄鉱であるというのが通説である。弥生時代の鉄滓の始発原料が砂鉄であると唱えた学者はいない。

 

Z289.弥生鉄滓の始発原料.pngZ289に横軸を鉄成分(T・Fe)とし、縦軸をTi2/MnOの平方根として、我国の弥生時代の鉄滓を、韓国を北緯36度で二分し、北の鉄滓を、原料をとし、南の鉄滓を、原料をとしてプロットした。韓国南部の鉄滓の始発原料は慶州市の隍城洞遺跡、慶尚南道の沙村遺跡では磁鉄鉱であり、韓国北部の京畿道の旗安里遺跡・渼沙里遺跡、忠清北道の石帳里遺跡・槐山雙谷里遺跡では始発原料は磁鉄鉱と砂鉄の両者があった。我国の弥生遺跡から出土した鉄滓の始発原料が砂鉄に由来することは、鉄の素材は韓国北部から来ていたことになる。

 

韓国の製鉄の開始は、現在のところ韓国北部の忠清北道石帳里遺跡で3世紀末とされている。石帳里遺跡では製鉄炉をはじめとして、鉄鉱石の焙焼炉、鋳鉄溶解炉、鍛冶炉が発見されており、鉄滓、製品、原料の鉱石・鉱石粉末が出土している。青洲博物館はこの鉱石粉末を「沙鉄(鉄鉱石粉?)」と明記して、大澤氏に分析を依頼している。大澤氏は顆粒状の磁鉄鉱と判定ていしているが、私はTi2/MnOの値が7.25〜9.0で、判定基準の2.25をはるかに上まわっており砂鉄と判定した。村上恭通氏は『倭人と鉄の考古学』の中で「石帳里遺跡では砂鉄が多量に発見されたため、砂鉄製錬が行われた可能性も示唆されているが、鉄鉱石もあるため砂鉄精錬と断定するのは時期尚早である。」と述べており、私の判定が間違っているわけではない。

 

石帳里遺跡の鉱石2点、鉄滓4点が分析されているが、私の判定では、鉱石・鉄滓とも半分が鉱石由来、半分が砂鉄由来であり、磁鉄鉱・砂鉄両者の製錬が行われたと思える。そもそも、「磁鉄鉱」の言葉には、鉱物(一定の化学組成の結晶)としての磁鉄鉱と、鉱石(鉱物+母岩)としての磁鉄鉱の両方の意味が含まれている。砂鉄は鉱石(磁鉄鉱+母岩)の母岩が風化され、鉱物の磁鉄鉱が単独で存在するようになったものである。石帳里遺跡の原料を供給した鉱山は風化が進んでいて、鉱石としての磁鉄鉱も、鉱物としての磁鉄鉱(砂鉄)も採れていたのであろう。朝鮮半島北部にある石帳里遺跡では3世紀末頃に砂鉄の製錬が行われていたことは確かであると思う。

 

弥生時代の後期後半、わが国に入って来た鉄素材は斧状鉄板(板状鉄製品)である。福岡市早良区の西新町遺跡の古墳時代前期前半(4世紀初)のかまど付き竪穴住居跡から、また、福岡県宗像市の久原瀧ヶ下遺跡の古墳時代初期(3世紀後半)頃の住居跡から庄内式土器と共に、大型板状鉄製品が出土している。板状鉄製品の分析値を見ると、Ti2/MnOの値は西新町が3.5(0.07/0.02)、久原瀧ヶ下が6.(0.24/0.06)と始発原料が砂鉄(2.25以上)であった。弥生時代の後期後半、わが国に入って来た斧状鉄板(板状鉄製品)の始発原料は砂鉄であった。

 

『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。「66-4.弥生後期後半、弁辰の鉄が輸入されていた」に示したように、弁辰の地は洛東江の上流の慶尚北道北西部の地で、3世紀に中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、斧状鉄板(板状鉄製品)が作られたと考えた。慶尚北道北西部の地は月岳を中心とする山塊が忠清北道と境を成し、地質は花崗岩体で磁鉄鉱の鉱床も存在している。忠清北道側には石帳里遺跡と同じ時代の槐山雙谷里遺跡(石帳里遺跡から40Km)があり、鉱石由来と砂鉄由来の鉄滓が出土している。

 

3世紀になって、北緯36度以北の韓国北部、洛東江の上流の慶尚北道北西部の弁辰の地で、中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、砂鉄を原料として斧状鉄板(板状鉄製品)が作られた。これらの素材は楽浪郡・帯方郡に供給されるとともに、倭国にももたらされた。弥生後期後葉、倭国ではこれらの鉄素材で鍛冶が行われ鉄製品が製作され、炉の底には砂鉄由来の鍛錬鍛冶滓が溜まった。一方朝鮮半島では、3世紀末になって製鉄技術が弁辰の地から山を越えて西に伝わり、忠清北道鎮川郡の石帳里遺跡で砂鉄・磁鉄鉱の製錬が始まった。こう考えると全てのことが繋がって来る。

 

私の座右の銘は経済学者のマルクスの「事実に即して考える」であり、文化人類学者の川喜多二郎の「事実をして語らしめる者は勇者となる」である。これらを実践するために、川喜多二郎が考案したKJ法(収拾した情報をカード化し同じ系統のものでグループ化すること)を用いている。実際はパソコンのエクセルにデータを取り込み、フィルター・並べ替えの機能を使いグループ化している。KJ法を用いることによって、多種多様な情報を効率よく整理し、その過程を通じて新たなアイディアの創出や本質的問題の特定ができるからである。「66.弥生時代に製鉄はなされたか?」の設問に取り組んで集めた「事実」は、鉄滓の分析値であった。そして、ただの数字に過ぎない分析値が、製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の見分け方を、始発原料が砂鉄か鉱石かの見分け方を、私に語ってくれた。それは、その道の専門家と同レベル、あるいは専門家を凌ぐ(一貫性があるという意味で)ものであった。

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