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66-15.弥生時代に製鉄はなされたか? [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z288.弥生遺跡の鉄滓.png弥生時代に製鉄が行われていたとすれば、その最も有力な地は熊本県の阿蘇谷であると思っていたが、阿蘇谷にある鉄器遺跡から出土した鉄滓の成分を知ることが出来ず、その証拠を掴むことが出来なかった。そこで、全国の弥生遺跡(縄文晩期?含む)から出土した鉄滓、11遺跡16点について、横軸を鉄の成分%(T・Fe)とし、縦軸をTiMn指数としてZ288を作成した。製錬/鍛冶直線の上の領域にあれば製錬滓、直線の下の領域にあれば鍛冶滓で、精錬/鍛錬直線の上の領域にあれば精錬鍛冶滓、下の領域にあれば鍛錬鍛冶滓である。なお、一点鎖線の精錬混入域には、荒鉄(製錬滓が付着した鍛冶原料)を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓が紛れ込んでくる。

 

の鉄滓は石川県加賀市の豊町A遺跡出土のもので、製錬滓の領域にあった。豊町Aの鉄滓のT・Feは34%と低く、またTi2が11%と高いことから、高温で間接製錬が行われたことを伺われる。もし、縄文晩期に精錬があったとすれば、もっと原始的な低温で直接製錬がなされたことが予想される。時代が縄文晩期?とされているが、鉄滓の出土状況を知ることが出来なかった。我国に鉄器が入ってきたのは、弥生中期の初め頃と考えられており、縄文晩期の精錬は考えられない。加賀市豊町には中世の製鉄跡が多数あり、この鉄滓は中世のものの混入と考えられる。

 

ピンクの二つの鉄滓は長崎県島原市有明町の下原下遺跡のもので、一つが製錬滓の領域の精錬混入域にあるが、もう一つが精錬滓あることから、荒鉄の精錬滓であると考えられる。下原下遺跡では、鉄滓が出土したⅢ層の下のⅣ層に縄文後期・晩期の遺物があり、縄文晩期の製鉄跡の可能性があると、1966年に有明町の教育委員会が報告している。その後の県教委の調査で年代測定を行った結果、738年という数値が出ているそうだ。下原下遺跡の鉄滓が出土した頃は、考古学会では弥生時代の初めから鉄器が使用されていたと考えられており、時流に乗った報告がなされたのであろう。

 

私は分析の詳細を知らないのでグラフには載せてないが、弥生時代の製鉄を伺わせる鉄滓がある。広島県三原市の小丸遺跡から二つの製錬炉が見つかり、それぞれ3世紀と7世紀に比定されている。3世紀と判定された1号炉は、直径50cm、深さ25cmの円筒土坑の両側に鉄滓の詰まった2基の排滓坑を備えた製錬炉である。製錬滓と判定された鉄滓は、鉄成分が15.8〜38.2%であった。炉の下層と両側の土坑の木炭をC14年代測定が行われ、7世紀と3世紀の結果が出た。遺跡群の南側斜面には滓・鉱石片・弥生土器の小破片が散乱していることから、3世紀の製錬と比定されている。鉄滓のT・Feが15.8〜38.2%と低く、高温で製錬が行われたことを伺わせる。1号炉も2号炉と同じ、7世紀のものではないかと思える。

 

は福岡市の西新町遺跡、辻田遺跡の3点は精錬鍛冶滓の領域にあるが、3点とも鍛錬鍛冶滓に近いことからすると鍛錬鍛冶滓であると考える。熊本県の諏訪原遺跡(玉名郡菊水町)・西弥護免遺跡(菊池郡大津町)・二子塚遺跡(上益城郡嘉島町)の4遺跡7点の鉄滓は、鍛錬鍛冶滓と判定できる。現在のところ、弥生時代の製鉄(製錬)を証明する鉄滓は存在していないというのが現状である。


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66-16.弥生時代の鉄滓の始発原料は砂鉄 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

弥生時代の鉄滓の分析値を見ていて、気になったことがある。それは9遺跡13点の鉄滓(福岡:西新町2・辻田1、熊本:西弥護免1・諏訪原1・二子塚4、長崎:金比羅1、島根:柳1、京都:扇谷1・王子1)の始発原料が西新町遺跡の1点を除いて全て砂鉄になっていることだ。弥生時代の鉄素材は朝鮮半島から入ってきており、その始発原料は磁鉄鉱であるというのが通説である。弥生時代の鉄滓の始発原料が砂鉄であると唱えた学者はいない。

 

Z289.弥生鉄滓の始発原料.pngZ289に横軸を鉄成分(T・Fe)とし、縦軸をTi2/MnOの平方根として、我国の弥生時代の鉄滓を、韓国を北緯36度で二分し、北の鉄滓を、原料をとし、南の鉄滓を、原料をとしてプロットした。韓国南部の鉄滓の始発原料は慶州市の隍城洞遺跡、慶尚南道の沙村遺跡では磁鉄鉱であり、韓国北部の京畿道の旗安里遺跡・渼沙里遺跡、忠清北道の石帳里遺跡・槐山雙谷里遺跡では始発原料は磁鉄鉱と砂鉄の両者があった。我国の弥生遺跡から出土した鉄滓の始発原料が砂鉄に由来することは、鉄の素材は韓国北部から来ていたことになる。

 

韓国の製鉄の開始は、現在のところ韓国北部の忠清北道石帳里遺跡で3世紀末とされている。石帳里遺跡では製鉄炉をはじめとして、鉄鉱石の焙焼炉、鋳鉄溶解炉、鍛冶炉が発見されており、鉄滓、製品、原料の鉱石・鉱石粉末が出土している。青洲博物館はこの鉱石粉末を「沙鉄(鉄鉱石粉?)」と明記して、大澤氏に分析を依頼している。大澤氏は顆粒状の磁鉄鉱と判定ていしているが、私はTi2/MnOの値が7.25〜9.0で、判定基準の2.25をはるかに上まわっており砂鉄と判定した。村上恭通氏は『倭人と鉄の考古学』の中で「石帳里遺跡では砂鉄が多量に発見されたため、砂鉄製錬が行われた可能性も示唆されているが、鉄鉱石もあるため砂鉄精錬と断定するのは時期尚早である。」と述べており、私の判定が間違っているわけではない。

 

石帳里遺跡の鉱石2点、鉄滓4点が分析されているが、私の判定では、鉱石・鉄滓とも半分が鉱石由来、半分が砂鉄由来であり、磁鉄鉱・砂鉄両者の製錬が行われたと思える。そもそも、「磁鉄鉱」の言葉には、鉱物(一定の化学組成の結晶)としての磁鉄鉱と、鉱石(鉱物+母岩)としての磁鉄鉱の両方の意味が含まれている。砂鉄は鉱石(磁鉄鉱+母岩)の母岩が風化され、鉱物の磁鉄鉱が単独で存在するようになったものである。石帳里遺跡の原料を供給した鉱山は風化が進んでいて、鉱石としての磁鉄鉱も、鉱物としての磁鉄鉱(砂鉄)も採れていたのであろう。朝鮮半島北部にある石帳里遺跡では3世紀末頃に砂鉄の製錬が行われていたことは確かであると思う。

 

弥生時代の後期後半、わが国に入って来た鉄素材は斧状鉄板(板状鉄製品)である。福岡市早良区の西新町遺跡の古墳時代前期前半(4世紀初)のかまど付き竪穴住居跡から、また、福岡県宗像市の久原瀧ヶ下遺跡の古墳時代初期(3世紀後半)頃の住居跡から庄内式土器と共に、大型板状鉄製品が出土している。板状鉄製品の分析値を見ると、Ti2/MnOの値は西新町が3.5(0.07/0.02)、久原瀧ヶ下が6.(0.24/0.06)と始発原料が砂鉄(2.25以上)であった。弥生時代の後期後半、わが国に入って来た斧状鉄板(板状鉄製品)の始発原料は砂鉄であった。

 

『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。二郡とは楽浪・帯方のことで、帯方郡が設置されたのは204年であり、弥生時代後期後葉にあたる。「66-4.弥生後期後半、弁辰の鉄が輸入されていた」に示したように、弁辰の地は洛東江の上流の慶尚北道北西部の地で、3世紀に中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、斧状鉄板(板状鉄製品)が作られたと考えた。慶尚北道北西部の地は月岳を中心とする山塊が忠清北道と境を成し、地質は花崗岩体で磁鉄鉱の鉱床も存在している。忠清北道側には石帳里遺跡と同じ時代の槐山雙谷里遺跡(石帳里遺跡から40Km)があり、鉱石由来と砂鉄由来の鉄滓が出土している。

 

3世紀になって、北緯36度以北の韓国北部、洛東江の上流の慶尚北道北西部の弁辰の地で、中国から亡命してきた人々が製鉄技術を伝え、砂鉄を原料として斧状鉄板(板状鉄製品)が作られた。これらの素材は楽浪郡・帯方郡に供給されるとともに、倭国にももたらされた。弥生後期後葉、倭国ではこれらの鉄素材で鍛冶が行われ鉄製品が製作され、炉の底には砂鉄由来の鍛錬鍛冶滓が溜まった。一方朝鮮半島では、3世紀末になって製鉄技術が弁辰の地から山を越えて西に伝わり、忠清北道鎮川郡の石帳里遺跡で砂鉄・磁鉄鉱の製錬が始まった。こう考えると全てのことが繋がって来る。

 

私の座右の銘は経済学者のマルクスの「事実に即して考える」であり、文化人類学者の川喜多二郎の「事実をして語らしめる者は勇者となる」である。これらを実践するために、川喜多二郎が考案したKJ法(収拾した情報をカード化し同じ系統のものでグループ化すること)を用いている。実際はパソコンのエクセルにデータを取り込み、フィルター・並べ替えの機能を使いグループ化している。KJ法を用いることによって、多種多様な情報を効率よく整理し、その過程を通じて新たなアイディアの創出や本質的問題の特定ができるからである。「66.弥生時代に製鉄はなされたか?」の設問に取り組んで集めた「事実」は、鉄滓の分析値であった。そして、ただの数字に過ぎない分析値が、製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の見分け方を、始発原料が砂鉄か鉱石かの見分け方を、私に語ってくれた。それは、その道の専門家と同レベル、あるいは専門家を凌ぐ(一貫性があるという意味で)ものであった。

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B-13.纏向遺跡の桃の種が語るもの [Blog:古代史散策]

2018年5月15日の朝日新聞は、“「邪馬台国」論争に一石? 奈良・纏向遺跡出土の桃の種 卑弥呼の時代の可能性”との見出しで、「

所在地論争が続いてきた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種が、放射性炭素(C14)年代測定で西暦135~230年のものとみられることが明らかになった。種は遺跡中枢部とみられる大型建物跡近くで出土し、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定された。女王卑弥呼の君臨した時代と重なる可能性が高い。近畿説、九州説を主張する考古学者からは歓迎と反発の声が交錯した。」との文章から始まっている。

 

この記事は桜井市纒向学研究センターの研究紀要第6号に掲載された、中村俊夫・名古屋大学名誉教授の「纒向遺跡出土のモモの核のAMS・C14年代測定」の論文をもとに書かれたものである。桃の種は2010年に大型建物跡の南約5メートルにある土坑から約2800個みつかったもので、祭祀で使われた後に投棄されたと考えられている。中村氏は15個を測定し、数値の読み取れなかった3個を除いた12個について、C14年代(BP)の平均値が1824で、標準偏差(±1s)が6であると報告している。これはC14年代が95%の確立で1836〜1812BPの範囲に入ることを意味している。

 Z290.桃の種の較正年代.png

中村氏は測定値のBPを暦年代(較正年代)に変換(較正)するにあたり、IntCal(国際較正曲線)を用いて西暦135~230年を導きだしている。国立歴史民俗博物館はC14年代の較正において、JCal(日本産樹木による較正曲線)を導入している。IntCalJCalはBC200年頃までは大差がないが、BC100年からAD400年にかけて大きな差が現れている。図Z290はIntCalJCalの曲線を示している。BPが1836〜1812の範囲は、IntCalでみると135~230年(青線)であり、JCalでみると215~255年(緑線)である。桃の種が投棄されたのは、卑弥呼の時代あるいは壱与の時代ということになる。

 

纒向学研究センターは大型建物Dが廃絶された後に、桃の種が出た土坑(SK3001)とその湧水が流れていた溝(SM1001SD1009)が掘られたと説明している。大型建物Dが先で溝が後の根拠は、赤①に示めす柵の柱穴を切って溝・SD2001(庄内3式)が掘削されていることを理由に挙げている。図Z291から見ると溝と柱穴の関係は微妙な位置にある。赤②は大型建物Dの柱穴が完全に溝SM1001と交差しているが、これらについては言及がない。削平されている大型建物D跡に溝を掘るのであれば真直ぐ掘るはずであるが、溝(SM1001SD1009)はグニャグニャと曲がっており、削平前に地形に沿って掘った溝であるように見える。溝からは庄内3式と布留0式の土器が出土しており、布留0式の時代に土坑と溝を埋めて削平を行い、大型建物Dを建てたと考える方が合っているように思える。国立民族博物館は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行いJCalで較正して土器の編年を行い、箸墓古墳の築造年代が240~260年と発表している。この土器の編年を見ると、庄内3式は200~240年、布留0式は240~260年、布留1式は260~330年になっている。溝が先で大型建物Dが後ならば、大型建物Dは布留0式の時代、240~260年に建てられたことになる。

 

Z291.巻向宮殿柱図面.png

私の「縮900年表」では崇神天皇(=御間城姫=壱与)の治世は251〜273年であり、崇神3年(253年)に都を磯城の瑞籬宮に移している。崇神5年(255年)には国内に疫病が流行り、民が多く死亡したので、翌年に大田田根子を祭主として大物主大神を祀ったところ疫病が収まっている。大型建物Dがある地域は“大田”という地名であり、土坑に投棄された桃の種は、大田田根子が祭祀に供えた桃の種であったのではないかと空想が広がる。もちろん、土坑はもっと以前に掘られたものであった。また、大型建物Dは磯城の瑞籬宮で、疫病が治まってから建てられたと考えると、考古学・自然科学・『日本書紀』・「縮900年表」が結びついてくる。


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B-14.纏向遺跡の搬入土器は『書紀』に記載されている [Blog:古代史散策]

国立民族博物館は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物の炭素14年代測定を行いJCalで較正して土器の編年を行い、箸墓古墳の築造年代が240~260年と発表している。この箸墓古墳の話が『書紀』崇神9年の記事に「倭迹迹日百蘇姫を大市に葬る。その墓を名付けて箸墓という。昼は人が造り、夜は神が造った。大阪山の石を運んで造る。山より墓にいたるまで、人民が手渡しに運んだ。」とある。箸墓古墳の後円部墳頂からは、奈良盆地と大阪平野の境にある二上山の山麓の芝山の石が出土しており、『書紀』の「大阪山の石を運んで造る。」と合致している。「縮900年表」によると、箸墓が造られた崇神9年は259年にあたる。ここでも、考古学・自然科学・『日本書紀』・「縮900年表」が結びついている。

 

『書紀』崇神9年(259年)の記事には「9月9日、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わされた。詔りして『もし教えに従わない者があれば兵を以って討て』と言われた。それぞれ印綬を授かって将軍となった。・・・10月1日、群臣に詔りして『今は、反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ。』」と、四道将軍の話も記載されている。

 

卑弥呼と壱与を共立した邪馬台国連合国の国々は、吉備・出雲以西の中国・九州の国々(除く大隅)であった。崇神天皇(壱与)の時代、大和国の近隣諸国(河内・摂津・和泉)も連合国に属していたと考える。四道将軍を派遣した北陸・東海・西海(四国と考える)・丹波(含む丹後)は、連合国に属さない異俗の国々であった。崇神11年(261年)の記事には、「4月28日、四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。この年異俗の人たちが大勢やってきて、国内は安らかになった。」とある。崇神天皇の瑞籬宮があった磯城に、異俗(北陸・東海・四国・丹波・丹後)の人が大勢やってきたと記載している。

 

Z292.纒向搬入土器.png崇神天皇の瑞籬宮があった磯城に隣接、あるいは磯城の一部の地域である纒向遺跡から出土する土器の15%は、他の地域から持ち込まれた搬入土器である。搬入時期のピークは布留0式(240〜260年)で、その比率は東海50%で,山陰(出雲含む)・吉備が10〜15%、河内・近江・北陸・播磨・阿波が5〜10%である。異俗の人が土器を持ち込んでいることが判る。考古学・自然科学・『日本書紀』・「縮900年表」が結びついている。


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