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66-10.鉄滓の始発原料(砂鉄・鉱石)の見分け方 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

古代の鉄の生産を知るためには、遺跡から出土した鉄滓(スラグ)が、砂鉄や鉱石を製錬する工程で出来た製錬滓か、製錬で取り出された鉄塊を地金にする精錬鍛冶の工程で出来た精錬鍛冶滓か、それとも地金から利器・武器を作る鍛錬鍛冶の工程で出来た鍛錬鍛冶滓かを見分けることが必要である。鉄滓の分析においてもう一つ重要なことがある。それは、鉄滓の始発原料が砂鉄に由来するものなのか、鉱石に由来するものなのかを見分けることである。砂鉄には酸化チタン(i2)と酸化バナジュウム()が磁鉄鉱に比較して多く含まれていることから、これらの成分で鉄滓の始発原料の判定が行われている。しかし、酸化チタン含有量が少ない真土と呼ばれる砂鉄などの場合、精錬鍛冶滓や鍛錬鍛冶滓になってくると、磁鉄鉱由来の鉄滓との差が小さくなり、その判定は専門家でも困難になって来る。

 

製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の判定には酸化チタン(i2)の含有量が通常用いられていたが、私は酸化マンガン(n)にも注目した。これら両成分は炉壁の粘土や木炭の灰分に含まれておらず、原料の砂鉄・鉱石のみに含まれており、製錬・精錬・鍛錬と工程が進むに従って、それぞれの工程で排出される鉄滓(スラグ)に含まれる両成分が減少していくからであった。鉄滓の分析データを整理している中で、原料・製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓に含まれる酸化チタン(i2)と酸化マンガン(n)の両者の比率はそれほど変わらないことに気がついた。砂鉄と磁鉄鉱にTi2/MnOの差があれば、製錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓にも同じ程度の差があり、鉄滓の始発原料が何であるかを見分けることが出来ることを発見したのである。

 

Z279.始発原料の見分け方.png収拾した鉄滓の分析データの中で、その始発原料が専門家により比定されている鉄滓や、砂鉄や鉱石が製錬されたことが明白な遺跡から出土した鉄滓を選び出し、横軸にT・Fe値を、縦軸にTi2/MnO値(グラフを見易くするために平方根)として図Z279に示した。○は始発原料が砂鉄、△は鉱石で、赤は製錬滓、青は精錬鍛冶滓、緑は鍛錬鍛冶滓、黒は原料(砂鉄・磁鉄鉱)である。なお、錬滓・精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓の分類は私の指標で行っている。Ti2/MnO値が2.25(目盛1.)を境として、ものの見事に上が砂鉄、下が鉱石に分かれている。

 

Z280.イギリスの始発原料.png話は変わるが、イギリスでは古代、褐鉄鉱の一種の湖沼鉄(Bog Iron)で製鉄を行っており、その鉄滓の分析データが多く報告されている。私は20点の鉱石と192点の鉄滓のデータからTi2/MnO値を計算し図Z280に示した。驚くことに、これら湖沼鉄の鉱石・鉄滓の値は、日本の磁鉄鉱の鉱石・鉄滓と同じようにTi2/MnO値が2.25(目盛1.)を境として下側にあった。鉱石のTi2/MnO値が2.25の下側にあり、砂鉄のTi2/MnO値が上側にあるということは、何か自然科学的な意味のある普遍的な指標かも知れない。この指標は鉄滓の始発原料が砂鉄か、鉱石かを簡単明瞭に判定でき、古代の鉄の生産を知るための大きな武器になると確信する。


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66-11.我国の製鉄開始は6世紀半ばの定説に挑戦 [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

我国で製鉄が行われるようになったのは、古墳後期後半、6世紀の半ばからで、広島県東部から岡山県にまたがる古代の吉備地方であるというのが現在の定説である。この定説に挑戦すべく、古墳時代の中期末、5世紀末までの遺跡から出土した鉄滓、18遺跡32点について調べZ281に示した。ちなみに、32点の鉄滓の内、始発原料が砂鉄のものが18点、鉱石のものが14点であった。

Z281.古墳時代中期鉄滓.png
①が福岡県北九州市小倉南区の潤崎遺跡、なお赤②〜⑥の5点は潤崎遺跡の鉄滓の値であるが、これら鉄滓のMnOの分析値を知らないので、MnO/Ti2は①と同じとして計算している。鉄滓分析の第一人者である大澤氏は、1986年に古墳時代中期後半の潤崎遺跡の鉄滓の分析(①〜④)から、我国では古墳時代中期中葉(5世紀中頃)、北部九州などの一部で鉄製錬が開始されたと唱えた。佐々木稔氏は、④の鉄滓の組織写真にウスタイト(e)が多いことに疑問をもち、椀形滓が多くあることから、潤崎の鉄滓は精錬滓であるとの見解を示した。④の鉄滓については、大澤氏も精錬鍛冶滓と認め変更している。佐々木氏はこの問題に食い下がり、新たに2点(椀形滓の⑤、流状滓の⑥)を分析し、金属系研究者5名にその判定を仰いでいる。その結果は、2名が「製錬滓の可能性が極めて高い」、3名が「製錬滓、精錬滓のいずれとも判定できない」であった。

 

Z282.ヨーロッパ古代製鉄炉.png私は、6点の鉄滓は全て始発原料が砂鉄で、④は精錬鍛冶滓、それ以外は製錬滓と判定した。⑤の椀形滓が製錬滓だとすると、椀形滓は精錬鍛冶滓・鍛錬鍛冶滓だとする常識を覆すことになる。金属系研究者の2名が「製錬滓、精錬滓のいずれとも判定できない」と躊躇したのは、この為であろう。写真Z282はヨーロッパの代表的な古代製鉄炉であるが、このような円筒縦型炉(シャフト炉)であれば製錬滓の椀形滓は存在することになる。また、製錬で生じた流状滓を椀形土坑に流し込めば椀形滓となる。いずれにしても、潤崎の鉄滓は製錬滓があることには間違いない。

 

潤崎遺跡は曽根古墳群中に所存する埴輪窯跡で、窯跡に残る焼土の磁気年代測定の結果はAD410年±15年であり、炭化物の炭素14年代測定では測定値は1640±75BPで、歴博の日本産樹木年輪による較正年代の値でみると410±75年の範囲にある。多数の鉄滓は窯跡近くの土坑の直上を覆う土層から出土している。土坑は窯跡と同じ年代であるそうだが、鉄滓が同じ時代のものであるかどうかは定かでない。鉄滓に製錬滓が存在したことは、潤崎遺跡の窯跡の近くで鉄の製錬が行われたことを示しているが、その時期が古墳時代中期中葉(5世紀中頃)という確証はないらしい。

 

ピンクが島根県松江市美保関町の関谷遺跡出土の鉄滓で、潤崎遺跡と同じ砂鉄の製錬滓である。遺跡は焼土を伴う製鉄遺跡で、炭素14年代測定で440±90年という年代が出ている。オレンジが岡山県津山市の押入西遺跡の鉄滓で、Ti2の成分が10%でMnOが4%と、MnOの成分が高い特徴のある砂鉄の製錬滓である。鉄滓は墳丘直径12.5m、高さ1.5mの円墳(1号墳)の周湟(周溝)から須恵器の破片と伴に出土している。円墳の内部主体は木棺直葬で、副葬品は素環頭太刀(310-599)・鹿角装刀子・帯金具(400-549)・鉄斧・鉄鎌・ノミ・鉄釘(390- )である。 ( )の数字は、私の古墳遺物の編年表による。古墳の年代は須恵器から5世紀後半と見られている。古墳時代中期後半、5世紀後半には我国で砂鉄の製錬が行われていたと推察できる。

 

図Z281において、製錬滓の精錬混入域にある青の3点は、大阪府堺市土師町の土師遺跡の鉄滓である。精錬滓の領域にある青の4点が、土師遺跡と隣町の百舌鳥陵南町の陵南北遺跡から出土していることからすると、製錬滓の精錬混入域にある3点は、荒鉄(製錬滓が付着した鍛冶原料)を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓と判断できる。これらの6点の始発原料はTi2/MnOの値が0.7〜1.7で鉱石由来であった。土師遺跡の精錬に用いた地金はどこから入手したのであろうか。

 

5世紀の古墳から「鉄鋌」と呼ばれる両端がバチ形に広がる鉄板が、西は福岡・大分から、東は群馬・千葉までの地域から出土している。圧倒的に多いのは近畿地方で、奈良県奈良市のウワナベ古墳の培冢の大和6号墳からは872枚、大阪府羽曳野市の墓山古墳の培冢の野中古墳からは130枚、兵庫県加古川市の行者塚古墳から40枚が出土している。同じ形状を持つ鉄鋌は朝鮮半島東南部の伽耶や新羅の地域から出土し、新羅の皇南大塚南墳からは1300枚を越える数の鉄鋌が出土している。沖ノ島の4遺跡からも出土していることからして、朝鮮半島東南部の伽耶で生産されたものが、我国にもたらされたと考えられている。

 

大和6号墳の鉄鋌8枚が分析され、その炭素含有量からすると7枚が錬鉄(0.3%以下)で1枚が鋼(0.7%)であった。大和6号墳以外の鉄鋌4枚(韓国出土1枚含む)の炭素含有量は鋼(0.4〜0.9%)である。5世紀の鉄器生産の素材が鉄鋌であったとするならば、その鍛冶で出る鉄滓は鍛錬鍛冶滓であって、塊錬鉄(鉧)や銑鉄(銑)から鉄地金を作る時に出来る精錬鍛冶滓ではあり得ないことになる。土師遺跡の鉄滓は荒鉄を精錬した時に出来る精錬鍛冶滓である。荒鉄が伽耶の地から輸入されたという証拠はなく、これらの素材は我国で製錬されたものと考えざるを得ない。

 

土師町・陵南町は5世紀に築造された百舌鳥古墳群の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵古墳)、土師ニサンザイ古墳の近くにあり、背後には5世紀に生産された初期の須恵器の窖窯がある高蔵寺(TK)地区を控えた地である。伽耶からの渡来人は須恵器の生産技術を伝え、また製鉄の技術をも伝えたと考えられる。土師町・陵南町の精錬鍛冶滓は鉱石由来の鉄滓であることからすると、製鉄(製錬)が行われた場所は、滋賀の琵琶湖周辺、あるいは岡山かも知れない。福岡の潤崎遺跡・島根の関谷遺跡・岡山の押入西遺跡・大阪の土師遺跡の鉄滓は、弥生中期後半、5世紀の後半には我国で砂鉄・鉱石の製錬を行い、鉄を生産していたことを示している。


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66-12.イギリスでは紀元前から湖沼鉄を製錬した [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z283.イギリス湖沼鉄製錬滓.png古代日本で製錬された原料は砂鉄か磁鉄鉱で、褐鉄鉱の製錬滓のデータは皆無である。ヨーロッパでは褐鉄鉱の一種の湖沼鉄(Bog Iron)が広く分布し、製鉄の原料として用いられている。18世紀に産業革命を起したイギリスは、紀元前から製鉄が行われていて、各所から古代の鉄滓が出土しており、Dr.T.P.Young氏らによって分析がなされている。私が集めた鉄滓の分析データは湖沼鉄の製錬滓で、生産年代はBC3C~4C)、AD1C~4C、AD9C~14Cのものである。私の製錬滓の判別が通用するか、製錬滓の分析データから横軸を鉄の成分%(T・Fe)とし、横軸をTiMn指数として分布図を作成した。Z283に見られるように、紀元後の製錬滓のデータは、ほぼ製錬/鍛冶直線の上の領域にあり、私が定めた製錬滓の領域と同じである。しかし、紀元前の製錬滓データの多くは精錬滓の領域にあった。

 

Z284.日本とイギリスっ製錬滓.pngイギリスと日本の製錬滓の大きな違いは、日本の砂鉄・磁鉄鉱の製錬滓の鉄の成分(T・Fe)は、そのほとんどが50%以下であるのに対して、イギリスの湖沼鉄の製錬滓は、紀元前・紀元後共に50%以上のものが多いということだ。私は製錬滓に含まれる(CaO+MgO)の値に注目し、日本の砂鉄・磁鉄鉱の製錬滓とイギリスの湖沼鉄の製錬滓とを比較しZ284に示した。グラフを見やすくするために(CaO+MgO)の値は平方根にしている。イギリスの湖沼鉄の製錬滓で鉄含有量(T・Fe)が50%以上では、(CaO+MgO)の含有量が少ないことが分かる。

 

Z285.FeO-SiO2.png鉄の製錬における反応は複雑であるが、その根本はFeOとSi2の反応であり、その状態図をZ285に示す。鉄滓には必ず含まれている物質が、1205℃で溶融するファイヤライト(Fe2i4)で、2eO・Si2とも表記され、T・Feは55%である。鉄の製錬におけるFeOとSi2の反応は、状態図において""(T・Fe:48%)と、""(T・Fe:60%)のAC間で行われている。イギリスの製錬滓でT・Feが50%から60%ものが多いということは、古代の湖沼鉄の製錬ではファイヤライトが溶融し、スラグとして排出されたからである。

 

日本の砂鉄・磁鉄鉱の製錬滓のT・Feは、ほぼ48%以下である。これは状態図Z285の""より左側で反応が行われたのでなく、Si2がFeO以外の酸化物と反応して、スラグが出来たということになる。CaOとMgOはFeOとSi2の反応を阻害する働きがあり、これらの多い原料は鉄成分(T・Fe)の少ないスラグが生成されると考える。現在の高炉による製錬で石灰を入れるのは、この性質を利用して鉄がスラグの中に含まれないようにして、鉄の収率を上げているのであろう。

 

Z286.精錬滓領域の製錬滓.pngイギリスの紀元前の湖沼鉄の製錬では、経験からMnO・Ti2・CaO・MgOの少ない原料が選定され、低温で直接製錬が行われ塊錬鉄(iron bloom)が作られた。製錬滓はファイヤライトが中心で、MnO・Ti2が少ないことから精錬滓の領域に入っている。イギリスの紀元前の湖沼鉄の製錬滓と、日本の精錬滓(砂鉄、磁鉄鉱■)を比較した。Z286に示すように、MnO・Ti2・CaO・MgOの合計が2.0%(目盛1.4)以下であれば、例え精錬滓の領域にあっても製錬滓といえることが判った。


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66-13.阿蘇リモナイトは弥生時代に製錬されたか [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

2012年の日本考古学協会福岡大会の第1分科会「弥生時代後半期の鉄器生産と流通」の報告書の最後に、「弥生時代の鉄製錬に関しても熊本県阿蘇周辺の弥生時代後期に鉄器を大量に出土する遺跡が、リモナイトの分布地域と一致することなどは事実として指摘できるが、直接両者を結びつけることのできる遺跡はまだ確認できていないなど、今後の研究の方行性はある程度絞ることのできたシンポジウムではなかったかと考えられる。」とある。

 

Z287.阿蘇谷の弥生鉄器.png阿蘇の外輪山に囲まれた阿蘇カルデラは中央の火口丘により2分され、その北半分は阿蘇谷と呼ばれる旧湖底平野である。この阿蘇谷の狩尾地区からは阿蘇リモナイトと呼ばれる褐鉄鉱の一種の湖沼鉄が産出する。戦時中はこの阿蘇リモナイトが八幡製鉄に送られ、製鉄の原料にされたそうだ。現在でも露天掘りの鉱床があり、阿蘇リモナイトを採っている。阿蘇リモナイトを焼けばベンガラになり、狩尾地区にある弥生の湯口遺跡・下扇遺跡からは多量のベンガラが出土している。岡山大学の辻広美氏の「古代遺跡出土ベンガラの材料化学的研究」によると、湯口遺跡・下扇遺跡から出土した鮮やかな赤黄色の色調のベンガラを得るためには、阿蘇リモナイトを900℃で加熱し、水簸処理をしなければならないそうで、阿蘇谷に住んでいた弥生人の技術力を窺がわせる。

 

一方、狩尾地区にある7ヶ所の弥生遺跡からは多量の鉄器が出土している。下扇原229点、小野原A22点、池田・古園82点、前田3点、方無田17点、湯ノ口101点、下西山84点の総計538点である(鉄片・塊を除く)。1998年に「弥生時代鉄器の研究」を発表した川越哲志氏は、弥生時代の鉄器出土遺跡は、1,800遺跡、鉄器数は約8,000点としている。阿蘇谷狩尾地区の北東―南西8km、北西―南東2kmの狭い範囲から、弥生時代に全国から出土した鉄器の6.7%が出土している。これは異常であり、製鉄(製錬)が行われていたと考えなければ理解できない。しかし、考古学会は証拠が無いとそれを認めていない。また、下西山遺跡の鉄器片を分析した大澤氏は、鉄器は非金属介在物の少ない鍛造品で、素材原料はチタン・ジルコニウムが含まれていない鉱石系で、素材産地は大陸の可能性が強いとしている。

 

阿蘇リモナイトの成分(日鉄リサーチ、岡山大学、リモナイト工業の平均値)と前章「イギリスの鉄滓分析」で鉄滓と同伴した湖沼鉄の鉱石(6ヶ所15点の平均)の成分を比較した。

            TFe  SiO2  Al2O3  CaO   MgO  P2O5  MnO   TiO2

   阿蘇リモナイト 62.47  8.08  4.38  1.93  0.46  0.72  0.06  0.05

   イギリス湖沼鉄 41.08 19.64  4.67  1.26  0.47  1.04  0.68  0.28

阿蘇リモナイトの方のT・Fe成分が高く、その分Si2成分が低いという結果で、後の成分は良く似ている。阿蘇リモナイトを原料として、製錬が行われていてもおかしくない。もし製錬が行われていたとすれば、(CaO+MgO)はイギリス湖沼鉄より少し大きいが、(MnO+Ti2)の値が少し小さいため、その鉄滓はイギリスの紀元前の製錬滓と同じように、精錬鉄滓の領域に入って来るかもしれない。

 

狩尾地区にある3ヶ所の弥生遺跡からは鉄滓が出土している。湯ノ口148点、池田・古園1点、下扇原1点である。しかし、その成分の分析結果が報告されているものは何故だか1点もない。分析されているが報告されていないのか、分析されていないのかわからないが、弥生時代の製鉄を証明するには、阿蘇谷から出土する鉄滓だと思っていただけに残念なことだ。


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66-14.景行天皇は阿蘇地域の製鉄を知っていた [66.弥生時代に製鉄はなされたか?]

Z-41.景行天皇九州遠征.png『日本書紀』景行12年に、景行天皇は「熊襲がそむいて貢ぎ物を奉じなかった」と九州遠征をしている。その行程は図Z41に示すように、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から、豊前国の長狭県に渡り行宮を建て、その地を京(福岡県京都郡・行橋市)と呼んでいる。それから碩田国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至り、禰疑野(竹田市菅生)にいる土蜘蛛を討伐しようと、直入県の来田見邑(大分県直入郡・竹田市)に向かっている。稲葉の川上(稲葉川:竹田市)で、海石榴(つばき)の木で作った椎(つち)で土蜘蛛を討った。椎を作った所を海石榴市、血の流れた所を血田という。『豊後風土記』では、海石榴市も血田も大野郡(大野川中流域)にあるとしている。その後、景行天皇は日向国の高屋宮(西都市)の行宮に入られた。

 

景行天皇は日向で大隅半島の襲国(鹿児島県曾於郡)を平定したあと、九州巡幸を行っている。その道中で玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛を殺し、阿蘇国(熊本県阿蘇町)を巡り、御木(福岡県三池郡高田町)の高田の行宮に着かれている。熊本県玉名市から阿蘇町に行くには菊池川を遡り、鹿本町から支流の合志川を遡上し、大津町に出て阿蘇外輪山が途切れる立野より阿蘇谷(阿蘇盆地北部)の阿蘇町に入るルートと考えられる。

 

Z-42.九州武器鉄器.png景行天皇の九州遠征経路図を見て、不思議に思うことがある。それは、大分県側と熊本県側から阿蘇山に向かって内陸部に行っていることだ。表Z42は『邪馬台国と玖奴国と鉄』菊池秀夫(2010)に記載された、弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20を示したものである。⑤の徳永川の上遺跡は福岡県京都郡豊津町に在る。大分県では、⑫の守岡遺跡と⑬の下郡遺跡は大分市を流れる大分川下流の川沿いにある。⑰の小園遺跡と⑱の上菅生B遺跡は竹田市の大野川上流域近くにある。⑲の二本木遺跡、⑥の高添遺跡と⑮の高松遺跡は大野川中流域にある。そして、宮崎県では②の川床遺跡は西都市に隣接する新富町にある。熊本県では、⑦の方保田東原遺跡は菊池川沿いにあり、①の西弥護免遺跡は大津町にある。③の狩尾湯ノ口遺跡、④の池田・古園遺跡と⑧の下山遺跡は阿蘇町にある。図Z41にある赤丸はこれらの遺跡である。景行天皇の行程は武器類鉄器の主要な遺跡がある地域を巡っている。弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20のうち14遺跡が、景行天皇の九州遠征経路に入っている。

 

話は変わるが『魏志東夷伝』弁辰条には、「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、二郡にも供給している。」とある。この弁辰の鉄が、弥生時代の後期後半、3世紀にわが国に入って来た鉄素材の斧状鉄板(板状鉄製品)である。4世紀に入り西晋(280~316年)が弱体化すると、朝鮮半島の勢力図は一変する。北部にあった高句麗は南下政策を取り、313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡を滅ぼした。また、4世紀初め頃には馬韓から百済が興り、辰韓から新羅が興っている。4世紀初め頃には、弁辰の鉄の我国への供給はストップしたと考えられる。

 

私の編年した「縮900年表」によれば、景行12年は308年となる。弁辰の鉄の供給がストップしたことは、大和王権にとっては重大なことであり、阿蘇地域で製鉄が行われていたことを伝え聞いていた景行天皇は、鉄の素材を求めて九州遠征を行ったと考える。景行天皇が九州遠征を行ったこと、弥生時代に阿蘇地域で製鉄が行われていたことは史実であると考える。


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