SSブログ

6-3.高天原は北部九州 [6.実在した神代の世界]

図11銅剣・銅矛分布.jpg高天原が実在するとすれば何処であろうか?天岩戸や天安河があり、天鈿女命が舞ったとされる夜神楽が伝承されている宮崎県高千穂町が高天原の伝承の地としては有名である。しかし、江戸時代初頭まで大和朝廷は、奈良県御所市高天を高天原の伝承地としていた。ここに所在する高天彦神社は、延喜式では最高の社格の名神大社で、そこにそびえ立つ金剛山は、古くは高天原山といわれていた。  



神話に出てくる武器は剣と矛である。図11に弥生遺跡出土の
図12弥生鉛鏡同位体.jpg剣・銅矛分布を示す。荒神谷遺跡のある出雲が382本、と非常に多いが、84本の筑前、60本の肥前と北部九州が続く。大和は3本と非常に少ない。また鉄製武器でも同じで、鉄剣・鉄大刀・鉄矛では筑前が69本、肥前27本。出雲2本、大和は1本である。神代の神話に登場する剣や矛は、弥生時代で見ると出雲を除くと、北部九州が圧倒的に多く、畿内は非常に少ない事が分かる。
                  


神話では「鏡」が重要な祭器である。我国には朝鮮系の多鈕細文鏡が最初に入り、中国系の前漢鏡、後漢鏡、そして三角縁神獣鏡に代表される魏鏡が入って来た。
図12の鉛同位体分布図では、弥生遺跡出土の漢鏡と古墳出土の三角縁神獣鏡が2.14を境に明確に分れている。庄内遺跡と古墳出土の後漢鏡は116枚あるが、16枚が2.14以上図13弥生鏡.jpgで弥生時代のもの、残りの100枚が2.14以下で古墳時代のものであった。

 古墳から多数出土する後漢鏡は、弥生時代からの伝世鏡と研究者は主張している。しかし、古墳出土の後漢鏡の多くは、鉛同位体分布図で見るかぎり、魏の紀年鏡と同様、魏の時代に製作された後漢鏡デザインの鏡であった。弥生時代の舶載鏡は、弥生遺跡出土の鏡と言える。図13の弥生鏡分布図の通り、弥生遺跡出土の鏡は北部九州がが圧倒的に多い。


図14弥生の絹.jpg北部九州にある14の弥生遺跡から絹が出土している。本州・四国・南九州からの弥生遺跡からは絹が出ていない。図14にそれらを示す。この図は、布目順郎「絹と布の考古学」雄山閣より参照した。

弥生時代の銅剣・銅矛・銅鏡・鉄製武器及び絹の分布からみると、北部九州が多い。日本書紀の神代に出てくる、天照大神がいた高天原は北部九州、旧国名でいうと筑前、後漢書に記載された奴国に実在し、それが神話になっていったと考える。        (図をクリックすると大きくなります)


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 1

髭爺

 邪馬壹国(邪馬台国)の特産品とされるシルクは、漢民族が紡ぐシルクよりもきめが細かく肌触りが良いとされていたようですね。だから、卑弥呼の貢物は中国側に非常に喜ばれていたようです。
 その理由は三眠蚕と四眠蚕の差にあり、卑弥呼の祖先が渡来過程で仕入れた北方系の三眠蚕が吐く糸は細く柔軟性に富んでいたようです。邪馬壹国の主要衛星都市国家伊都国王家の祖先とされる天日槍が、大陸の高麗国に天降りしたという伝承と、暖かい北九州で北方系三眠蚕を育てて特産品としていた事実は、無関係でないと思われます。
 卑弥呼の時代の邪馬壹国の特産品が北九州に集中している事実と、持ち込まれた中国の鏡の分布と合せれば、所在地は特定できたも同然と考えるのが妥当と思います。それにもかかわらず、出土しているシルクに注目する人が少なすぎるような気がします。
by 髭爺 (2015-06-29 06:57) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。