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8-6.神武天皇は辛酉の年に建国 [8.朱は武器なしで国を平定]

11月7日、磐余彦尊は皇軍を忍坂と墨坂の二軍に分け、弟磯城を味方につけ、兄磯城を挟み打ちし、12月4日、ついに長脛彦を討つこととなり、戦いを重ねたがなかなか勝つことが出来なかった。その時、金色の不思議な鵄が飛んできて天皇の弓の先にとまった。その鵄は光輝き、長脛彦の軍勢は、皆幻惑されて力戦できなかった。時の人はその地を鵄の邑と名づけ、なまって鳥見となった。 

長脛彦は磐余彦尊に使いを送り「昔、天神の御子の饒速日命が天磐船に乗って天降りされ、我が妹を娶り可美真手命が生れた。私は饒速日命に仕えているが、天神は二人いるのか」と問い、饒速日命の天の羽々矢を磐余彦尊に示した。磐余彦尊は自らの天の羽々矢を示したが、長脛彦は反抗を止めなかった。饒速日命は義兄が改心の気持ちがないのを見て、長脛彦を殺害し部下を引き連れ帰順した。饒速日命は物部氏の先祖である。
 

239年(己未)諸将に命じて士卒を選び、まだ帰順しない者を誅された。葛城とか磐余の地名が生れた。畝傍山の東南の橿原の地で都造りに着手された。240年(庚申)天皇は正妃を立てようと思われた。ある人が「事代主神が、三島溝橛耳神の娘、玉櫛姫と結婚されて、生れた子を名付けて姫蹈鞴五十鈴媛といい容色すぐれた人です」と云い、姫蹈鞴五十鈴媛を召して正妃とされた。241年(辛酉)に磐余彦尊(神武天皇)が橿原の宮で即位した。
 

二年には、天皇は論功行賞を行っている。軍の監督者であった道臣命は築坂邑に宅地を賜り、特に目をかけられた。その家来の大来目には畝傍山の西、川辺(来目邑)の地を与えられ、船の水先案内をした椎根津彦は倭国造となった。宇陀の弟猾は猛田邑を与えられ、猛田の県主と言われ、宇陀の主水部の先祖である。弟磯城は磯城の県主とされ、剣根を葛城国造とした。剣根は高倉下であると、私は考えている。八咫烏も賞を受けた、その子孫が葛野主殿県主である。
 

四年には榛原の鳥見山に神々の祀りの場を設け、皇祖の高皇産霊を祀った。私の年表では、翌年の五年に腋上の嗛間の丘に登られて国見をされ、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国であるけれども、山々が連なり囲んでいる国だ」といわれた。
 

磐余彦尊は朱砂の探索に成功し、そして大和の橿原に宮を建て建国した。その後、大和王権は朱(丹砂)を魏に献上して、三角縁神獣鏡を得た。その鏡を倭国の国々に配布することにより、国を平定することが出来たのである。「飴(水銀)が出来ればきっと武器を使わないで天下を平定することが出来る」。まさに、日本書紀に記載された通りの歴史である。神武東征は史実であった。

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