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70-6.粟田真人は「甲類九州風土記」を編述した [70.新元号「令和」の深層]

上智大学教授の瀬間正行氏は『風土記の文字世界』(2011年)の「『豊後国風土記』・『肥前国風土記』の文字表現」で、『豊後』『肥前』の両書はその共通する特徴から、大宰府で一括編集されたとする通説に相反しない。両書の文辞・用字の酷似するという点は、やはり同一人物の筆と見るべきに傾くが、両所の間で微妙な表現の差異があることから、大宰府の指令と監督者の下に異なる編述者により筆録編述されているとした上で、両書の「総記」の前半部は、同一人に拠って書き下ろされた可能性が高いとしている。そして、両書は現存する他の三つの古風土記及び『日本書紀』β群に勝る漢語漢文能力をもった編述者の手になることが確認された。

 

『日本書紀の謎を解くー述作者は誰がー』(1999年)を書かれた森博達氏は、漢文で書かれている『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、『書紀』30巻をα群・β群・巻30に三分した。α群は唐人が正音・正格漢文で執筆し、β群は倭人が倭音・和化漢文で述作したとしている。瀬間氏によると、『豊後』『肥前』の両書は、β群に勝る漢語漢文能力をもった編述者によって書かれているとしている。β群は、神代、神武~安康紀、推古・舒明紀、天武紀を記述しており、森氏はその述作者を山田史御方としている。

 

山田史御方は唐への留学経験は無いが、学僧として新羅に留学し、帰国後還俗して大学で教え大学頭となっている。また、文章に優れ、文武天皇の慶雲4年(707年)には「優學士也」として褒賞されている。β群は仏典や仏教漢文の影響を受けており、山田御方の経歴はβ群の特性とも合致するとしている。 この山田御方より漢語漢文能力が優れている人は、唐への留学経験がある者に限られるであろう。それからすると、『豊後』『肥前』の両書は、大宰府で唐への留学経験がある者一人に拠って書き下ろされたことになる。

粟田真人は学問僧として12年間の留学経験を持ち、大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として唐に赴き、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美」と言わしめている。粟田真人の漢文の能力は中国人の知識人と同等以上で、『日本書紀』β群に優る漢語漢文の書記能力を有していると思われる。粟田真人が筑紫大宰師として大宰府に在任中の和銅6年(713年)5月に、諸国に風土記の編纂を命ずる「詔」が出されていることから、『豊後国風土記』『肥前国風土記』の両書を含む「甲類九州風土記」は、粟田真人よつて書かれたとするのが最適解だと思われる。

 

粟田真人が筑紫大宰師(長官)として大宰府に在任していたのは、和銅元年(708年)3月から、霊亀元年(715年)6月頃までである。『肥前国風土記』・『豊後国風土記』などの「甲類九州風土記」編纂に粟田真人が関わっていたとするならば、養老4年(720年)に撰上された『書紀』より「甲類九州風土記」が先に成立したことになり、『書紀』は「甲類九州風土記」に記載されていた天皇名を採用したことになる。こんなことがあり得るのだろうか。


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